眉山麓から藍のはなし

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      藍のはなし(古代~中世) 

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      藍のはなし(現代) 

      阿波藍商  

 

藍染のこと

藍でつくられた色

藍−公的機関での状況 

藍と阿波


藍と型染

の平常服として江戸時代になると裃の需要が多くなり、型染の技術が飛躍的に精巧になりました。この頃から片面糊置きの布に、刷毛で染料を引いて染める小紋染めの技術も行われはじめます。他の染料とは違い藍の裃小紋は何度も瓶の中に浸すので、糊が藍の液の中で落ちたり、くずれたりしない配合を天候に合わせ日々変えながらつくり、図柄を表と裏の両面から型を付けます。表にだけ柄を付けて染めると、裏は藍の無地になりますので高度な技術が必要とされていました。

 

型染の発祥時期はわかりませんが平安末期の鎧の革染めに型紙を使用した例があり、革を染めたのなら多分布も染めたと思われますが、現存する布はありません。上杉景勝所用と伝えられる「紺麻地環繋ぎ矢車文鎧下着」の小紋帷子(米沢市・上杉神社所蔵)などをみていると武士に愛用され技術が発達したように思われます。

 

応仁の乱(1467–77)で京都の町が荒廃したとき、京都の型彫職人たちが移り住んだ伊勢で生産がひろまり、その後江戸、会津、越後、秋田、青森、仙台などに型紙産地ができました。京都では紺屋の多い堀川筋に型紙を彫る型彫師、生地に糊を型付けし染め上げる型付師が、染め屋に直属して隣接していました。一方伊勢では白子•寺家の型紙生産者である彫師と型売業者は江戸に進出し、紀州藩の保護をうけ全国に型紙を売り歩きました。宝暦3年(1753)白子•寺家の両村の型屋は138軒あったといわれます。木綿が庶民の間で普及した江戸時代後半には、江戸好みの粋でしゃれた江戸型紙が生まれ、紙の型と防染糊によって洗練された文様が盛んに作られました。

 

型紙は紺屋の道具でもあり 使い古した型紙でも大切にしていました。伊勢型紙が全国各地に売られている様子から、紺屋が村々まで普及して中形と呼ばれる藍の着物を染めていたのです。

 

白子•寺家の両村の行商国名に記されていないのは阿波、大和、京都だけでした。


藍と絞り

事のないまま徳島へ来て、突然、藍染制作で生活をすることになったとき、「絞り」に助けられて30年間住み続けられました。織物が好きでしたが技術習得の時間も余裕もなく、尊敬していた片野元彦氏の絞りの本が先生でした。針痕を見れば大体どのように絞ってあるのかわかりますし、何といっても針と糸だけで始められました。絞りは自由で、すなおな魅力があると古い作品を見ていて感じます。

 

正倉院や法隆寺に「纐纈」と称した見事な絞りが残されています。古くから「くくり」と呼ばれて万葉集にも詠まれているように、布を糸で巻いて文様を染め出す手法は一番手短なことだったからでしょう。絞りの歴史は辿れないほど古く、有史以前から南米ペルーやインド、アフリカ、中国など世界のいろいろな場所で思い思いの絞りが誕生していました。

 

原始的な絞りは宮廷では衰退して姿を消していましたが、庶民の間で細々とつなぎ続けていました。武士の台頭から再び「目結(めゆい)」として糸で括った絞りがさまざまな文様になって発展していきます。藍とも相性のよい絞りは地域のなかで新しい技術が生まれ、交易に適した地域の中から大分の豊後絞り、愛知の有松絞り、京都の鹿の子絞り、福岡の博多絞り、岩手の南部茜・紫根絞り、秋田の浅舞絞り、新潟の白根絞りなど多くの産地が生まれました。これらの地域から発信されたものが、また多くの人の手で展開させながら、百種以上の絞り加工の多様性、技術の精巧さを競っていたことだろうと想像ができます。

 

 

明治10年の絞染産地の分布は福岡20万反、愛知16万反、長野2万6千反、大阪2万5千反、秋田、山形、東京、新潟、愛媛、徳島も5500反の生産があったことが「第一回内国勧業博覧会」の報告書からわかります。その後各地で長板中形(木綿型染)の生産が増え流行するようになると、有松の嵐絞りが明治27、8年ころ年産100万反で人気を得ますが、絞藍染木綿の国内需要は減ることになります。有松でも合成藍の使用を認め、明治33年~40年には多くの紺屋で合成藍の使用が始まります。

 


《阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ー》 取次方法のお知らせ

私が藍との関わりの機会を得たのは、両親が徳島県出身で祖母の家へ訪れたおり、藍染工場の見学に行ったことから始まりました。思春期の1970年代は伝統的な工芸や郷愁を感じる日本の地域が注目を集めていました。藍染のことは書物や雑誌、メディアによって知ってはいましたが、徳島で聞いた話は藍の染料と染色液をつくる過程と藍栽培量の少なさでした。全国で一番栽培されている徳島で藍作農地が4~10ヘクタール程で、北海道など他地域の栽培も僅かだと知りました。編集者や記者たちは全国で藍染をしている人々の話を伝えていましたが、使われている染料が作られている農地面積や栽培量は気に掛けず、農林水産省の統計で調べることは行わなかったようです。

 

1988年1月29日-2月10日に池袋の西武アート・フォーラムにて「藍染の展望:江戸–現代/阿波藍誕生600年記念」協力:京都無名舎/大阪日本民藝館 と銘打った展覧会が開催されました。本展の副題が阿波藍誕生600年記念となった典拠は、「兵庫北関入舩納帳」の発見によって文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、年間約500石(1石=150キロ 約75トン)の葉藍が、阿波から東大寺領北関に荷揚げされていたことの記載があったことに依ります。

 

阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたい、と考えるようになって徳島へ移住することを決心しました。藍が渡来した時期•経過も知りたい、奈良時代のことは比較的書物でわかるけど古代から現代までの事情が知りたい、蓼藍の原産地は温暖な東南アジアや中国南部といわれているけど、温帯地域の日本で染法が根付く筋道など、調べたいことが尽きることはありませんでした。気が付くと40年が過ぎてしまいました。染織の教育も歴史も専門家ではないので、知識も筆力も満足できるものではありません。優れた人に資料提供を願っていたのですが、機会に恵まれず人生の先も少なくなり暫定的に纏めました。そしてようやく1冊の本が出来ました。『阿波藍のはなし』-藍を通して見る日本史- として10月8日に自費出版します。今まで集めてきた資料の纏め集ですので厳密性に不安はありますが、興味を持って読んでくださった方に十分な検証をしていただきたいと希っています。多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと思います。皆様のご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。

 

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阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ー

文:森くみ子 写真:伊藤洋一郎 森くみ子

発行所:自由工房

サイズ B5 132頁 左綴じ

価格 3,240円(税込)

表紙 あさぎ版 or しろ版(内容は同じです)

郵送方法

 送料 1.ゆうパケット 1冊=250円 2冊=300円

          2.レターパックライト1冊~3冊=360円 

          3.レターパックプラス4冊~8冊=510円 

支払方法 1.銀行振込 0r 2.郵便振替 どちらかお選びください。 

 

《お申し込み方法》

 

1.お名前・2.住所・3.電話・4.表紙の色・ 5.希望冊数・6.郵送方法・ 7.お支払方法を記載の上、下記アドレスまでメールにて 森までお申し込みください。折り返しこちらからメールにて振込先など詳しいことをご連絡します。本の発送までお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 

📧 hanadajapanblue.info を@に換えてください

 

  表紙の色はあさぎ版としろ版がありますが、本文の内容は同じです。表紙の色を決めかねたことより2色で展開しています。指定の色が書かれていない場合こちらで決めさせていただきます。まぎらわしくて申し訳ございません。

 

 

    あさぎ版             しろ版


縹藍紺 JAPAN BLUE 展覧会のお知らせ

105()−1020() 展覧会が開催されます。

5~13日の間ほぼ?在廊します。是非ご高覧ください。

 

★ 先行して展覧会場《ギャラリー新居東京》で阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ーを販売いたします。

 

縹藍紺JAPAN BLUE 2018

第9回森くみ子展ー深遠なる蒼い時間ー  

11:00-19:00 (土曜・10/8祝は18:00) 日曜休廊

                          ✦✦✦✦✦

ギャラリー新居東京 

104-0061 東京都中央区銀座1-13-4銀座片桐ビルⅢ5F

Tel: 03-6228-7872 Fax: 03-6228-7873

    URL:http://www.gallery-nii.com

 

阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ー

文:森くみ子 写真:伊藤洋一郎 森くみ子

発行所:自由工房

サイズ B5 132頁 左綴じ

価格 3,240円(税込)

表紙 あさぎ版 or しろ版(内容は同じです)

 

 

ご興味をもたれて読みたい方へは展覧会後、取次方法を考えたいと思います。

 


藍でつくられた色ー⑨ 縹 -花田

は「はなだ」と読み、持統天皇4年(690)に初めて色名が確認できます。最初の服色制度として冠位十二階が施行され、これまで使われていた位色の「青の大小」から「深縹•浅縹」に表記が変わります。この時代の青の色名と色の解釈はまだ推定のままですが、後の延喜式縫殿寮には縹が深•中•次•浅の4段階に分けられ、色を得る為の材料用度からも「縹」は藍で染めた純粋な青色です。

 

今では余り馴染みのない漢字「縹」は中国の後漢時代に文字の意味を説いた『釈名』に「縹ハ漂ノ猶シ。縹ハ浅青色也」と『説文解字』にも「帛の青白色なるものなり」と書かれているように淡い青色でした。奈良時代は秦漢の影響を大いに受入れていますので、日本で「はなだ」と呼ばれていた色が、中国では「縹」と呼ばれている色名•色相と染法だった為、文字だけ用いられたと考察されています。そして日本固有の「はなだ」と呼ばれていた浅青色の染料は「鴨頭草」だと考察されています。公文書の中には「縹」の字はその後も散見しますが、平仮名が現れてからは源氏物語•蜻蛉日記の中に「あさ花だ」と書かれているように「はなだ•花だ」と同じ表音で表記されることが多くなります。室町時代になると古今連談集などには「はなだ」も見られますが、「花だ色」「花色」という表記も見られるようになります。

 

江戸時代になって藍の生産が増え、木綿の着物が市井の中に広まるとともに「花色木綿」「花色小袖」「花色羽織」「花色小紋」「花色繻子」と盛んに用いられ『好色一代男』『新色五巻書』『洒落本•辰巳之園』など多くの書物に藍で染めた色が「花色」の表記で書かれています。『書言字考節用集』六巻では「縹色ハナダイロ 花田色ハナダイロ」と同色を意味するように書かれています。江戸時代の人口80%程を占める農民の衣類には、木綿•麻藍染無地•縞、衿•袖口は花色•浅黄•萌黄の木綿無地というように厳しい制約がありました。庄屋には紬や絹を認める事もありましたが、色はほとんど似たようなもので茶の堅魚縞が認められていました。多くの人たちが着用している藍染の布帛類の色は、藍色とは呼ばれていませんでした。

 

江戸時代までは花田色や浅葱色が藍の染料だけで染めた色だと考えていたようです。現代では藍で染めた色といえば藍色を示し、書籍やメディアや人々の間で広く使われています。

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 

 


縹藍紺 JAPAN BLUE 展覧会のお知らせ

105()−1020() 3年ぶりに展覧会を開催します。

 

縹藍紺JAPAN BLUE 2018

第9回森くみ子展ー深遠なる蒼い時間ー  

11:00-19:00 (土曜・10/8祝は18:00) 日曜休廊

 

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ギャラリー新居東京 

104-0061 東京都中央区銀座1-13-4銀座片桐ビルⅢ5F

Tel: 03-6228-7872 Fax: 03-6228-7873

    URL:http://www.gallery-nii.com

 

阿波藍を調べはじめて40年。ようやく1冊の本が出来ました。

これまで阿波藍のことを長く調べてきましたが、それは日本の藍の歴史でもあります。日本列島に存続し続けた藍の物語を掘り起し、残すべき情報を考察する作業でした。私が集めてきた資料の纏め集ですので厳密性に不安はありますが、興味を持って読んでくださった方に十分な検証をしていただきたいと希っています。多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと思います。今回の展覧会は、この『阿波藍のはなし』の発表も兼ねております。

是非ご高覧ください。皆様のご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。

 

 


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韓藍

葉集では「韓藍」は「辛藍」「鶏冠草」などとも書かれていて4首詠われています。「古くは色を染める材料、即ち染料はすべて「あゐ」であり、「韓あゐ」「山あゐ」「呉あゐ」或いは「紅草」ができるから「阿為山」と名付けたという古い記録(筆者補足:播磨国風土記)などすべてこれを物語っている」と上村六郎氏は書いていますが、藍のことになると解釈が少し強引な印象があります。茜の染料の説明は理学博士として、成分の分析もして西洋茜と日本茜の染色方法の違いを説明しているのに、藍/あゐに関しての解釈は安易な結論に終止していて、その後50年以上のあいだ異義もなく、多くの人がこの解釈を踏襲しています。

 

吾屋戸尓 韓藍<種>生之雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念(巻3-384)山部赤人

秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟(巻7-1362)

戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来(巻10-2278)

隠庭 戀而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八方(巻11-2784)

 

韓藍はケイトウ(鶏頭)であるといわれ、原産地のインドから中国、朝鮮半島を経由して天平時代に伝わったといわれています。平安時代に書かれた『本草和名』鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあい)とされていることからです。歌の内容から見て韓藍の花は、秋に咲く染まりやすい植物だと考えられます。

 

平安時代の和歌には「韓藍」の名は見えなくなり、再び中世になって取り上げられるようになります。奇妙なことに韓藍の色を青色としている歌も見えるようになります。

わが恋はやまとにはあらぬ韓藍のやしほの衣ふかくそめてき(続古今集 九条良経)

竜田川やまとにはあれど韓藍の色そめわたる春の青柳(壬二集 藤原家隆)

 

 

現在見られるケイトウは、江戸時代になってからの花弁を鑑賞する園芸植物です。花軸が鶏の鶏冠状になっているから、鶏冠草と呼ばれていたことが文字からも確認できます。韓藍という名前は摺染めに用いられたことに由来するともいい、赤い花を絞って染料にしたと思われますが、赤い色水はつくれますが染まることはありません。一晩で色は無くなり、茶色い染みが残るだけです。原種が現在のケイトウと違うとしても、薬用の記載はその後もありますが、平安時代には染料としての実用は廃れています。中世以降は紅色、青色を染める花として詠まれていますが、万葉集で詠まれた韓藍はやはりケイトウだったのでしょうか。

 


呉藍 紅花藍

藍は和名を「久礼乃阿為」くれのあい、やがて漢名の紅藍・紅花を用いるようになります。飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て渡来したといわれています。呉国(中国)から伝えられた藍(当時は染料の総称)という意味で、「くれのあい」が「くれあい」と約されやがて「紅」の字を当てるようになったといわれています。万葉集では29首が詠まれていますが「くれのあい」から「くれない」に変わっていて、末摘花を併用しているものも1首あります。赤の色素を持つ植物は少なく、古代染色の中でも紫とともに貴重な染料で、茜に比べて鮮やかな色は貴族の憧れの色でした。

 

藍のことを調べていて「呉藍」の文字を初めて見たのは『和漢三才図絵』に掲載されている藍・藍澱・青黛の説明文のなかです。正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)で、中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて解説をしています。藍の項目に藍の種類として「蓼藍」「菘藍」「馬藍」「呉藍」「木藍」が記載されています。蓼藍の和名が付け加えられただけで、説明文は本草綱目の引用と国内での藍の説明があります。1596年の薬物書『本草綱目』李時珍には「藍凡五種‥‥」からはじまり蓼藍、菘藍、馬藍、呉藍、木藍の五種類の藍草の葉の形や花の色などの説明がされています。私が確認できた『本草綱目訳説』小野蘭山(1729–1810)は書写年が不明ですが、日本には最初の出版の数年後には輸入され、その後中国で版を重ねることに和版を出版して、和刻本は3系統14種類に及ぶそうです。

 

中国においては、古くから数多くの本草書が編纂されており、梁の陶弘景により480年頃改訂復原した『神農本草経』別録に初めて「大青」の名が挙がっています。その後の本草書、医薬の書物などにも藍は掲載され、時代が経つと馬藍、木藍などの科の違う品種の藍草の分類や、その薬効についても追加されるようになります。

 

万葉集の原文に1首だけ呉藍の表記がありますが、他との意味の差異はありません。

 

呉藍之 八塩乃衣 朝旦 穢者雖為 益希将見裳

くれなゐのやしほの衣朝な朝ななるとはすれどいやめづらしも(巻11–2623)

 

 

如何なる草を想像して詠まれたのでしょうか。

 


紅花 紅藍花

物書『本草綱目』(1596)李時珍に「べにばな」はどう説明されているのでしょうか。漢名は「紅藍花」『釈名』では「紅花」「黄藍」その花は紅色、葉は藍に似ているので名に藍がある。と書かれています。薬物書『経史証類備急本草』(1061年)唐慎微では「紅藍花」産業技術書『天工開物』(1637年)宋應星には「紅花」紅花餅の造方法も記されています。

 

日本での呉藍→クレノアイ→紅藍→紅花と名称の移変りを説明する文献は『本草和名』『和名類聚抄』『和漢三才図絵』を引用して論ずる場合が多く見られます

『本草和名』は醍醐天皇に仕えた侍医•深根輔仁が延喜年間(901–923)に編纂した薬物辞典です。長く不明になっていた上下2巻全18編の写本が発見され、寛政3年(1796)に校訂を行って刊行されました。下巻の第20巻有名無用193種に「紅藍花」久礼乃阿為と記されています。上巻の第6巻-第11巻草上中下の中に藍実•茜根•紫草の記載があり、第19、20巻は後年の付け加えかも知れません。

『和名類聚抄』は平安時代の承平年間(931–938)に源順が編纂した辞書です。私が確認できたものは那波道円校注の元和3年(1617)刊の元和古活字本です。第184染色具の中に「紅藍」はあり『辨色立成』では久礼乃阿井「呉藍」と同じ。と記され「紅花」俗用之。とも記されています。辨色立成は現在存在していなくて、和名類聚抄の中にしか書物の名は見つけられないようです。中国の書といわれていたこともあったようですが、中国でも文献は見つかっていません。

『和漢三才図絵』は正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)です。「紅花」紅藍花 黄藍 俗云 久礼奈伊 呉藍クレノアイ、「藍」の解説と同じく中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて説明をしていますが、ここでは『釈名』の説明は記されていません。文政7年(1824)の秋田屋発刊で確認していますが薬効としての説明より、国内での栽培産地や染色の仕方などの記載がされ、口紅のことも記されています。

 

本草綱目』釈名で記されていた葉が藍に似ているというのを推測できる文献は、『経史証類備急本草』で「呉藍」と「紅藍花」の図がそれぞれ確認できます。簡素な図なのではっきりと断言できませんが、呉藍の葉は茎が長く蒿(よもぎ)に似ていると書かれているので正確な記述のように思えます。

 

 

「従来わが邦で用いられている漢名には、その適用を誤っているものがすこぶる多い」植物分類学者•牧野富太郎が随筆の中で語られているのを考慮しながら、遠い昔の標野を思うのです。

 


藍でつくられた色ー⑧ 褐色

色は「かちいろ•かちんいろ」と呼ばれ、紺よりさらに濃く黒く見えるほど暗い藍染の色です。平安時代から褐色の名称は見られ、『宇津保物語』『梁塵秘抄』の中に「かちの衣着たる」「飾磨にそむるかちの衣着む」と書かれています。古くは中将•少将も着用しましたが、野外に行幸するときに随従した者が着た衣服で、後には高官などを警護する武官や兵士が着るようになります。「青褐」の色名は正倉院文書の中にもみられ、延喜式•弾正台の中にも随従者の服の色として記されています。「褐返し」という別の色で染めた上に藍で染めた色を表す表記も平安時代の書物にあります。

 

「褐色」の色相は多くの解釈があって未だにはっきりした説にはなっていません。藍を濃く染めるために、生地を「搗(か)つ」=搗(つ)くことで染法から名付けたともいわれています。現代では褐色「かっしょく」と音読みして色相は茶色や焦茶色をさしますが、中国から伝来した初めは現代と同じく茶色を意味していたものと思われます。鎌倉時代の武士に広く用いられるようになると、褐=勝に結び付けられて藍で染めた濃い紺色が直垂や鎧•縅などに使われ、褐色•勝色と表記され資料が多く残ります。

 

江戸時代になると「かちん色」「かちん染」と呼ばれ、『貞丈雑記』(~1784執筆1843刊行)伊勢貞丈には「かちん色と云は黒き色を云。古異国より褐布と云物渡しけり。其色黒き色なりし故黒色をかち色ともかつ色とも云。……褐布は今の羅紗の類にて毛織也。……俗にかちん色と云。」『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)には「西土の書にはいずれにしても黒色を兼ねたる色を何褐色と云ふ。たとへば、トビ色を素褐色、アヰミル茶を青褐色、キカラ茶を貴褐色といふ。皆黒色を兼ねたる色なり…」随筆『神代余波』(1847)斎藤彦麿の中では「かち色といふも、極上紺の濃く黒くなりたる色也。さるは近年は空色と浅黄との間にて匂ひやかならぬをいへり。さる物にあらず。紺に染て臼にてつき又そめて、𣇃(つ)きいくたびもいくたびもしかれば黒くなりて赤き光り出る物なり」と記されています。

 

明治になり軍服の用度の中に「褐布」が見られます。茶褐布はカーキ色、紺褐布は濃紺色とし、羅紗であったので次第に茶褐絨•濃紺絨の表記が多くなりました。日露戦争時には再び「勝色」「軍勝(ぐんかつ)色」などとしての呼名が流行したそうです。

 

文化12年(1815)刊行の藩撰の地誌『阿波志』は各町村の役人に命じて、郡ごとの沿革や耕地•租税•寺社•古跡•産物を編纂している史料で、その中に板野郡撫養(鳴門市)の産物として「褐布撫養出」「韈(たび)亦撫養出以褐及草綿布製之」と書かれていますが、この鳴門産•褐布はどのようなものだったのでしょうか。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 


藍商人-❽ 鹿島屋甚右衛門

伊国熊野(和歌山県)あるいは播磨国高砂(兵庫県)の出身といわれる寺沢家は、蜂須賀入国以前から小松島で流通を支配する藩政初期からの豪商でした。勝浦川•那賀川下流の番所を任され、魚屋とともに阿波藩札を任されるなど重要な御用達商人でもありました。寺沢六右衛門と井上助左衛門は縁戚となり、井上家は寺沢家の分家になります。鹿島屋初代井上甚右衛門は、寛永年間(1624–44)から自ら船に乗り廻船業を営み、4、5艘の大船を持つ成功を治めたといわれます。寛文年間(1661–73)には駿河国沼津に支店を置き染店を開き、沼津を拠点に駿河•伊豆•相模•甲斐•信濃に商圏を広げ、その後も中国•九州への販路拡大をはかります。

 

鹿島屋の商業関係の資料の多くは安政の地震にともなう火事により殆どが失われ、後の伝聞的な記録によるといわれています。家法には先祖より商業の中心は阿波ではなく沼津(静岡県)など国外で商売をすること、資金は本家に集め親類を含めた合議制で家を運営すること、質素倹約を守り先祖崇拝など細かな決め事が中心で封建的な内容でした。戦前の財閥の先駆的な形といわれるように、分家別家の資金までも勘定に細かく計算され、商業者の理念を独自につくり出すことで合理的な家内の制度や組織をつくりました。鹿島屋の勘定は、本支店間の貸借りにも利息がつくなど徹底していて、為替のやりとりも頻繁におこなわれ現在の商社のような商業組織でありました。

 

阿波で商売をしない鹿島屋は沼津本店を中心に、早い時期から藍玉•塩•米穀などを扱い、味噌•油•染店•質物•貸金などと広範囲の商業活動をしていました。他にも三島店では飛脚問屋を営んでいて、陸上流通にも関わっていたようです。地域の染店経営者に対して株を発行し、藍瓶などの道具類を貸して商売を営ませて原材料である「藍玉」を販売するという、現在のチェーン店方式のような強固な商圏を作り上げていました。鹿島屋は藩による売場株が設定された後も振り売りの自由な販売を行っていましたが、幕末には藩の体制に組み込まれることになります。

 

天保11年頃に五代甚右衛門のとき那賀川河口の三角州である辰巳新田の開発をはじめますが、苦難苦闘の開拓事業でした。すでに駿河や伊豆の出店周辺では質地地主となっていましたが、徳島藩領内でも巨大な金額を投じて123ha余りの新田地主となります。

 

幕末の激動の中で藩に忠誠を尽くした九代甚右衛門は、戦費調達の中心人物として兵糧米を上納し、輸送などにも活躍します。この功績から藩所有「戊辰丸」の徳島–東京間の運航を命じられ、藩内外の諸物産の交易事業を行います。阿波藍商人による「大規模流通組織確立」を独自で構想しましたが、明治新政府による三井組を中心とした東京通商会社によって、全国的な商品流通が組織され明治4年の廃藩置県によって実現されず海運事業は消滅しました。明治5年に蜂須賀家から戊辰丸を3万両で購入し「鵬翔丸」と改名し阿波藍•静岡茶•鯡粕の輸送をはじめますが、明治14年陸奥国三戸で激浪により沈没しました。幕末の全国版•長者番付の前頭にも名を載せた、藍商•鹿島屋甚右衛門はこれが引き金となり没落します。


山藍 韓藍 呉藍

 のことを調べ出した切っ掛けのひとつは、万葉集に詠まれている藍の表記からでした。古代日本の記録は和語にあてた漢字で表記されているため、理解が進まないものが多くあります。山藍、韓藍、呉藍の解釈に何故かしっくりこないまま、40年もの月日が過ぎてしまいました。青色を染める藍草は万葉集では詠まれていないことにも、なにも説明ができずに資料ばかりが増えてしまいました。興味のある方、詳細な方は一緒に考えてみませんか。

 

山藍(やまあい)の表記が見られるのは、呉藍(くれない)も一緒に詠まれている一首です。(巻9-1742)高橋虫麻呂 「‥山藍もち 摺れる衣着て‥‥」というように山藍が使われるときには、「染め」という表記ではなく青摺りとも記されたりするように「摺り染める」と使われています。古事記や平安時代の法律である令義解延喜式のなかに見られる神事祭司の記述の中、紀貫之の詩歌にも記されています。この山藍は「トウダイグサ科の多年草。暖地に自生し高さ40cmほどに成長する。藍色を含んだ野性の藍草。この葉の液汁を用いて青摺衣をそめた。」(染色辞典 中江克己編 1981)とあるように、山藍はタデ科の藍草とは違う植物だと推定されています。

 

「大和民族が発見したのは山藍で、藍の含有量が少なく、従って大陸から蓼藍が伝えられると、まず出雲族あたりからこれが用いられはじめ、やがて全く山藍が実用されなくなったものと考えられる。御即位式の際の小忌衣のように、特別の儀式にのみ、古来から今日に到るまで、この山藍摺の衣服を用いるのは、恐らくはこうした事情のためだろう。」(生活と染色 上村六郎 1970)京都帝国大学で繊維•染色を学び、理学博士である上村六郎氏の他の書籍でもこの理論は説かれ「山藍は天皇部族の発見した独自性の藍である。と(自分は)結論をだしている訳である」とまで云っているのです。

 

従来から山藍にも藍の含有があると記されていることに、疑義をもった後藤捷一氏が化学分析をしてみた結果、藍(インジゴ)は含有していないことが確認されました。これにより万葉時代以前から使用されていた山藍は、生葉を搗いて出る汁から青磁色の染め、もしくは葉緑素染の緑色だとの考えが有力になってきました。葉緑素染ですと一晩での変色は免れませんし、水洗いには到底耐えられないと考えますが、現在も京都石清水八幡宮で採れる山藍を用いて、京都の葵祭、奈良の春日大社の衣装に使われているようです。

 

 

そうすると紀貫之が数首読んでいる、山藍を含む和歌の意味が解らなくなります。神事の長さを詠うことで、その神に守られている天皇を賀茂祭で慶祝する意味を籠めた「ゆうだすき ちとせをかけて あしびきの 山藍の色は かはらざりけり」(新古今和歌集 賀歌 712番) 山藍の色はどう説明したらよいのでしょうか。

 


重要無形文化財と藍 Ⅳ

和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、30年(1955)に正藍染が指定されてから「正藍染」の表記が藍染製品に多く使われるようになります。重要無形文化財千葉あやのによる藍染の技術を指した言葉でもあるのですが、他の藍染にも自ら「正藍染」を使い合成藍を使った藍染との区別をしたことからです。「正藍染」「本藍染」と偽装表記してもなにも罰則はないことから、明らかに天然藍で染めていないものにも使用がはじまり、本来の意味を保証できるものではなくなりました。

 

今度は阿波藍の存続を願う人たちによって、「天然藍灰汁醗酵建」「灰汁醗酵建正藍染」「阿波藍灰汁醗酵建」などとより具体的に「正藍染」「本藍染」との区別がはじまりました。根本的に天然染料と合成染料を区別して表記する規制は存在しません。狭い範囲で自分たちが本来の藍染をしている製品名だと訴えても、消費者には何も伝わらないし却って無関心になってしまいます。なぜ関係者が藍製造の生産を存続・支援するため、消費者に応援していただけるように適正な品質表示が進まなかったのでしょうか。

 

農作物では畳表が「農林物質の規格および品質表示の適正化に関する法律」で日本農林規格(JAS)によって規格されています。繊維、染料の規格は日本工業規格(JIS)により繊維の種類とか染料の堅牢度は表示されていますが、近代の技術に対しての対処です。最近ではオーガニックコットンがJASにより繊維は対象外とされたことより、特定非営利活動法人 日本オーガニックコットン協会(JOCA)、日本オーガニック流通機構(NOC)で独自に認証制度を設け定義をして消費者に伝えています。

 

 

オーガニックコットンのように世界各地から輸入される製品でも、大変困難な適正表示をしようと試みられています。国内生産の藍が定義をしないまま情報が一人歩きしないように、長い歴史をもつ徳島県の関係者には大きな視点をもつ必要があると思います。栽培面積が平成26年14.8haにまで減少しています。19年全国藍栽培面積は徳島が17.9ha、北海道5.0ha、兵庫1.1ha、青森0.7ha、宮崎0.1ha、沖縄5.9haですが、最近いろいろな地域で藍栽培をはじめ蒅をつくるところが増えています。これからの藍染の定義を深めるためにも、藍のネットワークができることを望みます。

 


伝統的工芸品産業と藍 Ⅱ

統的工芸品産業の振興に関する法律により通商産業(現:経済産業)省によって認定された主な織物は結城紬、伊勢崎絣、桐生織、黄八丈、塩沢紬、小千谷縮、加賀友禅、信州紬、有松・鳴海絞り、近江上布、西陣織、京鹿の子絞、弓浜絣、博多織、久留米絣、本場大島紬、久米島紬、宮古上布、読谷山花織、与那国織などで、昭和53年(1978)阿波正藍しじら織も認定されました。平成27年(2015)には経済産業大臣により選定された伝統的工芸品の染織関係は47点まで増えています。

 

選定された織物は、催事の企画、雑誌の特集にも「日本の伝統織物」として多くの人の知識に、江戸時代から続く特別な織物として記憶されることになります。選定された阿波しじら織は昭和12年に一度生産が中止になり、戦後復活していました。「阿波正藍しじら織」の指定基準は1:先染めした綿糸を用いること。2:染色は蒅/すくもをブドウ糖、ふすま、苛性ソーダで還元可溶化した藍染であること。3:しじら織であること。このしじら織とは藩政時代に「たたえ織」といわれていた原組織の平織と、経糸3本(たたえ糸)を引き揃えた緯畝織とからなる混合組織です。しかし実際は「先染めを蒅/すくものみによって行うことは産業としては成り立たない、蒅は高価で経済的に折り合わない」と選定の伝統的工芸品を生産している事業所はなく、展示用に保存しているだけです。市場にでているのは「徳島県伝統的特産品」のしじら織です。こちらの染めは一般に高温型反応染料を用い、紺色のみ反応染料で染め上げた後、蒅/すくもをハイドロサルファイトと苛性ソーダを用いて還元した染液に1回のみ染め「阿波しじら織」と称して市場にでるわけです。よく調べれば偽装ではないのですが、情報発信された映像、パンフレットをみると多くの人は「阿波正藍しじら織」と思ってしまいます。

 

 

阿波藍に関して云えば昭和53年の時点で40年の4haよりは増えて15haまでにはなりましたが、とても日本の伝統織物の藍染に使用される生産にはなっていません。

 


重要無形文化財と藍 Ⅲ

化財保護法において、歴史上または芸術上価値の高い染織技術を「重要無形文化財」「無形文化財」として、その関連する材料や道具をつくる技術を「選定保存技術」染織技術に関わる道具やその資料を「有形民俗文化財」染織技術に関わる習俗が「無形民俗文化財」で保護されています。

 

昭和30年(1955)には阿波藍栽培加工用具が「重要有形民俗文化財」として、53年(1978)に阿波藍製造が「選定保存技術」に選定されました。重要無形文化財を支える技術としての仕組みなのですが、同じ「もの」を作るための「技術」が文化財とそれ以外の関連技術に選別するのでは、染織品を作り出す技術や意図を一体に考えることができないと思います。文化庁は無形文化財と選定保存技術に線引きされた異なる枠組みでの保護体制をとっているため、技術とその技術の発達してきた必然的な関係は生まれ難く、いま生きている技術は過去のものになり、一面だけ保護された染織品になってしまいます。技術を総合的に保護する重要性を考え、現在の枠組みを超えた無形文化遺産として想像した保護になることを望みます。

 

藍・染料関係では昭和54年本藍染・森卯一、植物染料(紅・紫根)生産・製造が財団法人日本民族工芸技術保存会、平成14年琉球藍製造が選定保存技術に指定されています。

 

 

平成15年(2003)に締結された世界無形遺産条約では「無形文化財」と「無形民俗文化財」の区別は設けられていません。保護するための学術的、技術的および芸術的な研究と調査の方法を促進し、権限のある機関を指定、設置することで役割を決め計画を建てることで保護から発展、振興のための政策に努めています。そして機関の設立のための立法上、技術上、行政上、財政上の措置を考え無形文化遺産の伝承を進めています。

 


伝統的工芸品産業と藍 Ⅰ 

和49年(1974)に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。伝統的に使用されてきた原材料を用い、伝統的な技術、技法によって製造することが挙げられていますが、目的は地場産品を生産し流通させ、産地が存続することにあるように思います。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする。」と重要無形文化財に比べると材料に対しても技術に対しても継続性を踏まえて、時代に即した変化が認められている基準になっていました。

 

昭和51年(1976)文化財保護法の改定によって、重要無形文化財の指定を受けている久留米絣の技術保存者会が発足します。同年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により久留米絣が伝統的工芸品の指定を受けます。この時点で小千谷縮や宮古上布、久米島紬を含む染織関係は23点が指定されていますが、その後結城紬と芭蕉布も指定され、越後上布のみ重要無形文化財だけの指定となります。重要無形文化財で指定された久留米絣と「伝統証紙」の付いた久留米絣にどのような違いがあるのか、多くの消費者にとって重要無形文化財との区別に混乱を与えたことと思います。

 

精巧な紛いもの、類似品からの識別のめやすを提供することが重要だと「伝統証紙」などを貼付したことは、消費者にとっては伝統的工芸品の内容を理解しないまま「伝統証紙」の付いた伝統的工芸品を国のお墨付きとなった「工芸品」だと思ったかも知れません。いずれにせよ、昭和50年代これらの織物が天然藍による染めが規定されていないことを伝えると一様に疑問を持たれました。

 

「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」によって伝統的(100年以上の歴史を有し、現在も継続している)工芸品づくりを伝承することは困難で、それは産地の技術・技法の保護より地場産業産地の経済的な発展を振興しているからです。そして伝統的工芸品の生産額は昭和49年以降、経済成長のなか年々増加を続け59年(1984)には生産額が最高となりました。

 

 


重要無形文化財と藍 Ⅱ

高 度経済成長で余裕もでてきた昭和40年代は、社会的背景の急速な変化が生まれました。日本万国博覧会終了後の旅客確保の対策として、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」などで日本各地に残る古い町並みや伝統工芸が見直されるようになります。重要無形文化財に指定された人間国宝の紹介シリーズ、伝統工芸の展覧会も多く企画され、ドキュメント、書籍、雑誌などでもたくさん紹介されていました。

 

首都圏に住んでいたわたしもこれらの情報を食い入るように読んで見て、いつか丹波や郡上、沖縄へ行ってみたく思っていました。急に父母の故郷徳島へ訪れる機会ができ、余暇に藍の工場を訪れたことから、好んで読んでいた染織の記事にどこか違和感を感じるようになったのです。専門家の机上での知識の及ばない現実のこと、おそらく知識の少ない愛好家や編集者の方の現地取材は、作っている人が一方的に話される内容を、感動だけで検証もなく書いてしまう情報に不安を覚えました。

 

文化財保護法の制定後から世間では、本来の藍染の名称を「正藍染」1:合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。2:奈良時代から始まるとされる藍の自然染法。千葉あやの氏が、この方法を継承し重要無形文化財に指定された。「本藍染」合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。と何と無く位置づけていました。情報の中には「正藍染」「本藍染」の記事も多くあり、藍瓶の管理の大変さを一様に語っています。ただし現実は藍の原料の生産者や栽培地域が日本でも無くなりそうになっていて、にわかに厚遇されるようになった藍染とは無関係のようでした。

 

そして法律で保護されていたにもかかわらず、難しいとされていた染料の使用方法の種類の定義もなく、専門に解説できる機関もはっきりしないまま、藍染の何が正しく本物なのか「正藍染」「本藍染」の違いも定義されず商業主義の「憧れの商品」になってしまいました。

 

 

参考:染色辞典 中江克己編 泰流社 1981年

 


重要無形文化財と藍 Ⅰ

和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として保護されることになりました。天然藍と関係のありそうなものを紹介すると、30年(1955)長板中形・松原定吉、清水幸太郎、正藍染・千葉あやの、小千谷縮・越後上布、結城紬の認定に続き、32年(1957)久留米絣の技術が重要無形文化財に指定されます。後に昭和47年(1972)芭蕉布、51年(1976)宮古上布、平成18年(2006)久米島紬が指定されます。

 

無形文化財の指定対象は技術を保有する〈個人〉または〈団体〉です。そして特に重要性が高いと判断したものを重要無形文化財と指定されます。個人の場合は保持者(通称:人間国宝)が指定された工芸技術を高度に体得し精通していること、団体の場合は複数の人々によって伝承された技術が、指定された際の用件を満たした保存団体に認定されます。

 

指定条件は工芸技術の機械化がなされる以前の作業や、衰退化する産業の技術保護と継承をはかるためのものが多く見られます。この法律が制定されたとき日本の社会は大きく発展し、手仕事が当り前だった時代のこれらの技術は、採算が合わなくなり後継者も育たなくなっていました。藍製造の現場もこのことに直面していましたが、30年には阿波藍栽培加工用具が重要有形民俗文化財として指定されただけでした。

 

 

結城紬や小千谷縮・越後上布の指定、選択された条件の「行程」に藍は指定されず、久留米絣の行程のみ「純正天然藍で染めること」と用件が指定されました。その後の芭蕉布や宮古上布、久米島紬は天然染料が指定になっていますから、結城紬や小千谷縮・越後上布の認定された技術から藍の性質が誤解を生じることもありました。藍の栽培面積も30年の37haから36年20ha、40年には4haとなることからも天然藍のことが染色技術のなかで、多くの関係者から理解されていない結果の現れだと思います。


藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


藍でつくられた色ー⑦ 浅葱

「浅葱色」は薄い青味がちな青緑色のことをいいますが、わかい葱の葉に因んだ色名で平安時代の文学作品『源氏物語』『枕草子』『宇津保物語』などに見られるほど古くから使われています。縹色•千草色よりは薄い色ですが、藍で染めた色名であったのかは千草色と同様にわかりません。平安中期に浅葱色の表記に浅黄の字を使ったことから、青と黄の色相が混同され「あさき黄いろなるをもって浅黄と唱ふるよし」と『延喜式』で書かれているように本来は刈安を使って染める黄色と浅葱色が間違えられることになります。すでに平安後期(1169頃)『今鏡』に「青き色か黄なるかなどおぼつかなくて」と書かれているように、この頃多く使用される「あさき色」に混乱が見られます。 嘉禎年間(1235–1238)『錺抄』土御門通方での記載でも確認できるように、黄袍であるべき無品の親王の袍に浅葱色(青)を着用することもあったようです。

 

この「浅葱」「浅黄」の誤用は後の世まで続き、多くの識者が書物で問い糺しています。『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)では「アサギと云ひて浅黄を用ふるは誤りなり、浅葱の字を用ふべし」と記し、『玉勝間』(1795–1812) 本居宣長では「古き物に浅黄とあるは、黄色の浅きをいへる也。然るを後に、浅葱色とまがひて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に浅黄とあるをも、誤りて浅葱色と心得られたる也」と書かれています。『守貞漫稿』(1837–53) 喜多川守貞編の風俗事典でも「今俗に浅黄の字を用ふれども仮字のみ、黄色に非ず」といつまでも誤用して使われている現状に数百年もの間、色名•色相の解釈を糺そうとしている様子が伝わります。

 

浅葱色が庶民に広まったのは江戸時代で、千草色より頻度も多く書物に書かれるようになります。江戸中期以降には浅葱色が流行して、滑稽本の『古朽木』の中でも「尤も当時何もかも浅黄が流行(はや)りますゆゑ『世の中は浅黄博多に浅黄紐、あさぎの櫛に浅黄縮緬』とも詠みて、近年の利物(ききもの)なれども」と書かれています。下級武士の羽織裏に「浅葱木綿」が使われたり、新撰組の段だら模様の「羽織」歌舞伎の「浅黄幕」など伊達を好む遊人にも、無粋な武士にも、そして農民や庶民に多く用いられた色でした。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


藍商人-❺ 遠藤宇治右衛門/阿波屋吉右衛門

商人の中には全国の売場へ出かけることも多いことから、遊里での「大尽遊び」で有名になった人たちもいたり、浄瑠璃『伊勢音頭恋寝刃』のモデルにされたこともありました。徳島の芸事好きはこの時代の影響があったかも知れません。天明期(1781–88)ごろ大流行した狂歌の門人として遠藤宇治右衛門が藍商人の経済力を背景に狂言師として活躍しました。

 

遠藤家は阿波藍商としては初期の寛文期(1661–73)ごろから活動をしていました。関東売藍商として阿波屋吉右衛門と名乗り、享保4年(1719)の関東売36人の中にも指定されています。本八丁堀三丁目に出店を持ち江戸•武蔵を売場にしていました。文政7年(1824)刊行の『江戸買物独案内』に藍玉問屋として掲載されていますが、文政12年(1829)江戸の大火で八丁堀の店が類焼したあと、天保15年(1844)の株仲間解放令後の史料の中には阿波屋吉右衛門の名は見られなくなり、関東売廃業以降の藍商としての経歴はほとんど伝わっていません。

 

遠藤宇治右衛門は20歳のころから古典に親しみ和歌を詠むことをはじめ、文化7年(1810)29歳のとき六樹園宿屋飯盛(石川雅望)に入門します。石川雅望の居宅と江戸店が近隣であったともいわれていますが、本格的に文学活動をはじめ、当時一流だった六樹園宿屋飯盛と共に活動ができるほどになりました。六樹園の師でもある四方赤良(太田蜀山人)と面識ができて、平田篤胤•式亭三馬•十返舎一九•滝沢馬琴•菊池五山などとも交流し交遊を広げていきます。

宇治右衛門は六々園春足の名で『白痴物語』という見聞集や全国から募集した狂歌『猿蟹物語』を出版しています。阿波に六樹園を呼び阿波狂歌壇の指導をするなど、阿波の名所を巡歴した記録が軸物として残されています。

 

 

六々園春足の晩年期は阿波国内の豪商農の間で俳諧•狂歌を趣味、道楽とすることが流行しました。藍の生産量も拡大した文政•天保期は狂歌の全盛期で、阿波藍の隆盛は商人たちの諸国への巡回の旅でもあり、他藩の人たちとの交流による文化的現象が盛んに行われていたのでした。


藍商人-❹ 三木与吉郎 

木家の祖は播州三木城の別所長治の叔父の子別所規治で、秀吉軍によって三木城が落城した後、中喜来浦(徳島市松茂町)で帰農し三木与吉郎となったといわれます。蜂須賀家政の阿波入国後、大坂冬の陣に蜂須賀至鎮が出陣した時の阿波水軍として規治らも従軍し、その時の功績で中喜来浦は三木規治一族によって開拓がなされたとの史料が残ります。

 

二代与吉郎が阿波藍の取扱いを始めますが、漁具•米穀などの一部としての販売で、藍専業となるのは七代目になってからです。藍屋与吉郎と名乗り寛政9年(1789)江戸本材木町に支店を置き、次いで淡路洲本•播磨姫路•龍野に支店を開き、享和2年(1802)に関東売場株が設定されたときには株仲間となります。阿波藍商としての基盤ができ、八代目は売場先を武蔵•相模•下総•常陸•下野に拡大し関東売に集中します。嘉永5年(1852)三木家が江戸へ移入した藍玉は5,080俵で江戸積仲間で一番多く、多角的な経営と廻船を保有する大藍商になりました。

 

三木家は維新期になると飛躍的に活躍します。明治3年(1870)に開拓使より北海道産物会所御用達、徳島藩の商法方御用掛•為替方御用掛頭取を命じられ、8年には精藍社を組織し、9年には関東売場出店28店で栄藍社を発足します。十一代与吉郎は明治23年(1890)第一回帝国議会貴族院議員に選出され、久次米銀行が休業した際の整理を西野嘉右衛門と共に行い、関西部を継承して阿波銀行が設立されると頭取に就任します。

 

インド藍が開国後横浜港に輸入され始め、明治27年(1894)ごろから急増します。第一次産業革命の進行による機械染色に対応する条件はインド藍が優れ、関東売藍商の危機意識は高くなります。阿波藍純血主義との対立のなか、時代の流れに即しインド藍の取扱いをはじめ、次第に化学染料=合成藍の輸入販売も開始します。明治43年にはドイツのカレー染料会社の硫化染料の独占販売権も獲得し、新しい技術によって生産される輸入染料の営業活動に進出します。阿波藍の販売から始まり化学染料と工業薬品へ、現在は三木産業株式会社と改名し染料•色化部門•化成品部門•合成樹脂部門•国際事業部門と技術部門を置き、常に時代の流れに対応し変革しています。延宝2年(1674)創業以来「染料」とともに、300年以上に渡っての歴史を築きました。

 

 

十三代与吉郎と後藤捷一両氏の編集により『阿波藍譜•栽培製造篇』『阿波藍譜•精藍事業篇』『阿波藍譜•史話図説篇』『阿波藍譜•史料篇(上中下)』を刊行し、阿波藍に関する諸統計や三木文庫所蔵の史料目録の刊行など、藍の研究に欠かすことができない貴重な史料を残しました。三木家の文化事業は、近代化学技術史を考察するための資料として大きな貢献をしています。

 


藍でつくられた色ー⑥ 千草

草「ちぐさ」は夏になると青い花を咲かせる露草の古称「つきぐさ:鴨頭草」の名から転訛したといわれ、露草の花のように明るい青色をいいます。源順が平安時代の承平年間(931–938)に編纂した辞書『和名類聚抄』に鴨頭草は「都岐久佐」「押赤草」と記載があります。鴨頭草の名称は延喜式•内蔵寮や万葉集にも見られます。月草とも表記され万葉集には9首詠まれ、染め色は水に色が落ち褪めやすいことから、心変わりをたとえたり、この世のはかない命をあらわし詠まれています。古にはアオバナ•アイバナとも呼ばれ、花を摺り染に用いてその色を縹色と呼び、光や水での褪色が早いことから藍草が大陸から渡来すると廃れたと多くの書物に書かれています。近世にはこの水に弱い特性を活かして、友禅染や絞染の下絵描きに用いられていますが、藍草との混同や推移が平安時代にあったとは思えません。『和名類聚抄』の中の記載も藍と鴨頭草は並列しています。いつから千草が藍で染めた色を示すようになったのかは分りませんが、染め色の千草と染料の月草/露草とははたして関連があるのでしょうか。

 

『日本永代蔵』巻5 井原西鶴 貞享5年(1688)には「あさぎ(浅葱)の上をちぐさ(千草)に色あげて」と書かれていて、江戸時代になると千草色の名称は浅葱色とともに書物に多く見られます。千草色は主に商家の使用人の仕着せの色、丁稚の股引の色、庶民の日常着の色に使われていました。リユースの典型的な事例で、浅葱色に褪せたものを再び藍で染め直し千草色にした様子がわかります。物資の少ない頃は町人も農民も衣類の繕い•染直しは当然の知恵で、美しく長い使用に耐える工夫をしていました。

 

江戸時代後期に刊行された『手鑑模様節用』(1801–29)には京都と江戸に店舗を構えていた呉服商梅丸友禅が、古今の染色を色譜によって空色を解説している中で「花いろよりうすくあさぎよりこい……京師にてそらいろをちくさいろといふ」と書かれています。空色の色名も古くから使われていて源氏物語の中に見られますが、まだ染色名ではなかったようです。江戸中期ごろの『紺屋伊三郎染見本帳』に空色の色名が見られ、染法は記されていませんが藍で染めた後に蘇芳で染めたといわれています。空色は千草よりも明るい青色だったかも知れませんが、同じくらいの色相だったと思います。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


藍商人-❸ 志摩利右衛門

摩家の祖は河野氏の一族、越智氏といわれ藩政初期のころ東覚円村(石井町覚円)で藍作をはじめました。三代の間に田畑を大きく増やし、4代目から伊勢と尾張に売場を設け、藍を移出した帰りには他国の商品を仕入れ国内で販売も行いました。

 

六代目の志摩利右衛門は幼少期に父母を失い、15歳になると藍商の家業を継ぎ驚くべき商才を発揮したといわれます。文政7年(1824)に信州松本の城下に支店を置き、9年には出羽米沢にも支店を開設して秋田まで販路を拡大、10年には越後から東北一帯にまで販売網を拡張しています。文政11年、京都三本木町に支店を開き京都の藍市場の足場を固めます。翌年には四条通りの御旅町にも支店を置き阿波名産「煙草」の専門店をはじめます。このとき20歳の志摩利右衛門の積極的な経営戦略は、類稀な情報収集能力であったといわれています。

 

米沢藩では上杉鷹山による藩政改革で、養蚕•製糸•機織りが盛んになり米沢織が軌道にのると、紺屋の技術水準が低いことを聞きつけ城下で藍玉を販売します。さらに紺屋を併設し城下の紺屋にも藍染技術を伝授したそうです。米沢で経営基盤が盤石になると会津若松•仙台•庄内•本庄•山形と売場を拡大したのです。

 

商才だけではなく、天保期の徳島藩の財政改革を成功させ経済官僚としても活躍しています。藩債整理が軌道に乗り始めると次は斎田塩をめぐる制度改革を行い、藩の統制下で専売制を完成させます。塩の次は阿波三盆糖、半田漆器の販路開拓を依頼されたことより地場産業の江戸進出を実現します。

 

 

全国31ケ所の売場を持ち、京都•越後高田•信州松本•会津米沢の支店を経営する、その商業活動は驚異的であり、当時の販売体制の中でも独創的でありました。そして京都での頼山陽や当時の知識人たちとの文化交流によって見識を深め、卓越した経営手腕と自由主義的な経営思想をもった経済人でした。俳諧•書画を好み、尊王攘夷運動、自由民権運動に関わる人々を支援し、明治維新を切り開く若い才能を育てた人でもありました。大政奉還後は藍師株の制度を廃止して自由な営業を勧め、冥加銀も廃止するなど商業活動の近代化を目指し大改革を進めます。廃藩置県後の商法方改革後に職を辞し明治17年76歳の偉大な生涯を終えます。

 


藍商人-❷ 島屋六兵衛

屋六兵衛の祖は慶長年間(1596–1614)に土佐から小松島に移住した森庄左衛門で、その後阿波藩札の座元人で豪商寺沢六右衛門と縁戚となり、藍商の手塚分右衛門とも縁戚をつくり寛文年間(1661–1672)に初代島屋六兵衛となります。

 

元禄期(1688–1704)には城下にも進出して支店を置き、自前の廻船を使い「直売」「振売」商法によって阿波藍と肥料を取扱い活躍します。享保16年(1731)には播磨売場にも藍を移出販売し、寛政11年(1799)には徳島藩より干鰯平問屋に指定されました。

天保2年(1831)には板野郡で藍の製造部門も開設します。そして東播磨•丹波•丹後にも売場を拡張し、嘉永6年(1853)には江戸に出店を持ち関東売場株を6千両で譲り受け江戸•武蔵•上総•相模も売場とします。幕末•維新期の関東売藍商では「野上屋」西野嘉右衛門に次ぐ阿波藍取扱い量となりますが、開国後はインド藍の取扱いもはじめます。阿波では依然「他国藍」「外藍」は取扱わない状態でしたので激しい対立を招くことになります。

 

明治3年(1870)には大量の藍玉を出荷するため、1000石積みの船4艘を買入れ撫養(鳴門)を母港として瀬戸内から下関を経由する北前航路によって、各地との交易を拡大し北海道から鯡粕を大量に輸送することになります。明治20年には肥料売買業を開始し、満州大豆粕•チリ硝石•インド骨粉などを直輸入し、その後は化学肥料の生産も行うなど肥料の変化に積極的に対応します。藍作農民のことを十分知抜いた「島屋=森六」の商法は幾多の困難も乗り切り、明治–大正–昭和と肥料商としても経営を拡大しました。

 

 

森六の事業は藍だけに留まらず、時運と共に多彩で転換も早く、絶えず時代を先取りする精神を持ち発展させてきました。肥料•醤油醸造業•豆粕製造業•木材、日露戦争後には朝鮮農場の経営と朝鮮•満州•天津の事業にまで及びました。昭和20年(1945)の敗戦後、それまでの経営体系は全て崩壊しましたが、22年に徳島機械製作所、23年に森六食品工業株式会社、三井化学工業と塩化ビニール、ポリエチレン•ハイゼックスを製造し本田技研工業へ納入します。61年にはホンダとアメリカ進出も同行し、化学部門•精密化学部門•合成樹脂部門•生産部門と研究開発部門をもつ複合企業となりました。現在は森六株式会社と改名し、寛文3年創業の阿波藍(天然染料)から合成染料へ、石炭化学•石油化学へと日本の化学工業近代史そのものの長い歴史を貫き通しています。


藍商人-❶ 久次米兵次郎 

波藍商の栄枯盛衰を象徴する存在として語られることの多い久次米兵次郎ですが、久次米家の祖は大江広元といわれ、関ヶ原の役で毛利家敗軍によって蜂須賀家政の阿波入国の際、家臣益田氏の下移住したと伝えられています。撫養塩田の開発を勤めた後、海部城へ入りましたが益田氏失脚で帰農しました。

 

名東郡新居村に移住し藍商人として江戸では大坂屋庄三郎、大坂では米津屋庄三郎として活躍します。現在は吉野川の河川敷となっている北新居村(徳島市不動北町)で、約4ヘクタールの敷地に分家九軒と共に豪壮な屋敷群を構え阿波藍商の財力を示す威厳を誇っていたと伝えられます。元禄期(1688–1704)には江戸にも基盤を固め、その後享保4年(1719)には関東売藍商36人の中に指定されます。江戸店(京橋八丁堀)550坪に隣接する紀国屋文左衛門の遺宅を買取り、木材業に進出したとの伝承も残りますが、元文年間(1736–1740)には藍商だけでなく木材商としても大坂屋庄三郎の名が残っています。かつて益田氏失脚の原因にもなった海部郡の木材を江戸に流入したことや、その後の深川木場に大きな勢力を持つ徳島木材業者の先駆となったことからも、林業地帯の情報と技術にも熟知し木材の産業化にも大いに貢献しました。

 

阿波藍商としての久次米家の活躍はめざましく、大坂では河内木綿や和泉木綿などの染料として広範な得意先を持って経営をしていました。米津屋の傘下として藍玉を出荷する藍商と運命共同体を形成し、大坂市場の情報発信基地を兼ねるなど、藍商たちの経営にとっても巨大な存在でした。

 

五代兵次郎が組頭庄屋だった宝暦13年(1763)に、藩の問い合せに返答するための文書で「藍は毎年生産高およそ14、5万俵を諸国に販売し、1俵2両ほどで取引されていて、大坂売は銀3~4貫で売却し総額は金30万両ほどになる」と商況を伝えるなど、藩からも信頼され藍行政の指導的な立場と待遇が与えられていました。

 

 

明治12年には久次米家の経済力と阿波藍商人の蓄積した資本を背景に、阿波藍流通•材木取引などの金融機能の合理化のため久次米銀行が設立されます。隆盛時には東京、大阪、郡山、新宮など広範囲な顧客をもつ、全国で活用される銀行として経営近代化を果たしました。私立銀行としては三井銀行200万円に次いで全国第二位の資本金50万円を有しましたが、明治24年(1891)に前年から始まった日本最初の恐慌とともに休業に追い込まれてしまいました。銀行破綻によって全国組織が分解され地域銀行となり、久次米兵次郎の影響も急速に減退しました。


藍商人-⓿ 阿波商人は藍の生産直売を全国で展開ー商業活動の軌跡ー 

戸時代になると実生活に有用な草や木が広く栽培されるようになり、三草四木とも呼ばれ商品作物として流通します。三草とは木綿•麻•苧麻•藍•紅花など、四木は桑•茶•楮•漆をいいます。元禄10年(1697)『農業全書』宮崎安貞の中にもこれらの栽培の方法が詳細に記述されています。長い間日本の庶民の衣料はほとんど全て麻•苧麻などの靭皮繊維でしたが、この頃から木綿も用いられるようになりました。棉作が全国的に普及され、近畿地方での大量生産システムが整うと、紺屋も全国津々浦々に出現し藍も各地で栽培されるようになります。

 

多くの庶民によって木綿の需要が増えると、阿波藍の生産も多くなり大坂•江戸の市場だけではなく、全国各地に藍商人が活発に商業活動を始めます。近江商人や伊勢商人などと同時代に活躍している阿波商人の存在は、歴史的な研究も少なくあまり知られていません。阿波商人は藍を問屋に委託販売することはせず、各地に自らが設けた出店から紺屋に直売する形態を取っていました。出店が持てない場合は荷受問屋に藍玉を送り、藍商または従業員が問屋へ出向き紺屋へ販売していました。藍の栽培(農家)+藍玉加工(工業)+藍玉販売(商業)を兼ねた生産直売型の藍商人だからできた販売戦略ともいえます。藍商人の活動の軌跡の多くは埋もれたままですが、全国にその存在の跡は残っています。

 

元禄期(1688–1704)以降は商品流通、貨幣経済が急速に発展したことで、商人たちは商業資本の蓄積が進み豪商が生まれます。阿波商人も特権と特異な商業活動で、大藍商と呼ばれる人たちも出現しました。奥州や九州などにも自らの廻船を使い、藍を移出した帰りには米や各地の産物を移入していました。宝暦4年(1754)「玉師株制度」が藩によって施行されたことで、藩の統制によって全国の売場は30以上の売場に区分され株組織が成立します。その後の発展と幕末までの藩と阿波商人の結びつきは、経済学者によって研究がされています。

 

 

藍商人たちの経済動向は研究者には知られていますが、各々の藍商人たちが全国各地で活動した記録や、郷土史家が抜粋した資料から独創的な開拓精神を紹介をしたいと思います。


襤褸藍-ぼろあい-

褸藍-ぼろあい-と聴くと近年は、破れたら当て布をしてまた使い、何枚も重なる擦り切れた布と縫い目の、継ぎはぎだらけの布を想像する人が多いかと思います。明治初期でも布類は庶民の暮らしには高価な貴重品でしたので、襤褸(ぼろ/らんる)と呼ばれ日本各地で人々の手で創意ある布が、慈しみ使われていました。江戸時代のリサイクル生活様式に感銘を受けていたとき、多くのことを知りました。藍の布が着物-布団地-おしめ-雑巾など様々な形に変わり、最後を向かえるときまで充分活用される知恵などです。

 

大事に使われてもやがて使われなくなった藍の布を、また買い集めて一ケ所に集め、集められた襤褸から藍の微粒子を集めるのです。驚きました。布から染料をまた回収できるなんて、誰が思いついたのでしょうか。藍の襤褸を集め、灰汁に石灰、水飴を混ぜ煮沸させ浮き出てきた藍の泡を集めます。臼で布を搗いたりもしていました。青い微粒子を集めて乾燥させて固形状にしたもの、膠を混ぜて固めて顔料にしたものなどを画料•染料として使っています。これが江戸時代の襤褸藍です。

 

藍を化学的に理解していれば可能なことは解りますが、江戸の素晴らしい人々は青い微粒子を見つけ出し、色の抜かれた残りの木綿•麻の襤褸は、屑屋の紙くずと混ぜて漉き返され、浅草紙にリサイクルしていたということです。     

 

 

明治12年の「藍鑞卸売商営業鑑札」が残る浅草・藍熊染料店の創業は文政元年(1818)で、初代は漢方薬店を商い、その後藍鑞を製造•販売していました。「紺肖切(藍布裂)・蛎灰・飴を釜の中にいれ、水煮し浮き出す藍泡を掬い藍鑞を製造。藍鑞は紺屋へ売却、残った襤褸も売却。」との内容が記された文書が残っています。これは襤褸藍の製造と同じと思われますが、できあがったものは藍鑞と呼ばれています。本来の藍鑞とは藍瓶の縁に付着した藍分や、藍の華と呼ばれる染液に浮かぶ青色の泡を精製して造った純度の高い固形物です。不純物が少なくて光沢があったので藍鑞と呼ばれていました。藍花•青黛•青代•藍澱•靛花などとも呼ばれ江戸初期からの利用がありました。


藍でつくられた色ー⑤ 瓶覗き

の単一染で一番薄い色を「瓶覗」(かめのぞき)と呼びます。「覗色」とも呼ばれ染法から由来しているともいわれます。藍瓶の染液が使用され続け、最後は微かな色しか染まらなくなった液に一寸浸す意味です。もう一つの解釈として、水の張られた瓶に映った空の色を覗き見た色のようだという説もあります。近年は名称の響きや希少な出来事ように語られた藍の染め方に、モノ(藍)を大切にする愛おしさも相俟って知名度もあります。江戸後期には名称が見られますので、極薄い藍の色が生活の中で判断•記憶され、表現豊かな名称が付けられていることに藍の文化を感じます。江戸町民が水色や浅葱色との僅かな色の差異を名付けて共有し、楽しんでいた心意気がうれしいです。

 

一番薄い色が染め初めの色でなく、最後の色なのも心ひかれることなのかも知れません。藍を管理していて醗酵の具合や、染め続けたことによって疲れた藍還元菌を回復するために灰汁や石灰と麸を入れます。藍瓶の中に入っている堅木から取った灰汁は、藍の醗酵に欠かせないミネラル成分が入っています。その灰汁の成分には色を抜く性質も内在しています。化学建てに使われる苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)もハイドロサルファイト(亜ジチオン酸ナトリウム)も還元剤と漂白剤の性質を持っています。藍菌の壮年期は絶妙ななバランスで増殖する環境が整えば、毎日染めていても菌の活動で直ぐ染まる状態になりますが、少しづつ回復することが鈍くなります。染まった布、糸から灰汁(木•藍の両方)の抜けも悪くなり、一層染上がりに注意が必要になります。

 

数ヶ月以上使い続け、液の中に藍分が無くなる時が近づくと雑菌も多くなります。様々な過程を経た時期に染めるわけですから、やはり染めていて力尽きる前の藍菌が、最後まで色を出してくれている様子を毎回愛おしく思うのです。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


藍でつくられた色ー④ 瑠璃紺

璃色の名称は平安時代後期には見られ、藍の単一染めの名称としては早くから使われていました。玉石の瑠璃(ラピスラズリ)の色のような紫味の冴えた青色をいいます。『装束抄』に「濃花田色也。今濃浅黄と云」『山槐記』には「浅黄号瑠璃色」と記されていることから花田系統の色とされています。

 

瑠璃紺の名称は500年後の江戸前期1680年頃に愛用されていたことが、当時の風俗を写す雑誌『紫の一本』でわかります。瑠璃色がかった紺との意味で、深い紫味の青色をいいます。『守貞漫稿』喜田川守貞編(天保8年-嘉永6年•1837–53)の風俗事典にも「紺」の条に「藍染の極濃を云、特に瑠璃の如きをルリコンと云」と記されています。

 

紺の名称が現れるのは古く、大化3年(647)孝徳天皇の七色十三階の冠位の制からで「ふかきはなだ」と呼ばれていました。名称、色調は律令制とともに中国の随•唐から伝わりましたが、中国古代の染色で「紺」は三度赤い染汁に浸けた「纁」(くん)と呼ばれる真赤に染めたものを黒い染汁に一度浸けたものを(かん)と言い「えびちゃ」色でした。日本の「紺」はその色相も中国古代の常識とは無関係に使用されていて、文字だけを中国古代名を使い和名に読み変え、色相も始めから藍の単一染めでした。

 

中国古代の「青」の示す色相は緑味の多い青色で、随•唐時代の「青」はやや赤味がかった青色で青が縹と同意語で用いられていたといわれます。日本でも古い時代の「青」は緑色•青緑•青色•青紫•紫および、中間色も含んでいたといわれています。古代の色彩名は実に複雑な色相を持っていて、ほぼ想像の域で判断して納得するしか無いわけですが、日本の場合は中国の影響も時代毎に随所みられるのでより複雑です。染色されたもので考古学的資料が残されることは絶望的なので、古くから続く時代の観念がその後も並列して続き、色相と色名は結論がでないまま語られ続けています。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 


藍でつくられた色ー③ 二藍

安時代から文学作品などで「二藍」の名称が見られます。藍と紅花の交染によるにぶい青味の紫、深•浅の二段階に分けられ染色しました。というのが基本で藍と紅花の割合は若年ほど藍は淡く、二藍の色は使用者の年齢によって各種あります。青藍と紅藍の二種の染料で染める技法から「二藍」と呼ばれたといわれ、色調から夏の直衣(貴族の平常の服)や袿、汗衫に使用することが多かったようです。

 

二藍の色には染め色と、経が紅、緯を藍で織り出した織り色、表二藍•裏白,表裏共に二藍などの重ね色があり各種の装束抄にきまりが記されています。唐から影響された奈良時代の装束から、風土にあった装いに変わってきたことで、この時代から二種の染料の交染による中間色相が好まれました。同じように染めた紫苑色、桔梗色もこの時代の貴族に好まれた色です。藤色は江戸時代になっての使用のようですが、平安時代の重ね色には見られます。表淡紫•裏青など数説ありますがこの時は紫根で染めたようです。

時代が経って江戸時代でも依然紫は禁色でしたので、江戸の藤色は「あゐふぢ、紅ぶじの二種あり、古名うすいろといふ」とあり、藍と紅花を用いて染めたと書かれています。一方一般には蘇芳を用いるとも書かれていて、庶民の多くは高級な染料でなく蘇芳や茜で媒染剤の酢や明礬、たばこなどを用い創案して洒落心を満たしていたようです。

京紫と江戸紫は高嶺の花で、相変わらず富と高位の象徴でした。禁止令を撥ねつけるような富裕層が現れても、庶民の多くは高級な染色に手が出ない時代です。

 

 

二藍や藤色と同じ染め方で、江戸中•後期になると「紅掛花色」「紅掛空色」「紅掛納戸」などの色名も見られます。『手鑑模様節用』の色譜に「紅かけ花いろ。古、薄ふたあい」と記されているように、平安時代の貴族に愛用された染め色が再び江戸町人のあいだで受け継ぎ、藤色流行が時代の雰囲気と気分で下染めの花色•空色に濃淡の紅を掛け、青紫系統の流行色をつくり出していた心意気は頼もしく思います。

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 

 


木綿織物産地と藍 –久留米絣

留米絣は寛政11年(1799)当時産業の少なかった久留米近郊に始まり、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、竹野、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。筑後藍は文化年間中に他国や大坂、江戸へと移出しています。

資料に残る阿波藍の九州への移出は、享保11年(1726)薩摩、14年筑前、肥前の各地に販売を始めています。藩内の筑後藍を移出できるほど栽培していても、阿波藍を文久元年(1861)に1795俵移入していることから、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされたと思われます。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになり、藍栽培もますます盛んになります。

 

明治時代は久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。明治10年着実に生産が増大するなか、新しい染料による粗製乱造で信用を失ったことから、販売業者によって販売と染色の責任を明確にするための組織がつくられます。久留米絣の染色に地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため徳島県に伝習生を派遣して、久留米絣の理念を守ります。

 

明治13年に小柄の絣緯糸が織貫の方法で容易に生産され、37年には絣糸製造機が発明され経糸も容易に作れるようになりました。さらに42年には中柄・小中柄の糸も機械括りができて量産が容易になりました。明治19年46万反、28年85万反、40年113万反、大正期100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。

 

明治中期以降インド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透しますが、久留米絣は組合によって厳重に天然藍の保護と染色の美しさ、堅牢度を守り、品質と信用を維持したのです。それでも40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入されます。染め回数の半減と着色力もよいことから、労力でも材料費でも生産効率がよい混合建(割建)が昭和40年頃まで用いられることになります。そして昭和37年頃よりナフトール染料へと転換します。

 

 


木綿織物産地と藍 –備後絣

留米絣、伊予絣に続き生まれた備後絣は富田久三郎が文久元年(1861)独自に考案した文久絣が基になったといわれます。『ヒストリー 日本のジーンズ』日本繊維新聞社発行(2006年)の記事「備中・備後紀行」のなかで逸話として、久三郎の不在時に来訪した阿波の某氏が絹織の「浮織」の技法を記した書を残し、久三郎はそれを研究して綿織物に応用し原糸を糸で括ることで、井桁文様を作りだすことに成功したと書かれていました。大変興味深い内容でいろいろ想像してしまいました。阿波の某氏とは藍商人のことだと思いますし、文久絣は始めから輸入紡績糸を使用して絣の生産を始めましたので、藍玉をたくさん売るため商品開発の助言をしたのではないかと思いました。文久絣の誕生は他の説が一般的なので信憑性はわかりませんが、阿波の藍商人の商売方法の一端を見るようでした。売場株を持っている藍商人の特長は持船で「のこぎり商法」といわれる行き帰りの商売をしていました。葉藍作りから蒅・藍玉製造まで一貫して行い、藍玉を自ら全国各地の売場に販売し、さらに売場先の国産品を買い入れて京都、大坂、藩内へと交易までも生業とする総合商社のような活動をしています。

 

明治になって備後絣と名付け大阪市場伊藤忠商店に200反を販売し、明治13年には年産11.5万反、44年33万反、昭和元年82万反と生産を増やし、その後は手織機から足踏機、8年には力織機の導入で10年には130万反まで生産しますが、戦争をはさみ衣料品統制規則が廃止されるまで停止します。27年には年産170万反、30年220万反、35年には330万反の最盛期を迎え全国生産高の7割を占めるまでに成長しました。

 

 

昭和30年三井化学工業株式会社と「三井インヂコ」の一括購入契約を結び、翌年には絣木綿織物「備後絣」の文字の商標登録が完了しました。昭和34年(1959)井伏鱒二『木靴の山』のなかで乙女の着る備後絣もほとんどが合成藍で染めた紺絣です。


木綿織物産地と藍 –伊予絣

 治32年(1899)に伊予織物の生産高は70万反余りで全国2位となります。享和年間(1801–1803)に京都西陣の花機を綿高機に改良して、縞木綿の生産を増やし松山縞・道後縞として他地域へ移出するようになりました。伊予絣は藩政時代には今出鹿摺と呼ばれ一部の地域でのみ織られていましたが、明治になると縞木綿より絣木綿の需要が増えます。伊予絣の生産全盛期は明治末から大正年間(1912–1926)で、全国の絣織物の半分を占める盛況ぶりだったと伝えられます。

 

今出絣株式会社村上霽月の親族である村上孝次郎が、明治32年3月に村上洋藍店を開業します。ドイツから合成藍の製造元、馬獅子アニリン・ソーダ化学工業会社(BASF)の特約店として販売を始めました。今出絣の会社沿革に記載された内容は、私が調べていた合成藍の輸入開始年度より一年早く、しかも伊予絣の生産高はその後数年で倍増するのです。続けて調べますと『藍に関する講話』明治36年4月発行の中でも32年に輸入が始まったと書かれていました。

 

1880年に藍の主成分であるインディゴの化学合成にバイヤーが成功し、BASFとヘキストが特許権を取得したときから合成藍の工業化は予想できたことです。1897年BASFによって工業化され量産が開始されました。しかし依然徳島の藍商人たちの意見は分かれ、大方は阿波藍を保守することを選び外国藍を扱うことを牽制しました。新興人造染料取扱い業者が先行する中、量産に出遅れたヘキストより価格で有利な合成藍が開発され、激烈な両社の販売競争となりました。乱売に疲れた徳島では、明治42年日本市場に対する独占販売機関大同藍株式会社を創設し、その後は新たに開発される有機化学染料の商社へと移行していきます。

 

この時の混乱は多くの資料を見ていて分るように、正確な輸入時期の特定ができていません。東京銀座の天狗煙草岩谷松平が初めて輸入したとも云われていましたが、BASFジャパンの沿革年表を見ると「1898年山田商店および柴田商店によって輸入開始」と書かれています。


木綿織物産地と藍 –小倉織 青梅縞

川家康の遺品の中にも名称が見られる小倉織は、藩政時代の武士や他国に流通する銘柄織物として愛用された豊前小倉を代表する特産品でした。明治になっても全国にその名を馳せ、夏目漱石の『坊ちゃん』や多数の文学作品の中にも小倉織の名を見ることができます。

関東の綿織物は江戸中期に始まり限られた地域の農間企業として展開していましたが、高機の導入により幕末にかけて著しい発展をしていました。真岡木綿、青梅縞、結城縞など銘柄織物も知られるようになります。安政6年(1859)横浜港が開港すると良質で安価な紡績糸やインド藍の輸入が増大し、国内の棉作地は藍作地へと変わり、紡績糸を藍で染め新しい技術を取り入れた織物産地が広まります。

 

安政元年(1854)阿波藍総移出量は236000俵で、この頃の江戸への移入は42011俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10000俵の状況でした。明治初年には武蔵国が阿波に次ぐ有数の産地になっています。埼玉県の明治16年(1883)藍作付面積は1078ha、31年には3120haを最高に衰退期を迎えます。

 

明治42年に編纂された『織物資料』には、埼玉県の主要織物の染色方法と染料供給地の変遷が記載されています。

《青縞》始め染料は地藍のみを使用、製織の発展に伴い不足分を阿波藍、明治20年頃よりインド藍、北海道藍を使用。その後藍の需要は年々減少し合成藍の使用が多くなる。

《武蔵飛白》維新までは地藍、阿波藍を使用し、その後北海道藍を大部分使用。明治2、3年頃紺粉。16、17年頃よりログウッドエキス、ヤシャ、ダークブルー、30年以降インド藍、35年頃より合成藍と正藍を使用。今日は硫化染料を採用。

《双子織》始め正藍を用いていたときは地藍、阿波藍を使用。その後インド藍、ヤシャ、鉄漿、紅柄、明治25年頃より直接染料、塩基性染料、酸性染料を使用。明治37年頃から硫化染料が増加して最も多く使用。

《絹綿交織》明治25年頃までは天然染料のみを使用。その後直接染料、アリザリン属、塩基性染料、明治37年頃より硫化染料の使用が7割になる。

 

 

小倉織は新しい染料を導入しないまま、昭和初期にはその生産が途絶えました。明治42年、田山花袋『田舎教師』に登場の青縞はほとんどが合成藍、硫化染料で染められた綿織物になっていたと思われます。

 


日本の藍と明治 - 混合建(割建)という技術

政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基づき、翌年には先行して横浜港が開港、生糸貿易の中心となります。欧米の新しい技術、製品とともに輸入されたインド藍など染料関係は関東から浸透します。そして幕末の混乱から10年経った明治2年(1869)に漸く開港した神戸港に、インド藍や化学染料が輸入されるようになると、西日本の織物産地にも大きな変化が見られるようになりました。それでも京都など一部の需要者によって久留米絣や小倉織、柳井縞など阿波藍を使った木綿織の産地は支持され、阿波藍の需要は西日本の産地にシフトしていきました。しかしその後の合成藍の出現と新しい染料を使う技術の上達で、紺屋にも大きな変革の時期がきました。欧米では急速に天然染料から化学染料に変わりましたが、紺色に思い入れがあったのでしょうか、従来の青の希求から量産にも耐えられる天然藍に合成藍を混合して染める、混合建(割建)という技術を発明してしまいました。

 

明治40年頃から全国の紺木綿織産地の天然藍使用が急激に減少します。紺屋の規模により完全に化学染料になり機械化が進んでいく工場、混合建(割建)を選ぶ工場など変革を迫られ、大方は化学染料と合成藍を受入れる事を選びます。そして新しい青色の新橋色、金春色など純度の高い色が、ハイカラな雰囲気で欧風の感覚だと花柳界から流行色も生まれました。商品の競争にも明暗が生じます。この頃から「藍色」の色名が多く見られるようになり、「はなだ・縹」「花色」「千草」「浅葱」の色名は少なくなります。天然藍だけを選んだ織産地は昭和になるころには衰退します。天然染料だけだった江戸時代には「藍色」の使用は少ないことから、この時期から使われだした「藍色」を当時の人たちは合成藍だと意識して使用し始めたように思われます。

 

 

藍の生産は明治36年の15099haを最高に、明治40年7542ha、大正元年2888ha、昭和元年には502haになりました。日本でも合成藍の製造が行われるようになり、昭和16年40ha、昭和40年には4haまで減ることになります。

 


高原義昌•田辺脩『細菌による藍の工業的還元に関する研究』

治31年に合成藍の輸入が始まり、大正時代になると天然藍は衰退します。消滅しようとしている技術の解明や染色方法の説明も衰えていくのはわかりますが、化学染料の普及が終わると昔の染料への懐古が生まれ、僅かですが日本では天然藍が使われ続けました。転換期にインド藍(藍靛)や合成藍との折合いから、世界でも珍しい割建てという曖昧な技術を生み出し、現場は様々な情報があふれていました。同じように見える藍瓶でも、経営者の仕事の選択によって使われる染料、添加する材料が著しく異なった状態で「藍染」として存在していました。戦後「本物」と称して藍染が注目されたときから、伝えるべき情報が現実から乖離した言葉だけの内容になって、益々混乱したように思います。

 

『細菌による藍の工業的還元に関する研究』高原義昌•田辺脩(1960年工業技術院発酵研究所)による論文があります。藍還元菌の生理形態の究明と醗酵建の菌学的研究です。公的機関での研究は初めてだったかもしれません。「細菌(バクテリア)による天然藍の還元、いわゆる醗酵建は有史以前から行われているにもかかわらず、その実態は全く不明で各地の染色場においては古来からの言い伝えや長い間の経験と‥‥」藍染を行っている現場の管理技術や醗酵時間の短縮など、合理化と染色生産費の低下も見据えての研究だったと思います。研究結果は有意義なこともあったかとも思いますが、残念な結果も報告されています。

 

 

「醗酵過程において細菌や酵母の関与で炭酸ガスと水素が生産されるといわれてきたが、乳酸、ピルピン酸、蟻酸、酢酸の検出による炭酸ガスの発生のみで、酪酸は検出されず水素の発生は認められなかった」と報告されました。このことで酪酸醗酵、乳酸醗酵による水素によって還元するという従来の説を否定しました。藍の含有糖分や麸などの澱粉の糖化作用も否定されています。現在ではどちらの説明が有力なのかははっきりしてきましたが、この時点で後藤捷一氏など従来の原理は支持を得られないことになったように思います。大掛かりな機材を使って、却って醗酵のシステムを考えるうえで混乱が生じました。明治の研究者中村喜一郎は「藍玉濁建」「藍玉澄建」は灰汁を使って説明しています。そして「苛性曹達建」「灰汁建」との区別もしていますが、発酵研究所の試験の藍染は苛性ソーダで行っています。30年藍染をしているだけの微弱な経験からですが、この違いは大変大きいことだと考えます。


中村喜一郎『堅牢染色法』明治22年

治になって化学染料の使用が広まると、化学染料の使用方法が書籍によっても紹介されます。『西洋染色法』明治11年 東京府勧業課『初学染色法』明治20年 山岡次郎『堅牢染色法』明治22年 中村喜一郎など新しい技術の習得に熱心な様子が窺える内容になっています。化学染料と化学薬品は驚くほど早く多くの工場で使用が始まりますが、色の定着や生地の扱いなど従来使っていた天然物との変換には多くの困難がありました。これらの書籍の中には化学染料と並び、化学薬品を使い従来の藍(蒅)の新しい建て方も紹介されています。蒅(すくも)に慣れ親しんでいた職人たちもインド藍や琉球藍、台湾藍(藍靛)の出現で、灰汁に変わるポットアス(炭酸カリ)や曹達、苛性曹達の使用方法もいち早く覚えたようです。

 

『西洋染色法』は西洋の染色技法を齊藤實堯が翻訳した書籍です。藍の使用方法も掲載されていて「菘藍(ウォード)をもって藍玉を製する法」などの項目や、藍靛の染色法についての説明など、長い間口伝で伝えてきた藍の伝授の手続きに困惑も生まれたのではないでしょうか。『初学染色法』には藍建てに薬品を使った還元方法「硫酸鉄建」「亜鉛末建」「亜硫酸建」が説明されています。『堅牢染色法』はドイツの染料会社やヨーロッパ各国の工場を巡り染色技術を習得した中村喜一郎が、技術の向上を図るために実地で染色を行いながら研修した染色指導書なので、いま読んでも明治の染色業の発展に重要な仕事だったことがわかります。

 

藍及び藍染についても多くの解説をしていて、藍玉と藍靛の応用や特徴、染色方法の短所長所も論じています。中村氏は天然染料に対する知識が乏しかったので指導を請い研究したといわれますが、この時の解説から殆ど前進をみなかった戦後の藍の説明に驚愕します。「藍靛硫酸鉄建」「藍靛石灰建」「藍靛アンモニア建」「藍靛苛性曹達建」「藍玉濁建」「藍玉澄建」「藍玉亜鉛末建」の説明にはじまり藍色の染め方、青色を得るシステムは「醗酵作用によりて之を還元せしむか、もしくは親和作用によりて還元せしむかの二種の仕方に基づく」と書かれています。

 

明治以降繊維素材と化学染料は江戸時代まで続いた技術からの転換を成し遂げて、堅牢であり鮮やかな美しさを多くの人たちに与えてくれました。欲をいえば欧米文明を吸収した後もう少し時間があったなら、日本独自の藍の醗酵技術の解明もこの時代の人々ならできたかも知れないと、残念に思うのです。

 


変わった新しい藍色の区別

治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。

 

絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。

 

昭和3年工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)

この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。

 

 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家

 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者

 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者

 「本染」    上村六郎 上代染織史学者

 「古代植物染」 後藤博山 染織家

 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者

 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

 

 

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。

 


変わっていく藍色

以降に登場した青色を染める染料の種類を大きく分類しますと、🔹インド藍など精藍法(沈殿法)で作られた天然藍、🔹ログウッドなど南洋材による天然染料、🔸人造藍とも呼ばれる黄血塩(人造顔料:化学染料)である紺粉、ベロ藍、🔸明治33年(1900)合成藍(インディゴピュア)が輸入されるまでに発見、有機化学の理論によって開発された化学染料です。

 

青色、藍草の異種ごとに製法された染料を表す言葉はそうたくさんありませんので、同じ文字が違うモノを指す場合が多くなるのは避けれません。維新後の混乱と藩政から日本帝国となり、方言、地域内の呼名など混乱もあったかも知れませんが、染料に関してはその後の認識に大きく誤解が生じることとなりました。明治8年(1875)にドイツに留学していた中村喜一郎が合成染料37種類を持ち帰り、染色法の指導を始めます。明治11年には東京府勧業課も『西洋染色法』齊藤實堯の翻訳で欧州の開発した染料、薬品の使用方法などの実用手引きを発行しています。染織技術の急展開の様子が数々の書籍からも窺えます。

 

🔹藍靛(らんじょう・らんてん・インジゴ):インド藍.琉球藍.台湾藍.沈殿藍.

🔹靛藍(てんらん・インジゴ):沈殿藍.純藍.

🔹硫酸靛藍:藍を硫酸に溶かしたもの.靛藍エキス.

🔹水靛:外国産泥藍.  

🔹土靛:外国産乾藍.

🔹泥藍:琉球藍.沈殿藍.

🔹精藍:沈殿藍.精製藍の略.青黛.藍鑞.

🔹青藍:沈殿藍.インジゴ(藍の色素).ブラーウ.純藍.

 

🔹擬紺:ログウッド.南洋材+合成染料.

 

🔸紺青:ベロ藍.ベレインブラーウ.プルシャンブルー.インジゴ.

🔸黄色血滷塩(けつろえん):ベロ藍.ベルリンブルー.チャイナブルー.人造藍.

🔸紺粉:ソルブルブルー.黄血塩.

 

🔸塩基性合成染料:モーブ.

🔸酸性染料:ソルブルブルー.リヨンブルー.

🔸酸化染料:アニリン黒.

🔸媒染染料:アリザリン ブラーウ.

🔸硫化染料:

🔸建染染料:インジゴピュア.合成藍.インジゴ.人造藍.

 

 

*個人的資料に基づいて抜粋しています。


日本の藍と明治 - 新しい技術

国によって他国との商品の競合も少なかった日本に、イギリスから紡績糸と綿織物が輸入されました。慶応元年(1865)の輸入品の79.6%が毛・綿織物と綿糸であり、輸出品の84.3%が生糸、蚕卵紙であるように国産より安価な大量の綿が全国に広まります。

 

明治になると棉栽培地では輸入綿を染めるために藍栽培への転換が始ります。明治31年農商務省吉川祐輝技官によって『阿波国藍作法』の報告が出ることで、藍の栽培法や肥料などの技術面,江戸時代から秘伝とされていた染料(蒅)の加工技術が科学的な成分変化の精細な数字とグラフとで、醗酵に要する日数と発色の変化が明らかにされました。維新になって大分、愛知、福井、山梨、北海道などの要請により個別には藍の技術指導は行われていましたが、これを機に多くの書物で藍作りの技術が紹介されることになります。

 

明治10年代の出版物は西洋の染色技術と従来の染色技術がごちゃごちゃに紹介されています。驚くほど危険な物質も急速に使われ始め、その中にインド藍=靛藍(てんらん)としての染色法は、従来の醗酵による還元法とは違い硫酸で溶かす方法が紹介されています。新しい化学染料、紺粉(ソルブルブルー)や大量の布の染色に多くの紺屋が技術の転換を余儀無くされ、驚くほどの早さで適応していきます。文明開化といわれる状況下での藍の価格の比較です。

 

 

(注)他国藍=地藍=徳島県以外の県で作られた藍


日本の藍と明治 −インド藍

国を解いた日本は西洋の技術力に圧倒されます。日本中を掌握していた阿波藍も世界を制覇しているインド藍との競争に危機感はありました。藍寝床で葉藍を醗酵させ蒅に加工する製法ではなく、短縮化された生産工程を持つコストの安いインド精藍法(沈殿法)を精力的に学び取ろうとしました。

 

明治9年五代友厚は国産の藍がインド藍に圧されるのを危惧し、且つ藍を世界の商品作物にするため政府から50万円の借入を受け、大阪北区堂島浜通りに朝陽館を創設します。蒸気機関を動力とする最新設備を導入し従業員300人で創業を始め、徳島に粗製工場を設けるなどして精藍事業を開始しました。渋沢栄一は明治21年に蜂須賀家、関東買阿波藍商達と小笠原製藍会社を設立します。徳島でも明治20年代には藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が始まり、明治33年には徳島県出身の長井長義博士の精藍法を導入し、製藍伝習所が開設されました。しかし近代日本を飛躍させた実業家、五代と渋沢の取組みも実績が上がらず短期間で解散することになります。当時の関係者は蒅の製法とインド藍の製法は根本的に違うこと、その染色技術も全く違うことに対処せず有効な方策が見つけられなかったように思われます。

 

 

国内の紡績業や綿織物の発展により布帛の需要はますます拡大し、染料は足りない状況でしたので阿波藍もインド藍との競合のうちに、明治31年に合成藍が輸入され始めます。その後大きな近代化・工業化の流れのなか、世界のシステムは有機化学工業が主流となり、インド藍とともに日本の藍も消えていきました。

 


藍でつくられる色 - ② 御納戸色

2 015年の展覧会で「藍によって作られる色」を主題に作品の展示を行いました。藍以外の染料のことは専門ではありませんし、それほど経験を積んだ訳でもありませんが、江戸時代の文献をみていて試してみたくなったのです。紺屋の仕事の形態で、糸染め(先染め)専門と後染め専門の呼名が各地に残りますが、藍以外の染めも併用していたのは主に後染め紺屋でした。

 

江戸全期を通して茶系統の色が最も多く流行色になりましたが、中期以降藍系統も江戸前のクールな色として愛用されるようになりました。阿波藍の生産もこの頃から飛躍的に多くなります。

 

「御納戸色」は灰味の暗い青色で、藍玉の単一染と書かれています。納戸系統の染色は茶、鼠系統と共に好まれ江戸中期ごろの代表的染色になります。江戸後期になると微妙に違う色の染め分けも流行色となり、下染めの藍の濃度、併用して染める矢車、茅、刈安などと媒染剤の鉄、酸で調整し染色していました。下染めの藍が濃花色で「錆鉄御納戸」空色で「鉄御納戸」濃浅葱で「御召御納戸」を染め分け、「錆御納戸」「御納戸茶」「高麗納戸」など同じようで少しずつ違う色も名付けされています。染め布の素材の違いによっても色の雰囲気は変わりますので、呉服屋と紺屋との心をくだく連携も想像できます。

 

納戸色•御納戸色の呼称の由来ははっきりしませんが、納戸(屋内の物置部屋)の垂れ幕に用いられた布の色からとか、藍海松茶の絹を納戸へおさめ、年が経って見ると色が損じて面白き色だといって名付けたともいわれています。

 

「粋」という好みを希求した江戸人の要望に、紺屋の技量が応えて優れた染色文化を作り出しました。この時代の町人の着物は殆ど残っていなくて残念です。


藍草で染めた名称 染料による青系統の名称

で染めた色の名称は唐の時代に律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱がみられますが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別は鮮明でなくなり、各々に使われ伝わる範囲で並立して普遍的な識別には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

 

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代も八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

 

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。

この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。

 

この時から青色に染まる物質藍草から作られる固形のインド藍や泥状の琉球藍と、人工物の黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称と多様な染料と染法が紹介されるようになります。


藍でつくられる色 - ① 藍色

色を説明すると「藍で染めた青色の一種。青より濃く、紺より淡い色。」染色辞典 中江克己編 というのが一般的でしょうか。産業革命後の合成染料の発明で藍色の意味が変化しました。かつての藍色は「藍の単一染の色ではなく、藍染の青に黄を加えた緑味の青色のことである。縹(はなだ)のような純正の青色ではない。」日本の伝統色 長崎盛輝 

 

合成藍の普及が始まったころは、古の「藍」で染めた色に似ているということから「藍色」と呼ばれていたものが、その後広く使われるようになります。そして今度は天然藍で染めた色を指すように「藍色」が使われだしました。実際の染料はほとんどが合成藍や化学合成染料だと思いますが、それとともに「藍色」の着物や帯が一緒に身に着けている白、薄い色のものを藍で染めてしまうことも常識になってしまいました。

 

 

言葉の持つ意味が時代とともに変化するのは妨げられませんし、受入れないといけない事かも知れません。しかしそれとは別に技術や材料の持つ意味は、正確に説明し続けないと本来の技術は消滅すると思います。時代が大きく変わっている現在、世界には多くの種類の藍があり若者の間でも天然藍は興味をもたれていると思います。多くの青色染料が出現してから一度も藍の定義がなされていませんが、今後を担う方達に藍の定義をつくっていただきたいと願っています。


後藤捷一 三木文庫設立に尽力

格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも必ず読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。私ごときが紹介するのはおこがましいのですが、語らせてください。

 

明治25年(1892)徳島市国府町の藩政時代から続く藍師の家で生まれました。後藤家は組頭庄屋を勤めた旧家で、後藤家文書は組頭庄屋関係史料を中心に経営史•農政史•藩制史•商業史•文化史と多様な内容で村落史研究に活用されています。戸谷敏之『近世農業経営史論』(日本評論社 1949)の中で阿波と摂津の農業が特殊な経営であると、後藤家文書の経営史料を使い論証しています。

 

徳島工業学校染織科卒業後、大阪で社団法人染料協会書記長を勤め内外染料の研究や『染織』の編集、近畿民俗学会にも参加し、藍の民俗的研究も始めていました。戦争によって染料会館が爆撃され、昭和19年染料会社・三木産業に勤務、退職後は民俗学研究家の渋沢敬三のすすめで徳島の三木家の古文書、藍関係資料の整理を行い三木文庫設立に尽力しました。

 

三木文庫は全部が祖先以来歴代の事業からの史料なので、門外不出として公開されていなかった史料でした。昭和29年(1954)当主の決断で創業280年記念事業として開館しました。阿波藍関係文書2,000点、藍関係緒用具類150点、藍染布類200点、天然色素とその標本の染布類300点、一般庶民資料12,000点が展示されています。他にも阿波の桍布(あらたえ•太布)、和三盆糖、人形芝居の関係資料、その内容は木綿普及以前の織布や機具類、和三盆糖製造用具類一切を収め、県、国の重要民俗資料に指定されています。

 

後藤捷一氏の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻書、染織見本帳、錦絵など671点からなる目録と解題『日本染織文献総覧』をまとめました。『阿波藍譜』全6冊 三木文庫『染料植物譜』(1937)はくおう社『絵具染料商工史』(1938)『江戸時代染織技術に関する文献解題』日本植物染研究所1940.1『日本染織譜』(1964)東峰出版『古書に見る近世日本の染織』(1963)大阪史談会『日本染織文献総覧』染織と生活者(1980)などの著作は約100点に及びます。

 

なによりも尊敬することは、博識と多方面にわたる教養を併せ持った後藤捷一氏が『あるくみるきく』近畿日本ツーリスト 1976.11の特集の中で、藍染に関わる誰よりも正確に藍の醗酵建を記され、青の生まれるメカニズム―醗酵によって生じる化学変化の様子を独自の説明で教えてくれたことです。


青色色素を藍菌が還元するメカニズム

めて徳島で藍染の話しを聴いたとき、染液の表面が紫紺色なのは藍の色素が酸化しているからで、液の中は青味は無く少し赤味の海松茶色なのが不思議でした。今では藍の色素が水に溶けないことも、還元と酸化の化学変化で色を失って水溶性の染液をつくることも、布や糸が浸透しただけでは青く染まらないこと、染液から空気のある世界にふれた途端に酸化して、また元の青い色素に戻ってくること、が当り前のことに思える日々を過ごしています。

有機物を含む蒅(すくも)のなかには多くの細菌(バクテリア)が生息していて、その数は数えきれないようです。というより、調べたことはないのでは…と思ったりします。藍の還元にとって有用な細菌は嫌気性の性質をもっているから、できるだけ染液に空気を入れないように、静かに作業をすることが求められています。一方染めの仕事が終わった後は必ず、下に沈んでいる蒅が浮上するくらい強く撹拌をします。当然、染液のなかに空気が混ざり液が酸化されます。強アルカリ性を好む細菌の活動によって、細菌がつくりだす酸によって染液の下層のアルカリが低くなっていきますので、均一にするということは想像できますが、あまり撹拌し過ぎるのはどうなのかなと、矛盾する行為なので長く疑問に思っていました。

 

以前から藍の還元に有用な細菌は5~6種類であるといわれていましたが、どんな働きをしているのか少しずつ解ってきました。最近になってそれぞれの細菌の研究が進み、好アルカリ性乳酸菌であるAlkalibacterium 属の細菌は嫌気性微生物であり、藍染液の中層から下層の嫌気条件下で糖から乳酸を生産することで藍を還元します。一方Halomonas 属の好気性・好アルカリ性乳酸資化菌も存在していて、蓄積された乳酸を栄養源として利用しつつ、酪酸を蓄積して微生物共生系を安定に維持することで、役立っていると考えられているようです。藍の還元に有用な好アルカリ性乳酸菌は他にも何種類も分離されていて、もっと詳しいことがいずれ解る日がくると思います。

 

 

日々観察することで藍細菌の管理を、的確に行なってきた先人たちの素晴らしさを誇りに思います。


藍の青色色素を醗酵によって水溶性にする!?

の染色は他の植物による染めと比べると大きく違うことがあります。藍の葉に含まれる青色素が水に溶けないため、容易に染色することができません。正確に伝えますと、しばらくの間は水に溶けるのですが、すぐ水の中で溶けない物質に変わるのです。色素が水に溶けるということは、染める対象の繊維に浸透することで色素が固着し、より強固に固着するため媒染剤という両者を取持つ物質の力も有効に利用できます。

 

そこで藍の色素を水に溶かし、布や糸に浸透できる状態にする技術が考えだされました。建染染料である藍は、還元と酸化という化学反応によって物質を変化することで、一時的に化学構造を変えアルカリ水溶液に溶かし染め、空気で酸化させ固着します。酸化還元反応は18世紀には明らかにされて、生活の中で一番身近な化学反応なので化学薬品の豊富な現代においては容易に行うことができます。人類はこの還元を化学薬品のない古代から、醗酵という技術で活用してきました。葉藍から〈すくも・蒅〉に加工する間に藍菌と呼ばれるアルカリ性で活動する細菌が植付けられ、染液にする過程で大量の有機物と木灰汁の中で増殖し、醗酵という作用で青色素(インジゴ)を還元します。葉藍や蒅を化学的に還元剤を使って還元する作用とは明らかに違うメカニズムが生じていることと思います。このことが曖昧なまま解釈が先行した結果、多くの誤解を生むことになりました。

 

本来藍の葉に含まれる青色素は容易に染色できないのです。醗酵によってやっと水溶液に溶け、繊維に浸透し空気によって酸化した青色素は、また溶けない物質に変わっているはずです。建染染料は顔料のように付着染料ともいわれるように、摩擦により他の繊維に付く性格もあります。しかし青色素に染まる力がないのであれば他のモノに染め付くことはないと思います。

 

 

近代の藍染製品の特長として、一緒に身に着けている白、薄い色のものを藍で染めてしまい、着用する際は気をつけることが通常となっています。一体どのような藍なのでしょうか。


平安時代は銘柄絹物「阿波絹」のブランド産地でした

覧会で各地に伺うと、阿波(徳島県)は藍の産地だけど藍の織物の産地ではないのでしょ?といわれます。答えるのはなかなか難しく、説明しようとすると長くなります。といってもわたしの説明は何でも長いのです。たった150年ほど前のこともきちんと伝わっていない衣類の染織の移り変わり、それらの取りまく事柄を千年以上も前のことまで辿って、変遷していく道筋から想像していくのですからわかり難い説明です。

 

律令政府の租税の中には調として絹織物や絹糸がありました。正倉院に残っていて国印がわかる中では播磨、越前、伊豆、阿波の品質が良いと分類され、天平4年(732)の銘文がある阿波で織られた実物が保存されています。延喜式の中でも絹織物、上糸国として綾織物、白絹、絹糸などを調として献上しています。そして藤原明衛『新猿楽記』(1053–1058頃)には諸国の物産の中「阿波絹」の名があげられているように、養蚕・製糸・織物の技術の優れた地域だったことが想像できます。

 

棉が初めて日本に伝えられたときも、栽培を試みた7カ国に阿波も選ばれています。品種が適応しなかったのと知識不足とでこの時は育ちませんでしたが、進歩的な情報は入りやすい土地だったようです。鎌倉、室町、桃山と時代の権力者は宋、明からの舶来織物を好みましたので、日本では一部の地域で銘柄織物を産し他地域ではあまり発達していません。

 

 

江戸時代になって少しずつ地域色のある織物が流通するようになり、染織技術も広まったのではないでしょうか。『阿波誌』(1815年)など郷土史によると麻植郡が染織業は盛んで、紬・絹・繭綿・麻布・草綿布・間道草綿布を産しています。他にも藍纐纈・褐布・穀布・麁布などが土産として記載されています。明治になると阿波しじら・鳴門絣・木綿絞布などが全国各地の物産を紹介した「内国勧業博覧会」の報告書で確認できます。文久元年(1861)阿波藍玉取引図で各地の使用量と比べると、藍の織物が阿波で多く生産していたことがわかると思います。各地の情報に接していた阿波は、藍だけではなく織物の水準も高かったと思います。


横浜港開港によって大量のインド藍の輸入が始まりました

末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

 

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

 

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)

         印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)


藍という商品作物–社会の発展とともに

盛期の明治36年(1903)には吉野川、那賀川、勝浦川流域で15099ヘクタールの藍が栽培されていました。当時の県内全耕地面積の約23%、稲作面積の約50%に当たります。藍の衰退によりあっという間に大正末期には水田までが桑畑になり、10240ヘクタールにまで拡大して養蚕農家も4万戸となりました。養蚕が活力を失ったあと沢庵漬加工と大根栽培、奈良漬加工と白瓜の栽培など時代とともに変化するどんな野菜でも栽培し、現在は人参を多く栽培しています。絶えず収益性の高いものを摸索して栽培品種が生まれましたが、変り身のはやさと勤勉さには敬意を表します。土壌の良さも‥‥

 

 

それでは藍の前の品種は何だったのでしょうか?非常に古いことなので記録もありませんが、私は荏胡麻だったと考えています。9世紀以降荏胡麻から作られる灯明油は、全国の社寺や宮廷など貴族社会に浸透し始め生産と販売の流通網がつくられます。徳島では港津「別宮」から「山崎」へと荏胡麻が運ばれている15世紀の記録が残されています。藍の商品作物としての展開は、社会の進展とともに新たな供給先が育ったことで始ったのではないかと考えます。


藍と吉野川

島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。


阿波藍商人見立一覧表から見る明治期の藍の隆盛

両 親、祖父母は徳島の出身ですので、関東で育った私でも少しは徳島のことは知っていました。だけども藍のことなど聞いたこともありませんでした。

父方の祖母はこの眉山の麓で長年暮らし、訊ねますと近くに紺屋があったのは覚えていました。明治31年(1898)に合成藍の輸入が始り、祖母の青春時代には合成藍や硫化染料の全盛期になっていました。(本人は阿波藍だと思っていましたが……)

 

明治憲法下で市制がしかれた頃の徳島は、阿波藍の隆盛がつづき大変活気のある状況だったようです。

 

藍商人の数もおよそ4000人いたと伝えられています。それぞれが格付を競っていた様子を藍商人見立一覧表で見ることができます。 →クリックで大きくなります

 


青の歴史ー多くの民族によって創られた青色の文化

世 界各地にさまざまな青色を染める植物があって、遥か遠い昔から人類に利用されてきました。

地球上のそれぞれの地域で、青の歴史は創られてきました。

染料の化学、染織技術、交易活動、イデオロギーの表現、美学的追求など2000年以上にも渡って多くの民族が独自の文化を創り出しました。

15世紀後期インド洋航路が発見されてから、ヨーロッパの列強国によってそれまでの多文化が大きく壊滅されていきます。

 

 

ヨーロッパにおける藍をめぐる各国の係争を知ったとき、日本ではなぜ阿波(徳島県)だけが長い間独占し続けられたのか、とても疑問に思いました。「青い金」といわれた藍の産出国ドイツ、フランスはインド藍が大量に輸入されるまで莫大な富を築いています。文献資料「兵庫北関入舩納帳」によって、文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、阿波から最大消費地京都へ藍を輸出していた記載が残されています。多くの人は阿波一国が、藍栽培と青色染料貿易を明治時代までおよそ500年独占してきたことを知りません。


HANADA倶楽部ー徳島市眉山の麓にある藍染工房です

藍 と人との関わりが始った古い時代から現在までの情報を整理、発信します。

HANADA倶楽部は徳島市内の東西に細長く山裾を広げた「眉山」の麓にあります。

 

吉野川の河口に位置するこの辺りは古代では海の中です。

小島であった「眉山」は聖なる山とされ、一切の民を住まわすことが禁じられていました。

標高290mの山頂に続く登り口には必ず神社寺院があり、その境内から登るように登山道がつくられていました。

名前の由来は、天平6年(734)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕したときの歌として、「眉(まゆ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも」船王:ふねのおおきみ 万葉集に詠まれています。

何時のころから「眉山」と呼ばれるようになったのか分りませんが、古くは風光明媚な吉野川の三角洲が、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭津、渭山(いのやま)と呼ばれていました。室町時代に室町幕府の管領、細川頼之が渭津城(徳島城)を築きました。

 

 

眉山山頂からは徳島平野を一望でき、天気のよい日には淡路島や対岸の紀伊半島まで見ることができます。

 

1992年に設立しましたが、展覧会中心の活動でした。これからは藍講座を開催したり、オープンアトリエを設けるなどの活動も考えています。アトリエでの藍の仕事にほとんどの時間をとられていますが、ご要望などありましたら連絡下さい。

 


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