深淵なる蒼い時間


伊藤洋一郎(1929-2004)

徳島県徳島市に生まれる。

旧制中学を中退して陸軍航空隊へ。特攻隊要員として中国大陸で終戦を迎える。

 

以来徒党を組まないことと、定着しないことを心掛けて生きている。エゴイスティックな雑誌「自由工房」の編集長という役柄は、とても気に入っている。

           ―1993.1 執筆時の自己紹介―

 

 

 

 

    

徳島へ移住してから出会った伊藤洋一郎と16年間共に活動してました。

写真の撮り方を習い、文書を書いて伝える大切さも自由という葉の重さも教わりました。

自由に生き方を選べなかった時代を生き、運よく命を繋ぐことできた敗戦後でも生きずらい環境に贖い、自由に生き続けようと努力した人です。

私の藍染表現の全てに、伊藤の影響があります。
残りの時間を”伊藤洋一郎生誕100年記念展”の実現を夢に力をいでいきたいと思います。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.001


彼の作品には、或る年令に達した者にしか表現し得ない「何か」が存在し、見る者を圧倒する。油彩を下地にその上にクレパス、オイルパステルを塗り重ね、それを削り又塗り重ねていく。その行為を繰り返す中に伊藤洋一郎の「物語」が誕生する。掲載写真ではお伝えしきれないのが残念であるが、静けさと熱を帯びた作品である。

 ― KITCHEN CHIMERA 012 1997.10.1 大岩紀子 ―

 

                                                                   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

1981年から2003年まで東京都大田区久が原に存在したギャラリー「ガレリアキマイラ」のオーナー・大岩紀子の追悼記念として、その活動を記録した本『ガレリアキマイラキマイラ』 2014 発行 宝船計画  に掲載 p190 文:森くみ子

 

伊藤洋一郎が大岩紀子さんと出会ったのは、ひょんなことからデッサンを観ていただいたことからでした。わたしが26年前に徳島に移り住み、絵描きである伊藤に出会い、58歳の彼がもう一度人生のチャレンジをはじめたのです。青春時代、戦争に巻き込まれ、純粋に自己完結な方法で生きていました。虚空の彼方から見やる精神とその孤独感のなかで「情」を恋うる感性を合わせ持っていた彼の描いた絵を最大限の感覚で観てくれ、表現して応援してくれた大岩さんでした。 

1997年、椿近代画廊の展覧会に導いてくれたこと、その時の作品によせて、透徹した評を残してくださったことで伊藤はどんなに心強く思ったか知れません。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.002


伊藤洋一郎のことを考えるとき、わたしはこの文章を思い出す。大好きな徳島の海に「海釣り公園」を施設する計画が持ち上がったとき、古い釣仲間たちと反対運動をはじめた。そして市長選を応援する市民の会をつくり代表になってしまった。その期間に発表した文章だ。十数年後、2008年アメリカで第44代大統領に就任したバラク・オバマ氏が就任演説で、演説を終えるにあたりアメリカ合衆国の建国期に思いを巡らせ、独立戦争時のトーマス・ペインよる文章に言及しながら、革命の成功が危ぶまれる困難に対して建国の父ジョージ・ワシントンは果敢に立ち向かったことを話し、怯まず、諦めず、歩み続けるとメッセージを発した。地方都市の市長選の出馬表明の会場での伊藤の挨拶は、大勢の人が意味も分からず時間ばかりが過ぎていった。

 

     常識について

 いわゆる内弁慶というやつだろうか、仲間うちでは結構おしゃべりの方なのだが、改まった席でのあいさつとなると、まるで不得意である。学生を教えていた十年余りの経験から、仕事の話しをするぶんにはさして抵抗もないが、結婚式の祝辞は大の鬼門である。だから自衛策として、毎年の新入生の授業初めには、自己紹介を兼ねて将来のご招待をお断りしていた。それでも二度出席したことがある。一人は身寄りの少ない学生で、親代わりにと請われて断りきれず、一度はうかうかと口車に乗せられてのことだが、どちらの場合も、話がとんでもない方向に飛び火してしまって閉口した。  

 つい先日のことだが、ある集まりに出席して一言あいさつする羽目になった。集まりの目的ははっきりしたものだし、二、三分の簡単なものならと、覚悟を決めての登壇だったが、やはり甘かった。どこからどうなったものか話は延々二十分にも及び、周りに随分迷惑をかけてしまった。しかも話のオチはつかないままで、話したのは「常識について」だった。

 この常識という代物はいろんな顔を持っていて、単純ではない。辞典によると、常識=(common sense)健全な社会人が共通にもつ一般的な知識や判断力。専門知識に対していう- とある。これにしたがえば、常識人であるためには、まず健全な社会人でなければならない。しいて話を面倒にするつもりはないのだが、健全な社会人であるためには、社会が共有する一般的知識や判断力、つまり常識をそなえていなければならないという言い方もできるわけで、どうかすると「ニワトリと卵」の轍(てつ)をふみかねない。それに- 専門知識に対していう -は、ちょっと意外だった。

 (common sense)を英和辞典で確かめてみると、まず(comonn)という語は随分と幅をもっているようで「一般の…」「公衆の…」「普通の…」といった意味合いの他に熟語としての用途は多い。(common senese)は- 常識 -とさっぱりしたものだが(common manner) =無作法-には驚いたし(common honesty)=世間並みの正直 -には思わず笑ってしまった。

 こうみてくると(common)のうちにはまぎれもなく軽い揶揄(やゆ) のにおいがあり、われわれの使う常識という言葉にも、同じ感触がある。しかし、かつてこの言葉は、激しい情熱と理想をこめてつかわれたことがあるのだ。

 話はさかのぼって、一七七五年、有名なアメリカの独立宣言をトーマス・ジェファーソンが起草する少し前のことだが、トーマス・ペインの「コモン・センス」という本が出版され、アメリカ全土に大きな反響をまきおこした。独立宣言の起草に与えた影響もさることながら、なによりもこの本によって、アメリカ独立の機運が決定的なものになったとまでいわれている。この「コモン・センス」が日本に伝えられて、常識という訳語の誕生をみることになるわけだが、この逸話は、小林秀雄が「考へるヒント」に書いているのを要約させてもらったものだ。

 トーマス・ペインという英国生まれの一革命家が、コモン・センス=常識に託した理想は次の言葉に言い尽くされている。アメリカの独立という理想について自分は、扇動的な言辞も煩瑣(はんさ) な議論も必要としていない。だれの目にも見える事実を語り、だれの心にもそなわっている健全で尋常な理性と感情とに訴えれば足りる -と。

 アメリカの独立宣言が、自由・平等・独立という、アメリカ建国の理念に基づいているのはよく知られている。トーマス・ペインの「コモン・センス」は革命の書であり、植民地政策、ひいては階級社会に対する挑戦状であった。当時の時代背景とその変動のなかにあって、大衆の希望を問い直し、夢を託されたこの言葉が、やがて独立宣言の骨組みを支える重い役割につながっていったのは興味深い。

 考えてみると、このコモン・センスは、まさにリベラリズムの申し子といってもいいわけだ。いつの時代にも、庶民の常識と支配階級の常識が、まるでちがったものであったろうことは想像できる。大きく食い違った部分もあったろうし、ときに完全な対立があったとしても不思議はない。時代の変革にのみこまれ、混乱の傷跡を残したまま、かつて理想の旗印であったコモン・センス=常識は、次第にその栄光を失っていったのだろうか。

 常識という新しい言葉の誕生とは関係なく、いつの時代にも庶民の暮らしのうちには、必要から生まれ育った生き生きとした知恵があった。人と人との間には、いたわりとか思いやりといった豊かな感情があり、その感情をむきだしにしない、控えめな理性があった。支配階級の極度に様式化されたしきたりにくらべて、はるかに人情味のある、ふだん着の英知ともいうべき「分別」という良い言葉があった。長い歳月を経て磨き上げられ、暮らしの隅々にまで深く根を下ろしていた、あの分別は一体どこへいってしまったのだろう。

 もちろん、すべてが消え去ってしまったわけではないとしても、急激な近代化や合理主義の台頭が、常識の尺度を変えてしまったのもまた事実である。

 いま日常の生活のなかで、常識という言葉を使うとき、冠婚葬祭のきまりや食のマナーに偏ってしまった感じさえする。それでも人との交わりを円滑にする効用はあるのだろうが、いま私たちが求めているのは、もっと柔軟な理性と優しい感情の働きであり、心の解放なのだ。

 ローザ・ルクセンブルクは「ロシア革命論」のなかに- 何の拘束もない、わきたつような生活だけが、無数のあたらしい形態を、即興曲を生み出し、創造的な力を持ち、あらゆる誤りを自ら正すことができる -と書いているが、その、わきたつような生活があってはじめて、またあらたな常識が生まれるのだろう。

 顔や形を変えてはいるが、いまもさまざまな抑圧はあり、支配する力も存在している。トーマス・ペインのいう「健全で尋常な理性」が、いつも多数派の側にあるとは限らないのだ。

 常識という尺度は、自分の行動を律するために欠かせないものではあるが、それを他者に向けるとき、とかく理性と感情のバランスを崩しがちなものだ。常識をふりかざして人を責めるとき、かつて解放のための武器であったものが、両刃の剣として人を傷つけることも多い。

 戦前・戦中・戦後を生きてきたひとりとして、庶民の常識と対立する時代など、もうゴメンである。そうでなくても人生には、また人それぞれの暮らしのうちには、時として、なまなかな知恵や分別で計りかね、途方にくれるほどの重さをもつものに出合うものだ。これは昔も今も変りはない。

 常識は決して習慣でもなければ処世術でもない。いつまでも、生き生きとした庶民の英知として育ってほしいものだ。

 

 1992年12月25、26日 徳島新聞


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.003


NAO企画展’90ー③ 伊藤洋一郎ドローイング展

4月5日-10日

                                                                   ◆ ◆ ◆

 

 今展の伊藤作品はコンテと鉛筆を駆使し、紙の微妙な凸凹と絡み合わせながら、じつにしっとりとした雰囲気のあるマチエール(絵肌)を醸し出している。

 徳島在住の伊藤さんは我が国美術家がとかく迂回して通って来た抽象絵画に、ひつこく取り組んでいる数少ない作家だ。

 20世紀前半、ヨーロッパ美術は抽象を発見し、次代各分野の美術の基礎を作った。彼らは普遍性という大目的のために感情の移入を極力排除し、基本色彩と基本形のみで人々の純粋感覚に訴えようとした。彼らの作品がハードになり、主張がはっきりと全面に押し出されて来るのは必然だろう。その背景には大平原民族特有のはっきりした意思表示の伝統に基づくものがあった。

 伊藤作品の形はハードでなく、柔らかく弾力があり、形に沿って意識が膨らむ。しかもそのマチエールは意識を奥へ吸い込ませる。それはヨーロッパ抽象と全く逆の方向をたどっている。しかし伊藤作品は感覚に快く響くが文学的な説明はしていない。伊藤さんはヨーロッパ作家が制作不可能な我が国特有の森林思想に基づく抽象絵画が実現させている。

 

  Take off 31 1990.3.15 ニシウチ・アート・オフィス 翠峰画廊


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.004


19世紀のアメリカで白人の「文明」の前に無力だったインディアンは、相次ぐ弾圧によって西部の不毛な地帯へ追いつめられていった。北西海岸領域の部族の酋長シアトルが第14代大統領フランクリン・ピアスに宛てた書簡は、人間を取りまく、そして人間が共に生きなければならない自然を語って感動的である。かつてこれほど美しい心に沁みる言葉を知らない。満々と水をたたえた落日の吉野川を前にして、書簡の一節が頭からはなれなかった。

―空や土地の暖かさを売ったり買ったりできるのか、その考えは私たちにはなじまない。新鮮な空気、水の輝きを所有してはいないのだから、あなた方も買うことはできない。―

―川は兄弟で、のどの渇きを癒してくれる。川はカヌーを動かし、子供たちに食料を与える。この土地を買うのならば、川は兄弟なのだから、自分の兄弟に対するときのやさしさで応じるのだと、あなた方は子供たちに教えなければならない。―

   ”シアトル酋長の書簡” Switch 所蔵 訳・荒このみ 『自由工房』1990 1 JULY p19-21「吉野川」川は兄弟なのだから


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.005


中村淳子氏に、今年一月に椿近代画廊で行われた伊藤洋一郎氏へのオマージュをお願いした

     ― KITCHEN CHIMERA 012 1997.10.1 大岩紀子 ―

 

 ゆくえ

   伊藤洋一郎へのオマージュ

                                        中村淳子


それは

あらかじめ刻まれた

喫水線だった

 

それ以上

欲を積めば沈み

それ以上

荷を下ろせば

転覆する

 

天と地の交わる

ひとすじの航路を探しあぐね

おそらく世界は

幾千もの箱船を

のみこんできた

 

眼を半眼に閉じれば

そこにはもう

陸も海もない

あるのはただ

ひろやかな海の涯てに

けぶるように横たえた

世界の肢体だけだ  

 

ふと

観察者をきどり

肢体の喫水線に

水準器をおいてみる

 

すると

いったい世界は

どう傾いだものか

ただ一粒の

〈泡〉のゆくえさえ

とうに

知れないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1997.1.21-31 伊藤洋一郎展 椿近代画廊


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.006


 

中村淳子氏に、今年一月に椿近代画廊で行われた伊藤洋一郎氏へのオマージュをお願いした

     ― KITCHEN CHIMERA 012 1997.10.1 大岩紀子 ―

 

To Where?          

 An omage to Yohichiro Itoh          

                                                    Junko Nakamura         


It was

a pre-engraved

waterline

 

It would sink,if

only a bit more of greed were loaded

It would sink, if

only a bit more

of load were lifted

 

Lost in seek for a single streak of sea route

the place where heaven and earth meet

Undoubtedly, the world has swallowed

many of a thousand arks

 

Slightly closing one’s eyelid

There, there is no land or sea to be seen

Only is there

at the edge of the wide sea

the world’s body laid

idly in the mist

 

Just by chance

You act as an observer

placing the spirit level

at the body’s waterline

 

And then

However did

the world lurch lost, even

to where a single  “bubble”

has gone

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1997.1.21-31 伊藤洋一郎展 椿近代画廊


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.007


1945年-昭和20年特攻隊要員として中国大陸で敗戦を迎え、その後南京の捕虜収容所に移送され一年くらい捕虜となる。

昭和21年に徳島へ復員して、いろいろあって「ちんぴら」として暮らしていた、と私には語った。そして「ちんぴら」仲間から徳島県で行われていた美術展への出展を勧められ、23年第3回県美術展へ出展する。伊原宇三郎氏を審査員に迎えた県展で、初めて出展した作品『静物A』が奨励賞を与えられた。

*昭和25~28年ころの絵と伊藤洋一郎。*1954年-昭和29年 徳島市内丸新デパートの3階にあった展示場で第1回個展を開催。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.008


93歳で世を去った父方の祖父は、晩年を鳴門ウチノ海の漁港・堂ノ浦で暮らした。

からだに沁(し)みこんだ海好きはこの祖父ゆずりなのだろう。祖父を訪ねた行き帰りの、渡し船から眺めた風景の断片や、船着場の小さな桟橋が記憶に残っている。

その桟橋の先端(はな)にしゃがみこんで神秘な海中の世界に心をうばわれ、いつまでものぞきこんであきることがなかった。

幼い心に焼きついた甘美な感動は、いつか現実を超えて自分だけの伝説の世界を形づくっていったようだ。

近ごろの汚れた海を見るたびに、人間の営みの愚かさとかなしさをおもわないではいられない。

でも海は、決して人間なんかに負けはしないだろう。

いっときも休むことのない水面の波紋を見つめていると、遠いはるかな記憶とむすびついていて、「伝説の海」がいまも鮮やかに甦(よみがえ)ってくる。

  『’92とくしま』発行 徳島市 まちと水の光彩 p4.5「伝説の海」 Photoessayより


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.009


『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《あなたにとって曖昧なときはどんな時か》 

 私たちはさまざまな情報や現象にとりまかれて暮しているのだが、感受性や想像力がその内容をさらに多彩で複雑なものにする。そのそれぞれに敏感に反応しながら毎日を生きているわけだ。遠い国の戦渦や飢餓に、政治や経済の変動に、街の変化に、友人の死に、街路樹の紅葉に、心をうばわれ、怒り、共感し、失望し、ときに無関心に、そして層々絶望しながら。生活感情を生むこの底知れぬ深いよどみのなかでは、倫理感も宗教心も、また哲学も、日常の些事とまったく同質であり変るところはない。たとえば、月末の支払いの心配や夕食の献立とも雑居しているのだ。論理に裏打ちされた合理性と義理人情のあいだにも、優先権などありはしない。そのどれひとつとして無視することも手離すこともできないまま、迷い、あやふやななかで暮している。自分自身を振りかえってみて、事にあたって曖昧でなかった憶えはない。それでも曖昧の対極にあるのが確信や決意といったものだとすれば、やはり憧れとしてはある。その確信に近づくために、あるいは日常のあいまいさから遠ざかるために、絵を描くという行為を選んだともいえるのだが、そこのところを説明いするのはひどく厄介なことだ。

 複雑に交錯した生活者としてのあいまいさは、絵画的手段によった作業の中で、色彩やフォルム-連想をともなわない-やマチェールに変身して、ある確信を形づくる。もちろん抽象的でもありイリュージョンとしての確信だが、もともと確信なんてイリュージョニックなものだ。絵画的手段というのは、カンディンスキーの言葉を借りるなら-自己を表現しようとして、自己と精神的に同質の形態を選ぶ-ための通路ともいえるものだろう。通路は一方通行で、作品の確信を生活の場に持ち帰ることはない。日常のあいまいさを汚さないために。

 通路にカラクリは必要ないが、清潔でなければいけない、確信を汚さないために。

              1993年1月25日  The Earth ジ・アースVOL.25 ジ・アース/トーク 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.010


伊藤の話から両親や兄妹のことを殆ど聞かない。

わだかまりが多くあることは、井形という苗字の家族の中でひとり伊藤と名乗っていたことから想像はできた。

一枚だけ父と写った写真が残されている。

母との写真はない。

戦前の写真だが看板屋を営んでいたそうだ。ジョン・ウェイン主演の「駅馬車」の看板を描く父のことは楽しそうに話してくれた。西洋映画が好きだったと云っていた。

 

   前列右端:井形眞造 前列中央:伊藤洋一郎