深淵なる蒼い時間


伊藤洋一郎(1929-2004)

徳島県徳島市に生まれる。

旧制中学を中退して陸軍航空隊へ。特攻隊要員として中国大陸で終戦を迎える。

 

以来徒党を組まないことと、定着しないことを心掛けて生きている。エゴイスティックな雑誌「自由工房」の編集長という役柄は、とても気に入っている。

           ―1993.1 執筆時の自己紹介―

 

 

 

 

    

徳島へ移住してから出会った伊藤洋一郎と16年間共に活動して

ました。
写真の撮り方を習い、文書を書いて伝える大切さも自由という

葉の重さも教わりました。
自由に生き方を選べなかった時代を生き、運よく命を繋ぐこと

できた敗戦後でも生きずらい環境に贖い、自由に生き続けよ

うと努力した人です。
私の藍染表現の全てに、伊藤の影響があります。
残りの時間を”伊藤洋一郎生誕100年記念展”の実現を夢に力を

いでいきたいと思います。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.021

伊藤洋一郎が突然逝去する1週間前に印刷が完了した『Works 1995-2002』の作品図録に、当時、多摩美大学教授/府中美術館館長であった本江邦夫氏が作品評論を寄せてくださいました。2年前の展覧会の折に、伊藤さんの評論を自分はより良いものが書けると仰られ、伊藤は本江さんからの絵に対する質問に納得して楽しみに待っていました。なかなか出来上がらない本江さんの評論を、私は側で見ている伊藤のイライラを2年間大層疎ましく感じていました。そして2004年7月、待望の原稿が送られてきました。その文章を読み伊藤は自分の仕事の真の理解者を得た思いがして、本当に嬉しく安堵した様子でした。 今年の6月3日突然の訃報が訪れました。本江邦夫氏が羽田空港で心筋梗塞のため帰天されました。私は未だに本江さんがこの世に存在しない現実と向き合うことが困難な状態です。本江邦夫氏に感謝と哀悼を込めて評論を掲載します。

 

 





 

存在の重さー伊藤洋一郎のためにー         

                                                                   本江邦夫

 

 あれはいつのことだったか、新宿の椿近代画廊で伊藤洋一郎さんの、ひたすら水平方向を強調した抽象画(色面抽象と言うべきか?)を目にしたとき、咄嗟に思いついたのがバーネット・ニューマンだった。とはいっても、私はその個展をいきなり、気まぐれに見に出かけたわけではない。

 そのころ、私はまだある近代美術館の館員で、事務方の若い同僚に、徳島出身の、写真をよくする人がいた。今は郷里の大学に転勤してしまった彼の、お師匠さんともいうべき人として紹介されたのが、いかにも古武士の面構えをした伊藤さんとお目にかかった最初だった。伊藤さんの写真家としての仕事は比較的良く知られているので、私ごときがここに付け加えるものは何もない。とにかくけれんみのない写真を撮る人だ。

 

 その伊藤さんが実は、ずっと絵を描いている。それも、ぎんぎんの抽象で、こんど新宿の画廊で個展をするとのこと。これは見ずばなるまいと、なかば興味本位でオープニングに足を運ぶことにしたのである。意外に華やかな初日の人の集まりだったが、そんなことより、とにかく私の胸を貫いたのは ⎯⎯⎯⎯⎯ 冒頭にも述べたようにまるでうつむき加減で寡黙に立ちつくすかのような、水平線もしくは水平方向の地帯ないし横縞からなる、まさに理路整然とした作品の連なりだった。

 

 この圧倒的な水平方向の造形に、なぜ私がバーネット・ニューマン(1905ー70)つまり垂直の稲妻のごときzipの画家を連想したのか ⎯⎯⎯⎯⎯ これは少し説明を要する。実は、絶対的なまでの垂直の造形にこだわっていた、この孤立独歩の、遅咲きの画家にして思想家には1949年、つまりあの先鋭な刃物のごとき、ほとんど最初の垂直線のヴィジョン、すなわち《ONEMENT》によって絵画の新次元を切り開いた翌年にかぎって4点ほどの水平方向の作品、いやむしろ試作があり、しかも、大小2本の水平線を用いた《DIONYSIUS》をはじめとして、そのどれ一つとして成功しているとは言いがたいのだ。 全体として構図にしまりがなく、イメージの不毛の原野を一心不乱に前進するこの巨人的画家の仕事にしては、足元がおぼつかない。それでも、かなり横長の《HORIZON LIGHT》はなんとか見るに耐えられるものになっているとは思うが、その最大の理由が画面中央を水平に走る帯に施された、あるいは施さざるえなかったイリュジョニズムの曖昧さ、つまり前衛的であるべき画家の造形の一種の退行にあると知れば、先を急ぐニューマンが一群の水平方向の作品を、まるで異形の子らでもあるかのように捨てて顧みなかった理由がよく分かるのである。

 

 当時のニューマンを中心とする、いわゆる抽象表現主義の精鋭たちにとって、イリュジョニズムはペストもさながらに忌み嫌うべきものだったのだ。そして、どういうわけか、少なくともニューマンの場合、水平方向の造形には、まるで呪いのように、この過去の遺物がつきまとったのではないか。それはおそらく5本のzipを使った《VIRHEROICUS SUBLIMIS(英雄的にして崇高なる男)》(1950/51)を典型として、ニューマンの垂直線には、好むと好まざるとにかかわらず、天と地に引き裂かれて直立する人の気配が漂うことと深く関係している。これを人間存在のメタファーと言い切ってしまえば話は簡単でいいのだが、本当の問題はもっと別のところ、つまり人間そのものを天と地の、上下の二分法で位置付けようとする、そのほとんどヘブライ的なヒエラルキー(位階制)の、問答無用の厳格さのなかで、水平方向の広がりはひたすら無秩序であり、ほとんど未開と、あるいは絵巻物の異文化と境を接するもであるにちがいない。水平線を試行したニューマンの戸惑いと失敗は当然のことといえるだろう。

 

 翻って、伊藤洋一郎さんの水平の造形に私が直感したのは、今にして思えばニューマン的なヒエラルキーの欠如だったのだ。ニューマンの水平線の作品があれほどの愚作であったのにくらべて、はるかなる徳島に、いわば隠棲するこの老画家の水平的造形は、大都会の一隅にあって、伸びやかに、そして奥深く場所を得ているではないか、この違いは何なのか。伊藤さんというのはただ者ではないと思っていたが、ここまでの厳しい絵を描く人であるとは…私は、真正な絵画との予期せぬ出会いにはとんど動揺していたに違いない。だから侮るなかれ、絵というのは、どこで、だれが、どのように描いているか分からない。絵画の世界はかくも広く深いのである。

 

 ところで、伊藤さんの水平線の造形の最大の魅力は何なのか。中村淳子さんという詩人らしき人が、これについて、「それは/あらかじめ刻まれた/喫水線だった」と面白いことをいっている。「それ以上/欲を積めば沈み/それ以上/荷を下ろせば/転覆する」とも。⑵ つまり、それはたんなる水平線もしくは地平線のイリュージョンではなく、むしろ重力にしたがって水平に安定するしかない二つの色面のぎりぎりの関係、あるいは無限に緊張を孕みつつひたすら自らを圧縮するしかない、ある種のzoneつまり特別な地帯のごときものである。

 伊藤さんの薄命の水平線が見せる精神的な迫真性は、たとえば《海辺の僧侶》(1809)のフリードリヒのそれに似ている。この陰鬱な北方の、孤高の画家は壁のような空を背に黒ぐろとせり上がる暗い海と、浜辺に立つ小さな悔いのごとき僧侶の姿を等価に置くことによって、たんなる自然の形象でしかない水平線を、いわば人間化したのである。だからニューマンのzipが人間のメタファーでありうるのとまったく同じ意味合いで、伊藤さんの水平線にも人間の存在、いやむしろ実存を想うことは十分に可能である。

 

 

 ここで人間は絶対的なヒエラルキーとは無縁だが、自らの重さを扱いかねて、空と大地のあいだで一種のzoneを形成している。伊藤さんの初期の人物デッサンやスケッチの見事さを思えば、この水平の凝縮された一帯に具象的なものの痕跡のもしくは記憶を探ることもじゅうぶんに可能かもしれない。

 

 かつてクレメント・グリーンバーグは「より新しいラオコンに向けて」(1940)において、三次元空間の模像ともいうべき遠近法を放棄した前衛絵画の特質として、擬似的な奥行きが、その内なる事物とともに画面に向けて圧縮されて生じざるえない「震えるような緊張感」を挙げたが、私は伊藤さんの、深く絵具を秘めた重層的なマチエールのせめぎ合いから起因する、ある種の活断層のごとき水平線に同様の緊張感をおぼえるのである。

 

 こうした緊張感に人間的なものを見ようとするのは、素材そのものの究極の姿として絵画を夢想したグリーンバーグ、あるいはその高弟ともいうべきマイケル・ブリード、つまりはモノリス(一枚岩)的なモダニズムの権化たちからすれば邪道かもしれないが、私は私で、ミニマル・アートを筆頭にいかに無機質なものであれ、それを前にして私たちの心が動くのは、何といってもそこに「人間」を感じるからに他ならない、そうした私たちの自然な反応のいったい何がいけないのかと思うのである。

 

 伊藤洋一郎さんの画面が、気楽な「平面構成」であれば、ここまで「重いもの」を私たちにもたらしはしないであろう。同じ新宿の画廊の個展(2000年)で2度目に見る機会をえた伊藤さんの抽象絵画はより簡潔になっていて、縦長の画面を水平線で二つの色面に、文字どおり二等分したものだけがずらりと並んでいた。そこにあるのは、世界を垂直に、あるいは上下に段階づけるヒエラルキーではなく、天は地、地は天ともいうべき融通無碍の世界観であるように私には思えたが、画家自身はこうした理屈とは無縁であるかもしれない。そんなことより、迂闊にも、このとき初めて気づいたのだが、伊藤さんの作品はふつうの油彩のように見えながら、どれもみな材質、技法はミクストメディアとなっているではないか(この頃は油彩とパステルを併用した由)。

 

 伊藤さんの一見したところ平坦な色面抽象に、独特の技術的な過程があることは、最近になってご本人からじかに伺うことができた。しかし、私は画家ではないので、話を聞くには聞いたが、それをここで詳述する術をもたないし、また本当に理解しているかどうかも自信がない。とにかく、最近作の油彩では、ナイフの厚塗りによって形成された絵画層の凸凹が半年ほどの時間をかけて、下塗りのなかに吸収されることにより、なめらかな表面が仕上がるのだという。荒くれだった絵画層の静謐なる沈降ともいうべき、こうした技法の妙もさることながら、私がここに感じるのは、そうした緩慢な時間と空間の中で熟成され圧縮されていく絵具に託された画家自身の存在の重さである。

 現実の事物と何ら具体的な接点をもたない円や方形のひたすら図形的な造形、いわゆる幾何学的抽象に、なぜ私たちの心は感応し、感動するのか。これに答えるのは、おそらく永遠の課題ではあろうが、一つだけはっきりといえることがある。画家がキャンパスと絵具を手にしないかぎり、何も起こらないということだ。そこにはカトリックでいう聖変化にもひとしい、肉体の物質への、物質の肉体への変容、もしくは両者の合体ないし総合が、密やかな奇跡のように生じているのである。

 

 

 伊藤洋一郎さんの、人間的なものすべてをその奥に封じ込めたであろうにもかかわらず、どこまでも滑らかで静穏な画面に接する私に去来してやまないのは、こうした不思議をめぐる、無数の問いかけである。ひょっとしたら絵画とは、真正な絵画とは、世界の謎を説く場所ではなく、大いなるもの、崇高なるものめがけて、人間的な、いやむしろ実存的な必死の問いを発すべき聖なる装置なのかもしれない。

 

                                                                               (多摩美術大学教授/府中市美術館館長)2004年7月

 

 

Barnett Newman, exh. cat. , Philadelphia Museum of Art. 2002, p.166.

⑵ KITCHEN CHIMERA, vol. 12, 1997, p.8.

 

2004年に書かれた本江邦夫氏によるこの評論は、2006年に『現代 日本 絵画』として発行された書籍に収められている。絵画の批評活動を展開してきた本江さんによって、その志を共有する画家として37名のアーティストととして選ばれた。伊藤洋一郎以外の36名は皆、多くの人が知っている方たちです。

 

『現代 日本 絵画』本江邦夫 みすず書房 2006年12月22日発行→https://www.msz.co.jp/book/detail/07248.html

 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.022


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18]

8/22(木) 

くみ子のコンピューターのおかげで例のD.V.Dで映画をみる機会がガゼンふえた。映画館から遠のいてから随分になる。月に一・二度、モンテ(珈琲店 )のテレビで映画をみるのが数少ない楽しみのひとつだったのだが、ついに吾家でも、台所のテーブルでコーヒーを飲みながら映画を楽しめるわけだ。ボクはまず何よりもボクシング、カクトウ技ならなんでも、あとはアクション映画、彼女はヒューマンであまり暗くないものを好む。今夜は「グリーン・マイル」刑務所モノ。

 

異色で面白かった。いくらかホラーのけはいもある。すこし汚れっぽいファンタジーといったところ。なにしろ巨大な黒人にすっかり魅了されてそれでもう満足。巨大なモノ、強いモノに対するアコガレは、少年時代から変らない唯一無二の憧憬だ。この場合のモノは生モノを指す。