阿波藍のはなし

 

 

藍と人との関わりが始った古い時代から現在までの情報を整理、発信します。

HANADA倶楽部は徳島市内の東西に細長く山裾を広げた「眉山」の麓にあります。

私が調べています、阿波藍のはなしをお読みくだされば幸いです。

 

吉野川の河口に位置するこの辺りは古代では海の中です。

小島であった「眉山」は聖なる山とされ、一切の民を住まわすことが禁じられていました。

標高290mの山頂に続く登り口には必ず神社寺院があり、その境内から登るように登山道がつくられていました。

名前の由来は、天平6年(734)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕したときの歌として、「眉(まゆ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも」船王:ふねのおおきみ 万葉集に詠まれています。

何時のころから「眉山」と呼ばれるようになったのか分りませんが、古くは風光明媚な吉野川の三角洲が、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭津、渭山(いのやま)と呼ばれていました。室町時代に室町幕府の管領、細川頼之が渭津城(徳島城)を築きました。

 

眉山山頂からは徳島平野を一望でき、天気のよい日には淡路島や対岸の紀伊半島まで見ることができます。

 

 

 

世界各地にさまざまな青色を染める植物があって、遥か遠い昔から人類に利用されてきました。

地球上のそれぞれの地域で、青の歴史は創られてきました。

染料の化学、染織技術、交易活動、イデオロギーの表現、美学的追求など2000年以上にも渡って多くの民族が独自の文化を創り出しました。

15世紀後期インド洋航路が発見されてから、ヨーロッパの列強国によってそれまでの多文化が大きく壊滅されていきます。

 

 ヨーロッパにおける藍をめぐる各国の係争を知ったとき、日本ではなぜ阿波(徳島県)だけが長い間独占し続けられたのか、とても疑問に思いました。「青い金」といわれた藍の産出国ドイツ、フランスはインド藍が大量に輸入されるまで莫大な富を築いています。文献資料「兵庫北関入舩納帳」によって、文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、阿波から最大消費地京都へ藍を輸出していた記載が残されています。多くの人は阿波一国が、藍栽培と青色染料貿易を明治時代までおよそ500年独占してきたことを知りません。

 

 

 

 

 

鎖国によって他国との商品の競合も少なかった日本に、イギリスから紡績糸と綿織物が輸入されました。慶応元年(1865)の輸入品の79.6%が毛・綿織物と綿糸であり、輸出品の84.3%が生糸、蚕卵紙であるように国産より安価な大量の綿が全国に広まります。

 

明治になると棉栽培地では輸入綿を染めるために藍栽培への転換が始ります。明治31年農商務省吉川祐輝技官によって『阿波国藍作法』の報告が出ることで、藍の栽培法や肥料などの技術面,江戸時代から秘伝とされていた染料(蒅)の加工技術が科学的な成分変化の精細な数字とグラフとで、醗酵に要する日数と発色の変化が明らかにされました。維新になって大分、愛知、福井、山梨、北海道などの要請により個別には藍の技術指導は行われていましたが、これを機に多くの書物で藍作りの技術が紹介されることになります。

 

明治10年代の出版物は西洋の染色技術と従来の染色技術がごちゃごちゃに紹介されています。驚くほど危険な物質も急速に使われ始め、その中にインド藍=靛藍(てんらん)としての染色法は、従来の醗酵による還元法とは違い硫酸で溶かす方法が紹介されています。新しい化学染料、紺粉(ソルブルブルー)や大量の布の染色に多くの紺屋が技術の転換を余儀無くされ、驚くほどの早さで適応していきます。文明開化といわれる状況下での藍の価格の比較です。

 

 

(注)他国藍=地藍=徳島県以外の県で作られた藍

 

 

明治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。

 

絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。

 

昭和3年、工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)

この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。

 

 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家

 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者

 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者

 「本染」    上村六郎 上代染織史学者

 「古代植物染」 後藤博山 染織家

 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者

 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

 

 

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。

 

 

 

 

 

徳島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。

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