伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-023
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
(つづき)
事務室には年輩の事務長と、男性職員と女性職員が各数人いた。みんな基地の近在に住む通勤の人たちだと知ってビックリした。この基地では、軍隊の厳しい秘密主義は存在するわけもない。事務手続きや毎日の給与も、女性職員が窓口で応対する。基地で唯ひとつの食堂は士官専用で、将校と搭乗員たちが使用する。やがて遊びにゆくようになった搭乗員宿舎は四人部屋で、二十才を超えたばかりの士官候補生たちが、飾り気のない簡素な部屋に住んでいた。書物の多かったのが印象的で、掃除の小母さんがいていつも清潔だった。吾々の宿舎は広い部屋に寝台を並べ、藁マットは変らず寝具その他の支給品も変わりはなかったが、衣類などの支給が不定期で、吾々の受入れと扱いに、基地の全員が戸惑っているといった印象を受けた。たぶんはじめての経験なのだろう。
食事は当番が炊事場で受取ることに変りはないが、食事の内容は家庭料理に近いといえばいいのか、もちろん悪くはなかった。士官食堂の献立には毎朝牛乳とチーズがついていると、これは候補生のひとりが仕入れてきた情報だが、誰も動揺しなかった。食に関してすっかり行儀よくなったのが吾ながら可笑しかった。
ある日、煙草の配給があるので希望者は申し出ろと事務所から知らせがあった。すぐ駆けつけると、すでにほぼ全員が詰めかけていて、廊下に長い列ができていた。事務室には職員の他に班長たちの顔もみえる。順番がきて名簿を覗いた班長は「十五才じゃ、煙草に用はなかろうが」と気乗りしない顔付だ。慌てて、「いえ、中学二年のときから喫ってました」班長は渋い顔で迷っていたが、あきらめた様子で名簿に印をつけてくれた。翌月から銘柄の入っていない両切の煙草が、二百本入りの大箱で支給されることになった。他に数人いた同じ年令の仲間は、遠慮したのを口惜しがったが、結局は全員に配給されることになったようだ。煙草が貴重品扱いされる時代だったから、外出の度に随分役に立った。
「お前たちはな、並の軍隊に較べりゃ天国みたいな処にいるんだぞ」松山教育隊で何度かきかされた教育兵の言葉を思い出して、みんなの話題になったことがある。あの教育隊が天国なら、いまの分校の暮しは何とよべばいいのだろう。解放されたよろこびを抑え切れず、やっと笑い話として口に出せるようになったのだ。いまも軍隊に居ることに違いはないし、兵士であることに変わりはない。ときに殴られることもあるが、理由のある罰は心まで傷つくことはない。恐怖感は次第に薄れていった。
基地の管理責任者は飛行隊長S少佐だ。少佐に会う機会はめったにない。日常の指揮・管理は、一班の班長E軍曹、に班の班長M曹長だが、補佐する下士官が他に二人いた。軍事訓練はまったく行われず、銃の支給もなく、背のうもガスマスクも姿を消した。拘束感のない毎日だったが、その一方で気掛かりと不安の深まるのを無視することができなかった。希望は飛行兵なのだ。戦闘機に乗りたいのだ。戦闘機乗りになるための適性についての、いくらかの予備知識はあった。要求される適性の厳しさについても知っていた。適性検査に合格できなければ道が閉ざされることも覚悟の上だった。ただ、機会も与えられないまま希望が遠のいてゆくのは、我慢できなかった。或いは自分が見落としている何かの原因があるのだろうかと、悩みは深まるばかりだった。奇妙なことに、仲間内でもその話題に触れることはなかった。一体誰に訊けばよかったのだろう。部屋に提示される日程表には、機体構造、発動機といった講義内容と、実習の時間表が書きこまれるようになった。
(つづく)
