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少年兵の手記 no-022 鈴鹿分校

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-022

少年兵の手記    無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 

 すぐ近くの隼の翼下に三人がかりで重そうな荷を運んできたグループが、そのまま車庫になって作業をはじめた。つなぎの作業衣に飛行靴姿の、すこし年上の連中だった。好奇心に負けて近づき、離れたところから遠慮勝ちに覗きこむぼくに気付いて「何処から?」とひとりが気軽に声をかけてくれた。「ハイ、松山航空隊から来ました」「松山?」と怪訝そうだ。「明日から鈴鹿分校に配属されます」すこし間があって別のひとりが「ああ特幹か、明野じゃ始めてだな」と微笑った。少年飛行兵出身だという彼らは、たしか吾々より一年先輩にあたる胸に付けた階級章は兵長だった。年下の後輩に気を許したのか、三人はいろんな体験をきかせてくれた。明野に来てもう一年近くなるという。米軍の偵察機が飛来したときの様子や、戦闘機の事故の痛ましさなど話題は尽きなかったが、明野基地にいる新型戦闘機の機種と名称も教わった。新型機は、隼の一式戦に続いて二式戦、三式戦がすでに戦力に加わり、二式戦は通称「鍾馗」三式戦は「飛燕」とよばれていることなど、耳新らしい知識ばかりだった。手を振って彼らが立ち去ったあと、隼に乗れるのだろうかと、そっと尾翼に手を触れてみた。

 簡単な点呼をすませた消灯のあとも、まだ興奮を押さえかねた話し声がきこえていた。ここには消灯ラッパはない。別の世界にやってきたのだというおもいが胸にあふれてきた。翌朝はやく、明野を発って鈴鹿に向った。

 

    鈴鹿分校   昭和十九年7月

 分校は、鈴鹿峠に近い峰の山頂を占めていた。飛行場の周囲を道路がとりまき道路に沿って排水溝がある。道路は基地の境界線を兼ね、道路の向うはゆるやかな斜面になっていて、大根畑や藷ばたけだった。その先の斜面には雑木林や畑地が拡がり、点在する農家のみえる山裾に続いている。明野の本校に較べて基地の規模はずっと小さい。飛行場も随分せまい感じで、本校のあの活気はない。基地の門を入った広場の正面に木造の事務所がある。その裏手に宿舎が数棟並んでいる。士官候補生たちの搭乗員宿舎だ。広場から左の方向道路の左側に士官食堂、炊事場、浴場と続いている。広場を右に行くと間もなく道は左に折れて、その先に格納庫と飛行場の広がりが目に入る。左に折れる手前に吾々の宿舎があった。兵舎と呼ぶには似つかわしくない。大きな窓のある平家の建物で、前庭は手入れのよくない芝生になっている。一棟を仕切って班別に使い、裏のもう一棟は食事と集会などに使っていた。宿舎を出てすぐ左に曲ると仮設の建物が三棟並び、講義室と実習に使う作業室になっている。その向こうに格納庫の裏の扉がある。格納庫には隼が六・七機入ってまだゆとりのある広さで、大きな扉を開け放した前面から飛行場の拡がりがみえる。舗装した滑走路の長い線が格納庫の前を斜めに伸び、その延長線上に四日市、その先は駿河湾を挟んで名古屋方面になる。

 基地内の人員は多くない。学徒兵出身の士官候補が三十名余り、吾々候補生が六十余名、基地の警備についている地上勤務の兵が推定で十名。教官数人と班長、補佐の下士官を加えても、軍関係の総数は百十名前後の小規模な基地だ。通常の軍隊組織と違って、事務職員をはじめ食堂や炊事場で働く人たち、掃除その他の雑用もすべて民間人に委託されていた。格納庫での戦闘機の整備と管理も、民間の技術陣と整備工に任されている様子に驚いた。軍隊では考えられない変則な組織だが、伝統のある飛行学校という特殊な環境から生れた、独得の組織なのだろう。はじめ随分戸惑ったが、その万事に解放的な雰囲気はうれしくて、すぐ溶けこんでいった。指揮系統についてもまごつかされたが、日常の勤務に支障があるわけでもない。間違っても殴られる心配はないと判ったので、気にしないことにした。

                      (つづく)