徳 島県東部の紀伊水道に面した小松島は、平安時代には中の湊として陸海交通の要衝となった港町です。小松島の地名は鎌倉時代から文献に見られ、小松島津からの船が瀬戸内海で活動し、材木が積み出されたことが記されています。藩政時代は徳島藩の直轄地として小松島湾岸にある小松島浦に集落が形成され、港町として漁業や商業が急速に発展しました。大坂、江戸へと藍を販売する藍商が活躍し、商業や金融の成長を背景に豪農や豪商を生み出しました。
吉野川流域の藍生産と販売権を掌握する問屋的藍商とは異なり、小松島の藍商は仲買人的な方法で販路を全国各地に拡大していきました。流通量が拡大する寛文3年(1663)に森安兵衛(島屋・森六)が小松島で事業をはじめたとき、すでに松浦・井上・西野・寺沢家が新興藍商人として自前の廻船を使って「直売」「振売」商法を展開していたと云われます。播磨屋・松浦九兵衛が江戸に進出したのは元禄期ですが、早くから本業の海運業を活かし塩・材木などと併用して、潤沢な資本を新たな商品である藍と肥料の流通に従事した事と思います。
播磨屋の経営は小松島の本家を中心に、徳島城下船場の浜店は藍商の拠点として藍市と藍玉の集荷積出しを行い、佐古店では藍作肥料の干鰯・鯡粕を吉野川流域に広がる藍作地帯の農家に販売していました。江戸・相模・上総・下総・下野・常陸・津久井・安房の売場九ヶ所で阿波藍販売を主に、酒店と綿・太物販売、貸店の経営体系をつくり、江戸店(上柳原町・築地)と結んで活動していました。安政6年(1859)から明治5年(1872)にかけての松浦家の販売状況の記録を見ると、維新期の徳島藩の藍制度変革による経営状態の混乱が分ります。特権的な御用商人として、藩制確立期から藩府と緊密に活動していた松浦家が藩・藩士へ貸付けた滞金も目立ちます。文久元年(1861)の大日本長者番付の上段前頭に掲載せれていた松浦九兵衛が、明治10年(1877)に大規模な経営縮小を断行し、14年には藍業を廃止することになります。
豊臣政権の「海賊禁止」、鎖国政策をとる徳川政権は海の大名を嫌ったことから、来島水軍の来島長親を豊後森藩の藩主とし、九鬼水軍の九鬼氏を摂津三田、丹波綾部へと海の勇者を山の中の盆地へ移します。この時期に蜂須賀氏の配下に安宅水軍の森氏が舟手衆(海上方)となり、海賊(海民)出身の海運業者が存在するようになります。松浦氏も松浦水軍と関係のある一族かも知れません。