伊藤洋一郎の理《RI》絵画⇔写真 vol.009

『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《あなたにとって曖昧なときはどんな時か》 

 私たちはさまざまな情報や現象にとりまかれて暮しているのだが、感受性や想像力がその内容をさらに多彩で複雑なものにする。そのそれぞれに敏感に反応しながら毎日を生きているわけだ。遠い国の戦渦や飢餓に、政治や経済の変動に、街の変化に、友人の死に、街路樹の紅葉に、心をうばわれ、怒り、共感し、失望し、ときに無関心に、そして層々絶望しながら。生活感情を生むこの底知れぬ深いよどみのなかでは、倫理感も宗教心も、また哲学も、日常の些事とまったく同質であり変るところはない。たとえば、月末の支払いの心配や夕食の献立とも雑居しているのだ。論理に裏打ちされた合理性と義理人情のあいだにも、優先権などありはしない。そのどれひとつとして無視することも手離すこともできないまま、迷い、あやふやななかで暮している。自分自身を振りかえってみて、事にあたって曖昧でなかった憶えはない。それでも曖昧の対極にあるのが確信や決意といったものだとすれば、やはり憧れとしてはある。その確信に近づくために、あるいは日常のあいまいさから遠ざかるために、絵を描くという行為を選んだともいえるのだが、そこのところを説明いするのはひどく厄介なことだ。

 複雑に交錯した生活者としてのあいまいさは、絵画的手段によった作業の中で、色彩やフォルム-連想をともなわない-やマチェールに変身して、ある確信を形づくる。もちろん抽象的でもありイリュージョンとしての確信だが、もともと確信なんてイリュージョニックなものだ。絵画的手段というのは、カンディンスキーの言葉を借りるなら-自己を表現しようとして、自己と精神的に同質の形態を選ぶ-ための通路ともいえるものだろう。通路は一方通行で、作品の確信を生活の場に持ち帰ることはない。日常のあいまいさを汚さないために。

 通路にカラクリは必要ないが、清潔でなければいけない、確信を汚さないために。

              1993年1月25日  The Earth ジ・アースVOL.25 ジ・アース/トーク