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木綿ゅぅ Ⅰ 

 の栽培は室町時代から始まったといわれ、文明11年(1479)頃から木綿が織られるようになりました。室町時代以前の文献に「木綿」の語が散見しますが、こちらは「ゆう」と呼ばれる織物です。諸説はありますが楮あるいは穀(かじ)から作られた糸で織られたもので、細く紡いだものは木綿(もめん)のような風合いになります。なぜ「ゆう」と呼ばれるものに「木綿」という文字が使われたかというと、『三国志』東夷伝の書かれた時代(220-280年)の話になります。当時中国では東南アジアで織られた「木綿」の存在を知っていたことから、日本の「ゆう」を「木綿」だと判断して「男子皆露紒 以木緜招頭」「種禾稲紵麻 蚕桑 緝績出細紵縑緜」と記述しました。それを日本では「木緜」の字形の記述を「ゆう」の字形だと解釈し使われたことからです。縑は絹で緜は木綿織物といわれていますが、緜を真綿であると解釈する説もあります。

 

日本列島に遥かむかしから住んでいた人々は生活地域で採取された、麻•苧•楮•穀•藤•葛•桑•科などの植物性の繊維と蚕糸を衣類に利用してきました。江戸時代に木綿が普及するまで、日本人の衣料はほとんど変わることなく、周辺の山野に自生する草や木の皮から糸を紡ぎ、布を織りだしてきました。縄文遺跡でみられる大麻、苧麻、赤麻などの繊維も、その発祥年代は定かではなく、渡来してきた歴史的過程も詳らかではないようです。阿波国には古くから楮•穀(かじ)の樹皮の靭皮を裂いて糸をつくり織られた、「太布」と呼ばれる織物が残っています。本居宣長の随筆『玉勝間』のなかで、「いにしへ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織したりし事、‥‥‥今の世にも、阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にして織れる布有り」と書かれている織物です。

 

平安時代以前の文献に「太布」の語は見当たりません。忌部氏関係文献に「木綿」があり、本居宣長が記している内容もこれらの文献を元に書かれているようです。古代、製織の技術の普及に最もかかわりが深かったとされるのは、忌部と呼ばれる氏族です。阿波の地にはその忌部の伝承が多く、吉野川の支流穴吹川の源、剣山地の北麓木屋平村に今も住む人々が、その末裔といわれています。現在太布織は、木屋平より山並みを越えて南麓の村、木頭村の人々によってわずかに織りつがれています。