少年兵の手記 no-019

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-019

少年兵の手記    無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 

 野外訓練は班別に行われることはない。小隊単位かまたは幾つかの班と合同でやる。当然生まれてくのが対抗意識と競争心だが、付き添う教育兵たちがなお煽り立てる。教育兵同士の対抗心も加わって、熱くなって叱咤する彼らの励ましは、対抗心を煽られるより、訓練のあとの厭な予感に、かえって体が固くなる。競争になると㐧二班はきまってどんじりになる。匍匐、突撃はともかく、問題なのは障害の壁を越えるときだ。壁は板張りで高さ二メートル半の構造物だった。助走の余勢を借りて壁面に足をかけ、反動を利用して上端に手をかけるのだが、銃を片手に握ったままこれに挑戦するのが最大の苦手だった。班で最低というわけではないが、とても威張れたものではない。単独行動でないのが唯一の救いだった。身の軽い先発が上にまたがって後続を手助けする。銃を壁に強く当てるのは許されないので、銃を庇ってなお打身はひどくなるが、痛みを意識するゆとりはない。それにしても何時も吾が班は遅かった。責任の一端を自覚して気が重かった。体力の限界まで使い果し、泥にまみれ膝をついたままかすむ目で空を見上げる。汗を流したあとの爽快感など微塵もない。軍隊にスポーツは存在しないのだ。

 訓練中の懲罰は殴られることの他にもある。いちばん多かったのが銃を使った罰だ。支給されている歩兵銃は銃身が長く重い。銃を担いで走るだけでも楽ではない。肩の上で跳ねる重量だけではない。左手で銃剣の鞘を握り右手は銃床を支えているのだ。体のバランスをとるための両手が使えない不自由さは、想像以上だ。広い演習場を駆ける苦しさは、だが、懲罰の初歩にすぎない。捧げ銃は儀礼、式典に欠かせない動作だが、直立不動の姿勢はもとより銃を捧げ持つ高さ、握る手の位置まで細かく決められている。右手は上に両手で銃を握り、両脇で肘を締めて銃を胸の正面で支える。肘で支えているので短時間なら問題はないのだが、長時間になると大変だ。はじめ腕が痛みついで背が強張ってくる。負担はやがて腰を襲う。全身を硬直させたまま耐えていると、目がかすみ意識が遠くなる。銃を捧げ持ったまま棒を倒すように昏倒した奴がいた。根性があると褒められていた。

 最悪の仕置きは、肩の高さで両腕を前に伸し、銃を支えたまま放置される。腕力の強い物勝ちという単純なものだが、時間の経過と共に、体のあらゆる部分がきしみ、震えがきて全身が悲鳴を上げる。歯を喰いしばって頑張ったあと、唇は切れ歯ぐきに血がにじんでいた。後に重い疲労感だけが残る。懲罰なのだ、体を鍛えるためにやるわけではない。

 演習場の往復は行軍の訓練になる。銃を肩に隊列を整え、歩調を揃えて軍歌を合唱しながら行進する。

   ここはお国の何百里

   離れて遠き満洲の

   赤い夕陽に照らされて

 

   友は野末の石の下

                            (つづく)