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少年兵の手記 no-013

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-013

少年兵の手   無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 

 懲罰を与えるのは教育兵だけではない。彼らも戸外の訓練に付き添って補助を務めるが、訓練にはそれぞれ専門の教官がいる。教官の中には暴力的な傾向のある下士官もいた。体育を担当した若い見習士官は、表情も変えず、むしろ淡々とした顔で強烈なパンチを顎に見習ってくれた。体が宙に浮いて気がついたら倒れていた。殴り倒すという言葉を味わったはじめての経験だった。百八十センチの長身と。珍らしく眼鏡をかけていた。殴る前にきまって自分の眼鏡を外していた。それでも公平な人で、殴る理由をちゃんと教えてくれた。ある下士官は殴ることより、殴られる恐怖を味わせることを楽しんでいたフシもある。訓練は厳しいが決して懲罰を与えない教官もいた。だがそんな訓練のあとでは、教育兵がきちんと埋め合せをしてくれたものだ。

 いちばん辛かったのはやはり内務班での制裁だった。回数もいちばん多かったが、閉じこめられた空間に漂う恐怖の匂いは、苦痛に対する恐れだけではない、なぜか悪意も感じられた。それにしても、よく殴られた。殴るための口実には事欠かない。殴る手段も数限りなくあった。A一等兵は口の悪さのわりに控え目だった。もちろん他の二人に比べてのことだが、候補生たちと同じ階級なのをいくらか気にしたのかもしれない。二人の上等兵は手を痛めるのも厭わず、よく殴った。一ヶ月を過ぎてからはさすがに手をかばって、いろいろ工夫していた。いくら公認されているとはいえ体に目立つ傷を残すのは、やはり問題になるのだろう。使う道具によって殴る箇所を選び、力を加減していた。木刀、木銃、皮のベルト、小型の黒板、ゴムのスリッパなど、身近にあるものは何でも役に立つ。黒板は平らに持ってそのまま頭の頂点に叩きつける。骨に当たってキーンと金属的な音がする。一瞬目の前が暗くなる。木刀と木銃は腰と尻専用だが、たまに膝の裏を打つ。この痛さは独特のもので、思わずペタンと座り込んでしまう。皮のベルトは首筋に近いところを慎重に狙う。手元が狂うと首に当たって鼓膜を破る。表の傷は浅いが口の中が切れる。いちど鋲を打った靴底で殴られたが、さすがに手加減していた。素手で殴られるのがいちばん厭だった。痛みの強さはともかくとして、肉が肉を打つあの鈍い音は、痛み以上の、何か暗いものが伝わってくるようで、心にこたえた。

 訓練期間も終り近くなって、些細なことで隣りの班に迷惑をかけた。隣の班長に呼び付けられて全員が殴られた。革を何枚も重ねた分厚いスリッパを逆手に握って、底の踵の部分で殴るのだが、余程期限が悪かったのか随分気合いが入っていた。脳天を突き抜けるような痛みは強烈で、思わず涙が出た。口に中はズタズタに切れ歯ぐきも傷ついて、一週間ほどは水が沁みたし、食事は噛めないので丸飲みしていた。三十人全員を一時間ほどもかけて、ゆっくり慎重に殴り続けた。革が肉に喰いこむ鈍く重い音の記憶は、しばらく頭から離れなかった。同じ班長室にいた吾々の班長は自分の席を離れず、終りまで黙って見守っていた。

 

 往復ビンタは、軍隊特有の連帯責任という用語の実践版だ。向き合って仲間と殴り合うただそれだけのことだが、気が重くてつい手加減したくなるが、手抜きは決して見逃してくれないから、結局、ふたりとも痛いおもいを長びかせることになる。鼻血を流して睨みつけている相手をまた殴りながら、一体これは何のためだと泣けそうになる。悲しいことに、手ひどく殴られるとやはり腹が立ってくる。吾々が殴る側になるのはこの時だけしかない。どれだけ殴られても、殴られるのに馴れることはなかった。目を閉じ両足を踏ん張って、うしろに回した手を強く握り合わせる。目を閉じさせるのは恐怖心を増すためだ。殴打の鈍い音と押し殺したあえぎ声が、段々近づいて来る。もう目の前に立つ相手の息づかいまで感じて、次はオレだと息を詰めて待つ。だがいつも勘が悪いのか当たったことはない。衝激はいつも唐突にやってきた。焼けつくような痛みと脱力感のあと不思議な安堵感に満される。これで今日はもう殴られることはないのだと。教育兵に何度かきかされたセリフを忘れない。「貴様たちはな、並の

軍隊に比べりゃ、まるで天国みたいなとこにいるんだ」

                    (つづく)