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少年兵の手記 no-007

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-007

少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 整頓の㐧一歩は寝床の支度からはじまる。これは簡単で、藁マットに毛布を重ね、毛布の端をマットに敷きこんで形を整えるだけだが、もちろん仕上がった形には一定の基準がある。固く小さな枕、式毛布一枚、上掛けの毛布二枚が決まりで、シーツは使わない。厄介なのは棚に重ねる衣類の整理で、折り畳んで棚に積み上げるのだが条件は厳しい。まず重ねた衣類の幅がピッタリ揃って、同じ幅だが厚みの違う箱を積み上げたのと同様の効果を要求される。厚手の軍服、作業衣、シャツや下着類と、厚さも生地も違ったものを同じ幅に折りたたむのは根気のいる仕事だし、手早くやれと言われるのだから容易なことでない。正面からみて折りまげた四隅がピンと角ばっているのも欠かせない条件なのだ。手順はいちどだけ教えられたが言葉で説明されなかった。教育兵の手元をみつめて真似るしかない。整然と積み上げられた衣類の重なりが、何の飾りもなく殺風景な内務班の棚に並ぶ光景は、思いがけず簡素な美しさを与えていた。だがこんな感想を仲間にも一言も洩らしたことはない。変な奴だと思われるのに決まっている。

 衣類の補修、交換については説明されない。たぶん補修もしてもらえないのだ。私物箱には針と糸、はさみなど裁縫用具は欠かせなかった。訓練で着ている普段着は痛みが激しい。カギ裂きの補修やボタン付けは当然自分でやる。軍靴と上履きは床下の置場に通路のさまたげにならないように浅く入れておく。決して奥まで押し込まない。たとえ暗闇の中でも素早く手に取る必要があるからだ。置場所に仕切りはないので、自分の靴の位置は一センチと違わず決めておく。問題なのは全員がルールを守らないと、まったく意味のない結果になる。ひとりドジがいると混乱のもとで、結局は全員が殴られることになるが、つまりこれが軍隊というものだ。一週間も過ぎると大体の様子がわかってきた。兵舎内では軍靴と上履きを併用する。兵舎外に出る時は部屋から軍靴のまま出る。外に出る必要のないときは上履きですませる。夜の服装検査で靴底の汚れが見付かると重い罰を受けるのは、この併用が原因だが、たぶん明治以来続いている伝統なのかもしれない。教育兵の虫の居所が悪くて、汚れた靴底で頭をゴツゴツやられたことがある。

 

 軍靴は編上靴(ヘンジョウカと呼ぶ)で色は茶と決まっているが、表皮のと裏皮の二種あって、普段履きと、外出や式典に履き替える正装用の二足が支給されていた。受取るときもちろんサイズは確かめるのだが、生憎試着などというゼイタクは許さない。戻って内政班で履いてみてはじめて確かめられる。大き過ぎるとか、窮屈だとか、あちこちで悲鳴とぼやき声が上った。すかさず上段からA教育兵の尖った声が飛んできた。「文句云うんじゃない、軍隊ぢゃなァ、靴に足を合わせるんだ」普段履きは大き過ぎる靴を我慢する羽目になって、足にマメの絶えることがなかった。小さい靴を無理して使っていたある候補生は目立って動作が鈍くなり、人の倍も殴られていた。いつか人気のない内務班の片隅で泣いているのをみた。                              (つづく)