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浮世絵の中の藍染-絞り

上がりにくつろぐひととき、浴衣の胸元をゆるやかにはたけた姿は、浮世絵師にとって最高のモチーフであったようです。多くの絵師によって描かれていることから、版元にとっても魅力のある美人画になりました。浮世絵は当時のプロマイドやポスターの役割もあり、ファッションリーダーの着ているものは憧れの商品だったと思います。初期の浮世絵は木版の単色刷りが多く、その後墨摺絵に赤い顔料で彩色した紅絵、さらに緑色など2、3色を版刷りによって加えた紅摺絵が登場します。露草や襤褸藍の青も用いられ、彩度の低い多色刷りになっていきました。その所為なのでしょうか青い衣装は少なくて、南蛮貿易で輸入された唐桟木綿や更紗など小袖のような模様が見られます。辻が花•絞り•小紋•縫箔など、異国の技術に刺激され桃山期から江戸期は染織技術が華やかに発展しました。

 

浴衣の柄や色の変化を見ていると、初期の浮世絵には絞り染めの浴衣が多く見られます。絵になり易いということもあったといわれますが、柳絞•蛸絞•蜘蛛絞•むきみ絞(三浦絞)などで大胆な絵羽模様や散らし模様を生み出していました。慶長年間(1596–1615)になって尾張で有松絞•鳴海絞の手拭が名産になったことで、東海道を往来する人々から次第に知られ、万治年間(1658–1660)には様々な絞り染めが行われました。晒木綿を絞って浴衣が作られるようになるのは元禄年間(1688–1704)だといわれていますので、浮世絵に描かれたときは最新のモードだったのかも知れません。

 

 

宝暦13年(1763)に平賀源内がベロ藍(ベルリン藍)を初めて伝え、伊藤若冲が「群漁図(鯛)」(1765–66)で用いられたことが確認されます。青い衣装が多く描かれるようなったのは、文政9年(1826)に清国から大量に輸入されたベロ藍が安価になり、浮世絵にも多く使われるようになったことからかも知れません。何れにせよ顔料の事情だけではなく、藍の栽培が盛んになるにつれ青い浴衣は増えたように思います。喜多川歌麿(1754–1806)の「高名美人六家撰」「煙管持てる女」などでは蜘蛛絞の藍染浴衣を、歌川豊春(1735–1814)の「今川三十二相」歌川国貞(三代豊国)(1786–1865)の「月の陰忍逢ふ夜」「江戸名所百人美女•薬研堀」では意匠を凝らした鳴海絞の濃い藍染浴衣姿が描かれています。実際江戸後期になると中形や追掛、細川染、高砂染など高度な染色技法を駆使して染め上げた濃い藍色が大流行しました。