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青石/緑泥石片岩

HANADA倶楽部の南前方には東西に細長く山裾を広げた「眉山」が見えます。眉山は藩政時代には「渭山(いのやま)」そして佐古地区から見える山は「佐古山」と呼ばれていました。阿波踊りのはやし詞に「大谷通れば石ばかり、笹山(佐古山ではないかと云われています)通れば笹ばかり‥‥」と読み込まれたように、佐古山、佐古大谷は隣接し藩政時代から大正時代まで青石を採掘していました。眉山を水源とする佐古川は山裾に沿って流れ、佐古石、大谷石を高瀬舟によって運び出し、徳島城の表御殿•千秋閣庭園や石垣、佐古川の護岸にも使われました。

 

青石とは結晶片岩中の緑泥石を多く含むもので、緑泥片岩または緑色片岩といいます。四国山地、紀伊山地を通る日本最大の活断層「中央構造線」の断層から多く出土し、緑泥石は地中深くで地殻変動により出来ることから、地殻変動の顕著な所に産出します。徳島県は徳島城のある城山、眉山などは全山青石で出来ているともいわれるほど青石は身近な石です。四国山地の剣山山系、山間部では露頭がみられ、吉野川中流域では川底が総て青石の場所もあります。

 

県内に産地は数多くありますが、大谷石•佐古石•森藤石•下浦石•片解石が特に良質でした。百度石、道標石、まいご石、支柱石、板碑、石垣、庭石、石段、敷石、便所•井戸廻り、灯籠などに使われています。吉野川流域の藍作地帯では藍師の屋敷の特徴として、吉野川の氾濫から守るため路面より敷地を高くし、青石で基礎•腰積•石垣を築いているのを多く見ることができます。資力のある藍師たちは腰積を青石積みで高く築造し「城構え」と呼ばれる家を作り上げました。濡れると青味を帯び板状に割れることから、古墳の石室•石棺や中世に流行した板碑にも使われました。佐古の縄文晩期末の「三谷遺跡」からは祭祀用の結晶片岩製石棒が出土しています。

 

日本庭園の石材としても使われ、大徳寺大仙院書院の枯山水庭園や庭園作家•重森三玲の松尾大社庭園などに青石の数々が配置されています。フランス•パリのユネスコ本部に昭和33年(1958)に開園した日本庭園にも、イサム•ノグチによって日本から桜•梅などの樹木とともに神山町産出の青石が用いられました。日本庭園の制作には重森三玲と共に、徳島の造園家鈴江基倫も従事しました。

 

 

吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土は、剣山系の主体地質である結晶片岩で保水力や排水性が良く、葉菜類•根菜類•果菜類•穀物類など多種多様な農作物の生産が可能でした。玄武岩由来の結晶片岩が風化した赤土も、鉄分やミネラル分を多く含み豊かな土壌を作りました。