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木綿織物産地と藍 –小倉織 青梅縞

川家康の遺品の中にも名称が見られる小倉織は、藩政時代の武士や他国に流通する銘柄織物として愛用された豊前小倉を代表する特産品でした。明治になっても全国にその名を馳せ、夏目漱石の『坊ちゃん』や多数の文学作品の中にも小倉織の名を見ることができます。

関東の綿織物は江戸中期に始まり限られた地域の農間企業として展開していましたが、高機の導入により幕末にかけて著しい発展をしていました。真岡木綿、青梅縞、結城縞など銘柄織物も知られるようになります。安政6年(1859)横浜港が開港すると良質で安価な紡績糸やインド藍の輸入が増大し、国内の棉作地は藍作地へと変わり、紡績糸を藍で染め新しい技術を取り入れた織物産地が広まります。

 

安政元年(1854)阿波藍総移出量は236000俵で、この頃の江戸への移入は42011俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10000俵の状況でした。明治初年には武蔵国が阿波に次ぐ有数の産地になっています。埼玉県の明治16年(1883)藍作付面積は1078ha、31年には3120haを最高に衰退期を迎えます。

 

明治42年に編纂された『織物資料』には、埼玉県の主要織物の染色方法と染料供給地の変遷が記載されています。

《青縞》始め染料は地藍のみを使用、製織の発展に伴い不足分を阿波藍、明治20年頃よりインド藍、北海道藍を使用。その後藍の需要は年々減少し合成藍の使用が多くなる。

《武蔵飛白》維新までは地藍、阿波藍を使用し、その後北海道藍を大部分使用。明治2、3年頃紺粉。16、17年頃よりログウッドエキス、ヤシャ、ダークブルー、30年以降インド藍、35年頃より合成藍と正藍を使用。今日は硫化染料を採用。

《双子織》始め正藍を用いていたときは地藍、阿波藍を使用。その後インド藍、ヤシャ、鉄漿、紅柄、明治25年頃より直接染料、塩基性染料、酸性染料を使用。明治37年頃から硫化染料が増加して最も多く使用。

《絹綿交織》明治25年頃までは天然染料のみを使用。その後直接染料、アリザリン属、塩基性染料、明治37年頃より硫化染料の使用が7割になる。

 

 

小倉織は新しい染料を導入しないまま、昭和初期にはその生産が途絶えました。明治42年、田山花袋『田舎教師』に登場の青縞はほとんどが合成藍、硫化染料で染められた綿織物になっていたと思われます。