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日本の藍と明治 −インド藍

国を解いた日本は西洋の技術力に圧倒されます。日本中を掌握していた阿波藍も世界を制覇しているインド藍との競争に危機感はありました。藍寝床で葉藍を醗酵させ蒅に加工する製法ではなく、短縮化された生産工程を持つコストの安いインド精藍法(沈殿法)を精力的に学び取ろうとしました。

 

明治9年五代友厚は国産の藍がインド藍に圧されるのを危惧し、且つ藍を世界の商品作物にするため政府から50万円の借入を受け、大阪北区堂島浜通りに朝陽館を創設します。蒸気機関を動力とする最新設備を導入し従業員300人で創業を始め、徳島に粗製工場を設けるなどして精藍事業を開始しました。渋沢栄一は明治21年に蜂須賀家、関東買阿波藍商達と小笠原製藍会社を設立します。徳島でも明治20年代には藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が始まり、明治33年には徳島県出身の長井長義博士の精藍法を導入し、製藍伝習所が開設されました。しかし近代日本を飛躍させた実業家、五代と渋沢の取組みも実績が上がらず短期間で解散することになります。当時の関係者は蒅の製法とインド藍の製法は根本的に違うこと、その染色技術も全く違うことに対処せず有効な方策が見つけられなかったように思われます。

 

 

国内の紡績業や綿織物の発展により布帛の需要はますます拡大し、染料は足りない状況でしたので阿波藍もインド藍との競合のうちに、明治31年に合成藍が輸入され始めます。その後大きな近代化・工業化の流れのなか、世界のシステムは有機化学工業が主流となり、インド藍とともに日本の藍も消えていきました。