深淵なる蒼い時間


伊藤洋一郎(1929-2004)

徳島県徳島市に生まれる。

旧制中学を中退して陸軍航空隊へ。特攻隊要員として中国大陸で終戦を迎える。

 

以来徒党を組まないことと、定着しないことを心掛けて生きている。エゴイスティックな雑誌「自由工房」の編集長という役柄は、とても気に入っている。

           ―1993.1 執筆時の自己紹介―

 

 

 

 

    

徳島へ移住してから出会った伊藤洋一郎と16年間共に活動して

ました。
写真の撮り方を習い、文書を書いて伝える大切さも自由という

葉の重さも教わりました。
自由に生き方を選べなかった時代を生き、運よく命を繋ぐこと

できた敗戦後でも生きずらい環境に贖い、自由に生き続けよ

うと努力した人です。
私の藍染表現の全てに、伊藤の影響があります。
残りの時間を”伊藤洋一郎生誕100年記念展”の実現を夢に力を

いでいきたいと思います。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.011


『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《最近出会った意外に面白かった本は?》 

 数年前に蔵書を売りはらってから、以来本を買うという習慣もなくしてしまった。安価でかさばらないという理由で、ごくたまに文庫本を探すことはあるが、読書のすべては市立図書館のご厄介になっている。図書館の在庫のなかから選ぶことについて、ときに欲求不満がないでもないが、それでも、偏っている自分の嗜好と違ったところで、意外と面白い本にぶつかることもあって、この味もまた捨て難いものだ。読書の嗜好が身辺の変化に左右されるのは当然のことだろうが、つい先日終った市長選挙に深くかかわっていたこともあって、そうなると現金なもので、ふだんより政治色の濃い本を集中的に読んでいたようだ。一月末から二月にかけて借り出したものをあげてみると、「コモン・センス」トーマス・ペイン(これは友人から借りたもの)。「死の途上にて」ホセ・ルイス・マルティン・ビヒル。「ソルジェニーツィンの眼」木村浩。「タイタニックに何かが」R・J・サーリング。「芸術と政治をめぐる対話」ミヒャエル・エンデ ー ヨーゼフ・ボイス。「雪が燃えるように」レジス・ドブレ。「蘇れ、わがロシアよ」ソルジェニーツィン。他に、カルロス・フェンテス、ファン・ルルフォといったところだが、ラテン・アメリカ系が多いのは単に結果でしかない。

 選ぶ指向がはっきりしていたから、思いがけずといった感じは少ないが、なかで「芸術と政治をめぐる対話」は意表をついた組合せが面白くて、借り出し期間を延長して四週間手元にあった。過激で破天荒な現代芸術の旗手ボイスと、いささか保守的で誠実・慎重な人柄の作家エンデとの対話を記録したものだが、精神の自由について、あるいは、芸術と政治について語り合う二人の、まったくかみ合わない、それでいてあくまでも真摯な発言がスリリングでもあり、見事だった。

 「蘇れ、わがロシアよ」は、現代ロシア文学を代表する作家ソルジェニーツィンが、祖国ロシア復興の熱い想いをこめた論文集だが、文学というものの存在理由と、作家の姿勢について、あらためて考えさせられる一冊でもある。

1993年3月25日  The Earth ジ・アースVOL.26 ジ・アース/トーク 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.012


『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《最近「このまま続けているとヤバイ」と思ったことは?》

 「人間死んだ気になれば何だってやれっるさ」どうにもありふれたフレーズだが、なぜかしぶとく頭の隅にこびりついていて、時々口のなかでつぶやいてみることがあった。死を秤にかけるほどのどれほどの苦境があったのか、過ぎ去った痛みはもう量りようもないのだが、なにしろ、死そのものについての恐怖感が人一倍強かったのだから、これはまったく意味のない言葉で、ほとんど役にはたたなかった。少年期から異常なはど死を意識していた。深夜いわれのない恐怖と虚脱感にのみこまれて、身体を縮め、息をつめて耐えていた記憶を鮮明に残っている。いまもすっかり消え去ったわけではないが、あのどうしようもない、心細いうつろな感触は、次第に間が遠くなり、うすれていった。(きょう、ママンが死んだ-)で始まる、カミュの「異邦人」を初めて読んだのは、戦後しばらくしてのことだから、たぶん二十五、六才の頃だったろう。二十世紀ヨ-ロッパの暗さの反映ともいわれる、人間の不条理を鋭く描いたこの小説との出会いは、まったく衝撃的だった。ママンの死、アラビア人の死、死刑囚ムルソーと続くこの悲劇的な物語は、処刑を待つムルソ-が、はじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいて終るのだが、かつて、そしてその後も、小説の主人公にこれほどの一体感を抱いたことはないし、またこれほど確かな人間の実在を信じさせられたこともない。以来「異邦人」は僕にとって心の指標であり、同時に、仕事の方向を選ぶための大切な基盤だとも考えてきた。それはまた、いやおうなく青年期の死の認識を形づくる力ともなったようだ。

 去年かけがえのない友人を二人も失った。今年になって、五月には母の死を看取り、六月には身近な人の死が相ついだ。しばらく遠ざかっていた死の意識は、こんな風にして、またあらたな表情で現われてきたわけだが、いまそのきびしい相貌を前にして、うろたえている。カミュは「異邦人」の自序のなかで書いている。「生活を混乱させないために、われわれは毎日嘘をつく」と。「嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じる以上のことをいったりすることだ」とも。死の恐怖より、生きることに馴れた怖さがある。このままじゃ、ヤバイ。

1993年7月25日 The Earth ジ・アースVOL.28 ジ・アース/トーク  


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.013


                                     昭和25〜29年(1950-54)ころの絵と伊藤洋一郎。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.014


1985年に創刊した地域雑誌『テラコッタ』の協力を依頼され、写真と編集で参加しました。後年私と『自由工房』を発行するに至ったのは、創刊号で終わってしまったこの時の再挑戦だった。許容範囲が狭く他者にも自分にも厳しい人で、地域雑誌を作ることに不適格な人だったと今は思う。(私も)-1985年9月15日発行 テラコッタ 創刊号-

 

1980年ごろ?伊藤は表題の異端の人=正木茂(1910–80日展会友•東光会会員)の追悼文として徳島新聞社へ掲載依頼をしたそうです。掲載されることが叶わなかった文章を何時か、何処かで発表したかったのでしょうか。1959年生まれの私は正木氏が東京へ上京された頃生まれました。アルバムの表紙に幼少の私の似顔絵を描いてくれたご縁があります。父とも交流があり、家によく来ていたそうです。母がこの文章を読んで正木さんの事というより、伊藤さん自身の思いが強いのでは?と感想を述べていました。

 



       異端の人 

 

 画廊の一隅で正木茂さんの絵に出会ってから一年半が過ぎた。踊り子を描いた八〇号大の油絵で、正木さんの作品を見る初めての機会でもあった。正木さんには東京で二度会っている。同郷の人達の集まりに誘われて銀座裏の小さな店の二階で顔を合わせたことがある。痩躯の目立つ、飾らない笑顔と、ぼくより年配だったというおぼろげな感触の他には確かな記憶もない。もう一度あっているはずなのだが、いつ何処でのことだったか思い出せないでいる。それでも折々の消息をわずかに知ることが会ったのは、正木さんと仲の良かった漫画家のコン・ヒロシをとおしてのことで、そのコンさんと会うのもせいぜい年に一度くらい、時として二・三年の空白もあったから、およそ消息といえるほどのものではない。だから上京以前はもちろん、東京での暮らしぶりについて語る自信もない。

 正木さんが終生描き続けたのは、阿波踊りという、いささか風変わりなモチーフだった。かって日本画家だったことがこの選択に影響を与えているのかもしれない。これまで興味のもてなかったのは、そのモチーフのせいだったと、正直にいっておくしかない。しかし現代の絵画にとって、モチーフはすでに制作上の出発点に過ぎないという考え方もある。絵を前にしてほとんど違和感はうけなかった。暗い画面のなかに、具象的な形態を残したまま踊り子はなかば背景のなかに溶け込んでいる。

 

 マチェールに惹かれて

 

 昭和三十四年、上京当時五十歳に近かった正木さんにとって、その時代のすでに定着されていた様式の他に頼るものはなかったろうと思われる。そのアカデミックな様式と、極めて日常的な嗜好との結びつきの上に、正木さんの絵のスタイルが決められたようだ。重ねていうが、絵画にとって出発点が問題なのではない。いつもその変貌の過程で成熟してくるものがある。踊り子のフォルムは、おだやかで筆づかいにも気負いは感じられない。黄土色とよぶのがふさわしい、いくらか重苦しい性格をもつ色彩を多く使いながら、絵具の層の重なりが地味な艶のないマチェールとなって、ふしぎな透明感をみせている。口当たりの良い装飾的な絵に食傷気味の眼に思いがけず新鮮だった。

 マチェール ––材料・材質から転じて美術用語としては、技法的に画面の審美性ともかかわる意味合いをもって使用され、材質から、絵具層の厚み、タッチを生かすことができるし、塗り方で多様に変化のある効果をあげることができる。––– 以上は辞典からの抜粋だが、つまり材料としての絵具の役割は広く、さらに深いところで画家と絵具との間にきわめて個性的な交流が生まれる。その意味でマチェールとは、化粧された肌というより、むしろ画家の生理そのものに近いといえるだろう。体質的に吾々になじみにくいといわれる油絵具を素材とするうえで、このマチェールの獲得は決して小さいものではない。

 正木さんの絵のマチェールからは感覚的なひらめきとか計算された効果といった感じはうけない。ひたすら一途な絵具の重なりの跡が見えるだけである。それだけに一層強靱でもある。趣味的な偏りをみせる自分の絵に強い不満を抱いていた時期でもあって、この絵からうけた複雑な動機は一年半を過ぎたいまも消えることがない。これまで未知の人に等しかった正木さんに、あらためて関心を寄せるようになった発端でもある。一枚の絵のなかにみたマチェールに魅かれ、それを一人の画家の生存の軌跡に結びつけようとするのは、すくなからぬ過ちを犯すことになるのかもしれないが。

 

 画家として生きることの哀歌

 

   絵の「詩的な観念」と、文学的な内容を混同してはならない。––– といったのはたしかベン・ニコルソンだが、例えば、粗野なタッチを作者の情熱の表れとよぶような短絡的な過ちを吾々はしばしば犯しやすい。そんな危険を充分承知してはいても、なお、画家と彼の作品との間に横たわる断ち難いある不可知なちからの存在を否定することはない。

 いつの時代にも、画家に対して向けられるある種の不信感や、また逆に、ささやかな信頼感でさえ、いわれのない作り話しにすぎないことが多い。また画家自身が日常生活での順応性や、超俗、清貧といった寓話的なものまで含めて、易々としてその誤解に従い、時として意識的に誇張することのあるのも否定できない。しかし素直な眼をもってみればわかることだ。およそ貧困などというものは誰にとっても悲しいものであることに変わりはない。ただそのにがい悲しみを価値あるものにするためには、人間の悲哀に対する共感として自らのうちに育てるしかない。

 すべての人達と同じように、画家もまた生活を維持するために社会に依存している。

 そして、社会的な地位や経済的な優劣とは無縁であるという約束のうえに、独自な地位を占めてもいる。これは異端としか呼びようのない特異な位置でもある。この環境で生きてゆくためには、いくらかの勇気と平衡感覚を必要とするものだ。戸惑いは不安を生み、時に怒りをぶちまけ、やがて孤独になりがちである。そんな暗い気分に襲われた時には、かってユイスマンの望んだような<銘々に一日の食料があてがわれ、孤独な真の努力によって頭角を現そうとする以外に、ほとんど何の野心もないような生活>を夢見ることもある。それでも、いま生きているこの社会との契約を解除することはできない。正木さんについて考え始めたとき、まず胸に浮かんだのはこんな様々な感慨だった。

 初めに書いたとおり、正木さんについて知ることは少ない。画家としての足跡について知ることは少ない。画家としての足跡についても、東光会の会員だったといった程度の知識しかない。自分の作品が認められ、世に受け入れられることを望まない画家はひとりとしていないだろうし、そのための機会も場所も不可欠なものだ。しかしまた、現在の「画壇」における栄誉なるものは、いつか社会的な地位や経済的な優劣のなかにのみ込まれ、変形されて、無意味な寓話をさらに付け加えるに過ぎないようにも思える。常に、大きな矛盾の流れに巻き込まれることは避けられないとしても、この避けがたい矛盾はまた、ひそかな抵抗の回流となって、彼の作品にあらたな生気をよみがえらせる。そんな経験に勇気づけられて、画家は彼自身の選んだ道を歩み続けることができる。ぼくが魅かれたのは一枚の絵にすぎないが、画家正木茂を知るために、これほど信じられるものは他にない。

 

 限りなき憧憬

 

 正木さんの人柄についても多くは知らないが、酒を愛し、聞く者を思わずニヤリとさせるような逸話の持ち主だときく。そんな断片的なことから、決して柔弱でない、むしろ不遜な心をもつ人を想像してしまうのだが、これとて単なる憶測でしかない。それよりも、東京での二十余年の歳月をひたすら阿波踊りをかくことで生き抜いた、かたくなともみえる姿勢のなかに、画家として生活するために堪えねばならなかったであろう幾多の痛みを思わないではいられない。悦楽と悲しみの、絶望とやすらぎの交錯するなかで彼を支えたのは、もはや栄光ではなく、ただ不安な誠実しかなかったような気がする。

 現代社会のなかで、誠実に絵を描き続けるということは、それほどたやすいことではない。それは、必ずしも社会に誠実に生きることを意味するものでもない。誠実であることが、画家として欠くことの出来ない条件だと信じてはいても、さて一体、何者に対して誠実でなければならないのかと問いかけてみると、意外にはっきりとしないものだ。そんな時の誠実という言葉には異端の響きさえする。そして、異端者にはいつも抵抗の匂いがつきまとっている。

 正木さんの、どこか不器用さを感じさせる生き方や、屈託のない笑顔の奥にある、ある激しさがぼくをひきつける。これは限りない憧憬でもある。あるいは彼の姿のなかにぼく自身の希望と絶望を夢みているに過ぎないとしても、その重なった部分に強く魅かれているとすれば、それもしかたのない事だというしかない。

 正木さんが自ら意識することはなかったとしても、社会における異端者というこの苛酷な道を、恐れず、哀感をこめて歩き続けた人でもあったのだろう。

 <芸術のもっとも本質的な源泉である真の感情は、人類の快楽と、絶望のなかに存在する>といったベン・シャーンの言葉に同意するなら、その道はまた、いつも身近にその存在を予感しながら容易に手にふれることのない、吾々が芸術とよんでいるあの至上の門への道程でもあるはずだ。

 五十五年夏、東京で、正木さんは七十年の生涯を終えた。棺は、暖かい眼差しをもった友人達の肩に運ばれていったという。

 <彼は簡素な暮らしをした。彼は長くて苦しい断末魔をもった。餘苦しい時、彼は「看病してもらえない人だって沢山いるのだ」と言った。>これは、画家ジョルジュ・ルオ-が、敬愛する作家ユイスマンを語った言葉である。

 1985年9月15日発行 テラコッタ 創刊号 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.015


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18] 

8/24(土)  くもり   

スカイドアが出版したインタビュ-集「アート ワーズ」

現代美術の巨匠たち ジーン・シーゲル編

また読みかえしてみる.。アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイス、アムンゼム・キーファー、ジュリアン・シュナーベル、等々。

何度読んでもなかなか刺激的で面白い。今回はことにキーファーのインタビューにひかれるものがあった。インタビュア ドナルド・カスビット

K. 美という考え方をどう理解してらよいかは、ぼくにとってはいつもむつかしいのです。ぼくは一枚の絵を5年かけて描いたことがあります。つまるところ「美しい」ということで終ってしまっては苦労のしがいがありませんね。

D. きみにとってアーティストとは、思想家ということになるのだろうか。

K. アーティストには3つの要素があります。意思と、時間、そして空間です。アメリカではアーティストとはオブジェを作る人だと考えられているようです。アートは決してオブジェではありません。アートとは受取る方法なのです。 

 

とても気に入った言葉  マイク・ビドロのインタビューの中から

ひとりきりでいる時、ぼくには昔ながらの立派な意味で自分をア-ティストと呼ぶ勇気はない。ジオット、ティツィアーノ、レンブラント、それからゴヤは偉大な画家だった。ぼくは単に自分の生きた時代を理解し、同じ時代を生きる人々の愚かさ、自惚れ、貪欲さをできるだけなくそうとした、大衆相手のエンタティナーにすぎない。ぼくの作品はおそらく見かけ以上の痛みをともなった苦しい告白なのだが。それでも誠実というとりえはあるはずだ。––パブロ・ピカソの言葉––  


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.016

1962年ごろ東京へ移住する。はっきりわかるのは東京への憧れや希望ではないということ。勤務先の立木写真館と問題が生じたことがきっかけであったことは、多くを語らない伊藤の話しから理解した。37歳という中途半端な年齢での上京を決心した理由は、写真でなんとか生活できると思ったのだそうだ。伊藤の生き方は、世間一般の常識や現状を何も考えず行動するようだ。東京での新たな出発は思いがけないことの連続だったようだ。

 

その後1983年まで東京で写真技術を糧に生活するのだが、作品として写真を殆ど残していない。2度ほど展覧会をしているにもかかわらず。一緒に自由工房を作ることになったとき、改めて訊ねたら「写真は大好きであるけど、僕は画家だ」と訳のわからないことをいわれた。少ししてから東京で写真を預けていたラボラトリーから、リバーサルフィルムが御用済みで戻ってきた。捨てられないように私が保管していたものが少し残っている。



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1974年開業:新宿住友ビルディング



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