阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。

 


阿波藍の技術移転ー尾張国

保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城•尾張•美濃が記されていることから、尾張•美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡•丹羽郡•海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

 

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村•津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡•海東郡•海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村•愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

 

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

 

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡•海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培•製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡•渥美郡•八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

 

 

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年に351町歩と激減したのは愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人•地主•機屋•染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

 


阿波藍の技術移転ー北海道藍 

波藍の栽培にとって干鰯•鯡粕などの魚肥を移入することが、長い歴史の中で大きな経営戦略の一つでした。江戸時代後期には蝦夷地(北海道)から北前船航路で、大量の鯡粕を交易していました。徳島藩の洲本城代であった稲田家は幕末に起した庚午事変の処分として、明治3年日高国静内郡に強制移動が命じられます。稲田家臣団の開拓事業は、およそ環境の違う土地での開墾に苦戦を重ねましたが、藍作を取り入れたことで大きな成果をあげました。

 

明治25年に徳島県知事が、県民20万人を北海道に移住させる計画案を発表しました。基幹産業だった藍の衰退が始まった頃で、当時の人口約70万人のうち過剰な県民を移住させようと画策したものでした。知事の辞職により実現はしませんでしたが、停滞する経済や産業の打開策として県内の有力者による団体が組織され、多数の農場が道内各地に開設されることになります。

 

明治12年仁木竹吉は麻植•美馬•三好の農民360余人を、後志国余市郡の原野に入植させ藍作を始めます。胆振国有珠郡紋別に移住した鎌田新三郎も藍作と藍の加工を始め、蒅の製造に成功しています。板野郡長江村(鳴門市大津)出身の滝本五郎は大農経営による農場開拓を目指し、安い鯡粕が大量に入手できると移住を決めました。明治14年に実弟阿部興人と徳島興産社を設立し、石狩国札幌郡篠路村で農場と藍栽培を始めます。始めは出来た葉藍を乾燥させ徳島へ送り蒅に加工しました。徳島県の藍取締り規則で他県からの買入を禁止したことより、北海道庁と徳島県の「経済摩擦」にまで発展して、滝本らは地元で葉藍から蒅に加工することになりました。18年に徳島から技術者を雇い入れ、寒い土地での藍の醗酵に不安はあったものの良質な蒅ができました。

 

 

北海道庁の支援も受け製藍事業を進め、製造所2棟を新築し藍の作付面積も増やします。藍は反当たりの収入が多いだけではなく、種子や肥料、機械まで貸付て買入代金で精算することで急速に広まりました。20年頃には阿波藍商を動揺させるほど、北海道藍が関東へも進出していたそうです。29年には道内の藍作面積は1,418町歩(ha)に達しましたが、天然染料から化学染料への転換が始まり、30年には徳島興産社は事業の中止に追い込まれました。37年には化学藍が全国的に大量に使用されはじめ、30年には889町歩、40年には386町歩、大正4年201町歩となります。明治26年に徳島県から移住した篠原家は、現在でも伊達市で藍製造をしています。


藍商人-❿ 川真田市太郎•徳三郎

政時代に盛んに栽培された阿波藍の起源については、未だにはっきりしていません。戦前までの文献はすべてのものが天正13年(1585)に徳島藩祖の蜂須賀家政が、旧領地•播州から藍の栽培技術を導入したことになっていました。近年では板野郡藍住町•勝瑞城址にある見性寺の文書から、鎌倉時代の阿波の守護小笠原長清の一族が治めていた美馬郡岩倉(脇町)で、宝治元年(1247)に宝珠寺を開山した翠桂和尚が「染葉」で染めた僧衣を着用していた、と記されていたことからこの染葉が藍だったのではないかといわれています。

 

また文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』に掲載された記録により阿波から兵庫北関(神戸港)に、大量の藍葉が荷揚げされていたことが確認できます。藍葉を積荷した湊の一つとして記されていた惣持院の被定地は麻植郡(吉野川市)川田、鴨島など諸説ありますが、何れも古代から開かれた吉野川本流とその支流の江川•飯尾川によって形成された肥沃なところです。文献は存在しませんが、麻植郡から上流の美馬郡までのしかるべき場所で藍の栽培が始まったと私は考えています。

 

麻植郡は古くから大麻•苧麻がつくられた染織技術の先進地で、記録に残る藍栽培も早くから始まり藍商も紺屋も多く輩出しました。関東売仲間には阿波屋勘三郎•藍屋五右衛門、石原六郎•須見千次郎など明治の産業転換期に活躍した藍商がいました。明治42年に阿波藍移出の第一位だった本家の川真田市太郎(2,841俵)、分家の徳三郎(6,632俵)の川真田一族は、藍商人としての進出は遅かったようです。川真田徳三郎が徳島城下の船場に進出したのは安政2年(1855)で、魚肥•阿波三盆糖と阿波藍を取扱い幕末の激動期に藍商として活躍します。五代市太郎は藍の品質向上のために製作試験場を自宅に設けたり、明治9年の名藍社設立の中心的な役割も果たしました。阿波国共同汽船、徳島電燈会社、徳島鉄道会社の設立に参加し社長などとなり多方面の実権も握り、二代徳三郎は第一回衆議院議員となりました。明治31年に大阪北堀江に阿波藍株式会社を設立し大阪へ藍を移出する中心とし、その後は藍商から化学薬品商社への転進を図ります。

 

明治末期の麻植郡では没落する藍産業に変わって生糸生産への大転換がなされ、藍商人の蓄積資本の一部が製糸業に投下されたといわれています。

 

 


藍商人-❾ 藍屋嘉蔵

村家が藍屋嘉蔵として藍商活動を始めたのは17世紀中期ごろですが、六代嘉蔵が文化•文政時代(1804–30)に大坂売場株•玉師株を取得して藍商人としての基盤を固めました。急速に発展したのは幕末維新期に特権的藍商が経営を崩壊する動乱の中、九代嘉蔵のとき筑前•肥前売場株を取得し九州に進出をします。明治5年(1872)の玉師株•売場株廃止により藍の製造も販売も自由になったことで、6年には江戸深川町に東京支店を開設し相模•武蔵•甲斐•信濃•駿河も市場とします。

 

筑前•肥前市場には持船の「若宮丸」で阿波藍を移出し、筑前米•麦•菜種油•博多帯•久留米絣など諸産物を移入します。「若宮丸廻船規則」によると堂浦(鳴門市)の米田熊之助が沖船頭を勤め、本家の権限と沖船頭の裁量権を規定していて、廻船経営の内容が示されています。明治10年(1877)の西南戦争以後、14年の松方正義デフレ財政の時期に、所有農地を10町歩ほどから35町歩に急速に増やします。12年には酒造業を始め、20年には肥料店舗を開設して経営の多角化を進めます。東京支店にも肥料部を置き、北海道産の鯡粕•米穀•大豆•満州大豆粕を関東•東北地方に販売を始めます。インド藍、続いて化学染料輸入が主流となり、大量染色の普及が始まる前に肥料商として経営転換することで、近代的な企業経営へ切り替えることができました。時代の変動の中で拡大した奥村家の経営は、豊かな情報収集と情報の活用ですばやく時代に順応する柔軟性が優れていたといわれます。

 

太平洋戦争中の幾多の困難から戦後は奥村商店として営業を再開し、昭和25年に肥料の統制が撤廃されると肥料の取扱いを再開します。営業品目に農薬を加え、三井リッチ配合肥料特約店として関東•東北•山梨•静岡地区への販売を始めます。現在は製造部門を埼玉県岩槻市に持ち有機•無機配合肥料を製造•販売し、販売部門では肥料卸業者として、物資部門では農業用肥料以外の関連商品と健康食品•家庭園芸用品とやまか糸わかめの販売を行っています。

 

 

昭和62年に大藍商の豪壮な屋敷を板野郡藍住町に寄贈し、観光施設「藍の館」として公開しています。十数万点の奥村家文書と文化5年(1808)創建の母屋•土蔵•東門•奉公人部屋•西座敷•寝床(藍製造場)など13棟の建造物があり、奉公人部屋からは当時の労働者の厳しい環境が窺えます。各建造物の創建年代と工事の詳細や建築経費が記録された資料も保存されています。


藍粉成し

「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東•名西•麻植•板野•阿波•美馬•三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。

 

「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板野の村へ 夏の土用に 藍こなし」古くから伝わる民謡からも、夏場の藍作農家は臨時の労働者を雇っていても、大変な忙しさであったことが想像できます。

 

現在でも夏の陽射しのなか一気呵成の一連の作業は、延々と続くかと思うほどの葉藍を刻むことから始まります。朝刈り取った葉を細く刻み、風によって葉と茎とに選別してから、からからに乾燥させます。かつては多くの人々の手で唐棹で縦横に打ち叩いたり、藍摺板という道具で葉を傷つけながら、その間に竹箒で上下に反転させて充分に乾燥させていました。傷つけることで汁が空気にふれ酸化したり、寝せ込みのときに水分が吸いやすい状態となり、藍草の主要な青色色素•青藍(インジゴ)を含んだ上質の藍を得ることができます。

 

 

近年は藍作人の工夫と他業種の道具類を駆使して、人手の少ないなか大量の葉藍の処理作業に最善を尽くしています。大量の葉藍が広い敷地いっぱいに広げられている景色は、藍草が染料になるために必要な時間と自然の循環過程、先人の最善周到な技能を思わずにはいられません。気温が冷える秋の彼岸の頃まで、乾燥した藍はしばらく保管されます。すでにインジゴは存在している乾藍ですが、今度は約100日間という時間のなか、繊維醗酵させることで完全な藍の染料に変化します。藍染の染液を作る方法である醗酵建てをするために必要な、藍還元菌をより多く含まれた状態にするためこの作業が生まれたのだと思います。


手板法

政時代に阿波藍を他国に移出できたことの一番の理由は、品質が優れていたからです。高価格でも染上がりが優れていたため、他藩から「移入制限」「移入禁止」政策が取られてもほぼ反古になり、紺屋から支持され阿波藍を移入することになりました。卓越した品質は藍玉製造者(玉師)の努力と工夫の積み重ねから得られたわけですが、毎年大坂、徳島で開催した「藍市」が玉師の技術向上に大きく寄与しました。いわゆる品評会であり、藍玉の等級を決めるため大坂•京都•江戸の問屋仲間など関係者が、手板法により鑑定し投票が行われました。「天上」「随一」に選ばれた生産者(藍商)には、その年の最高品質の名誉が与えられ藍玉相場の基準となり、御祝儀相場と宣伝と競売会も兼ねていました。

 

藍分などを科学的に測定する技術はまだありませんので、品質の優劣を判別するのに阿波では「手板法」といって長年の経験と勘を頼りに肉眼で鑑定する検査法を用いていました。

まず少量の藍を左の掌上に乗せ水を加え「竹べら」でよく練り合わせ、親指で力をこめて練ります。餅のような練藍になるように繰返し練り、固い餅状となる間の掌上の感触や勘の働きで、藍玉の染力を推測し醗酵のし易さを感知します。練る過程で出る灰汁の多寡で、粘着性や弾力性を判断して大体の「値頃」を踏むのです。

それから練藍を球状に揉み、掌中に水を加え練藍を研くと濃厚な藍液ができます。この液の状態と球状の練藍を紙面に押捺し日光に透かして、藍の色相・濃度などを判断します。この時使用の紙は年数の経った、薄様紙の加賀半紙が手板用紙として決められていました。 

 

 

青味のものは色は綺麗ですが質が劣るといわれ、赤味のものは色は汚いけれども、醗酵が早く、藍建てがし易いので「赤口」とも呼ばれ良質だと紺屋側では喜ばれたといいます。手板法で品質を判断できるようになることは大変重要なことで、一人前になるのに5年はかかると書かれています。この時代の藍取引では手板は製藍(玉師)・取扱(藍商)・消費(紺屋)のいづれもが、必ず身につけていなければならない鑑定法だと伝えられていました。明治になり徳島県庁で手板法と、農商務省の化学定量分析法とを競合させたところ、双方全く一致したことを官報で報じていたそうです。

 


水師学校 犬伏久助

の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。

 

初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年•1758–1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した‥‥と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。

江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培•蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。

 

『阿波藍譜』「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転しその名を不動のものとしました。


藍商人-❽ 鹿島屋甚右衛門

伊国熊野(和歌山県)あるいは播磨国高砂(兵庫県)の出身といわれる寺沢家は、蜂須賀入国以前から小松島で流通を支配する藩政初期からの豪商でした。勝浦川•那賀川下流の番所を任され、魚屋とともに阿波藩札を任されるなど重要な御用達商人でもありました。寺沢六右衛門と井上助左衛門は縁戚となり、井上家は寺沢家の分家になります。鹿島屋初代井上甚右衛門は、寛永年間(1624–44)から自ら船に乗り廻船業を営み、4、5艘の大船を持つ成功を治めたといわれます。寛文年間(1661–73)には駿河国沼津に支店を置き染店を開き、沼津を拠点に駿河•伊豆•相模•甲斐•信濃に商圏を広げ、その後も中国•九州への販路拡大をはかります。

 

鹿島屋の商業関係の資料の多くは安政の地震にともなう火事により殆どが失われ、後の伝聞的な記録によるといわれています。家法には先祖より商業の中心は阿波ではなく沼津(静岡県)など国外で商売をすること、資金は本家に集め親類を含めた合議制で家を運営すること、質素倹約を守り先祖崇拝など細かな決め事が中心で封建的な内容でした。戦前の財閥の先駆的な形といわれるように、分家別家の資金までも勘定に細かく計算され、商業者の理念を独自につくり出すことで合理的な家内の制度や組織をつくりました。鹿島屋の勘定は、本支店間の貸借りにも利息がつくなど徹底していて、為替のやりとりも頻繁におこなわれ現在の商社のような商業組織でありました。

 

阿波で商売をしない鹿島屋は沼津本店を中心に、早い時期から藍玉•塩•米穀などを扱い、味噌•油•染店•質物•貸金などと広範囲の商業活動をしていました。他にも三島店では飛脚問屋を営んでいて、陸上流通にも関わっていたようです。地域の染店経営者に対して株を発行し、藍瓶などの道具類を貸して商売を営ませて原材料である「藍玉」を販売するという、現在のチェーン店方式のような強固な商圏を作り上げていました。鹿島屋は藩による売場株が設定された後も振り売りの自由な販売を行っていましたが、幕末には藩の体制に組み込まれることになります。

 

天保11年頃に五代甚右衛門のとき那賀川河口の三角州である辰巳新田の開発をはじめますが、苦難苦闘の開拓事業でした。すでに駿河や伊豆の出店周辺では質地地主となっていましたが、徳島藩領内でも巨大な金額を投じて123ha余りの新田地主となります。

 

幕末の激動の中で藩に忠誠を尽くした九代甚右衛門は、戦費調達の中心人物として兵糧米を上納し、輸送などにも活躍します。この功績から藩所有「戊辰丸」の徳島–東京間の運航を命じられ、藩内外の諸物産の交易事業を行います。阿波藍商人による「大規模流通組織確立」を独自で構想しましたが、明治新政府による三井組を中心とした東京通商会社によって、全国的な商品流通が組織され明治4年の廃藩置県によって実現されず海運事業は消滅しました。明治5年に蜂須賀家から戊辰丸を3万両で購入し「鵬翔丸」と改名し阿波藍•静岡茶•鯡粕の輸送をはじめますが、明治14年陸奥国三戸で激浪により沈没しました。幕末の全国版•長者番付の前頭にも名を載せた、藍商•鹿島屋甚右衛門はこれが引き金となり没落します。


藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


藍商人-❺ 遠藤宇治右衛門/阿波屋吉右衛門

商人の中には全国の売場へ出かけることも多いことから、遊里での「大尽遊び」で有名になった人たちもいたり、浄瑠璃『伊勢音頭恋寝刃』のモデルにされたこともありました。徳島の芸事好きはこの時代の影響があったかも知れません。天明期(1781–88)ごろ大流行した狂歌の門人として遠藤宇治右衛門が藍商人の経済力を背景に狂言師として活躍しました。

 

遠藤家は阿波藍商としては初期の寛文期(1661–73)ごろから活動をしていました。関東売藍商として阿波屋吉右衛門と名乗り、享保4年(1719)の関東売36人の中にも指定されています。本八丁堀三丁目に出店を持ち江戸•武蔵を売場にしていました。文政7年(1824)刊行の『江戸買物独案内』に藍玉問屋として掲載されていますが、文政12年(1829)江戸の大火で八丁堀の店が類焼したあと、天保15年(1844)の株仲間解放令後の史料の中には阿波屋吉右衛門の名は見られなくなり、関東売廃業以降の藍商としての経歴はほとんど伝わっていません。

 

遠藤宇治右衛門は20歳のころから古典に親しみ和歌を詠むことをはじめ、文化7年(1810)29歳のとき六樹園宿屋飯盛(石川雅望)に入門します。石川雅望の居宅と江戸店が近隣であったともいわれていますが、本格的に文学活動をはじめ、当時一流だった六樹園宿屋飯盛と共に活動ができるほどになりました。六樹園の師でもある四方赤良(太田蜀山人)と面識ができて、平田篤胤•式亭三馬•十返舎一九•滝沢馬琴•菊池五山などとも交流し交遊を広げていきます。

宇治右衛門は六々園春足の名で『白痴物語』という見聞集や全国から募集した狂歌『猿蟹物語』を出版しています。阿波に六樹園を呼び阿波狂歌壇の指導をするなど、阿波の名所を巡歴した記録が軸物として残されています。

 

 

六々園春足の晩年期は阿波国内の豪商農の間で俳諧•狂歌を趣味、道楽とすることが流行しました。藍の生産量も拡大した文政•天保期は狂歌の全盛期で、阿波藍の隆盛は商人たちの諸国への巡回の旅でもあり、他藩の人たちとの交流による文化的現象が盛んに行われていたのでした。


藍商人-❹ 三木与吉郎 

木家の祖は播州三木城の別所長治の叔父の子別所規治で、秀吉軍によって三木城が落城した後、中喜来浦(徳島市松茂町)で帰農し三木与吉郎となったといわれます。蜂須賀家政の阿波入国後、大坂冬の陣に蜂須賀至鎮が出陣した時の阿波水軍として規治らも従軍し、その時の功績で中喜来浦は三木規治一族によって開拓がなされたとの史料が残ります。

 

二代与吉郎が阿波藍の取扱いを始めますが、漁具•米穀などの一部としての販売で、藍専業となるのは七代目になってからです。藍屋与吉郎と名乗り寛政9年(1789)江戸本材木町に支店を置き、次いで淡路洲本•播磨姫路•龍野に支店を開き、享和2年(1802)に関東売場株が設定されたときには株仲間となります。阿波藍商としての基盤ができ、八代目は売場先を武蔵•相模•下総•常陸•下野に拡大し関東売に集中します。嘉永5年(1852)三木家が江戸へ移入した藍玉は5,080俵で江戸積仲間で一番多く、多角的な経営と廻船を保有する大藍商になりました。

 

三木家は維新期になると飛躍的に活躍します。明治3年(1870)に開拓使より北海道産物会所御用達、徳島藩の商法方御用掛•為替方御用掛頭取を命じられ、8年には精藍社を組織し、9年には関東売場出店28店で栄藍社を発足します。十一代与吉郎は明治23年(1890)第一回帝国議会貴族院議員に選出され、久次米銀行が休業した際の整理を西野嘉右衛門と共に行い、関西部を継承して阿波銀行が設立されると頭取に就任します。

 

インド藍が開国後横浜港に輸入され始め、明治27年(1894)ごろから急増します。第一次産業革命の進行による機械染色に対応する条件はインド藍が優れ、関東売藍商の危機意識は高くなります。阿波藍純血主義との対立のなか、時代の流れに即しインド藍の取扱いをはじめ、次第に化学染料=合成藍の輸入販売も開始します。明治43年にはドイツのカレー染料会社の硫化染料の独占販売権も獲得し、新しい技術によって生産される輸入染料の営業活動に進出します。阿波藍の販売から始まり化学染料と工業薬品へ、現在は三木産業株式会社と改名し染料•色化部門•化成品部門•合成樹脂部門•国際事業部門と技術部門を置き、常に時代の流れに対応し変革しています。延宝2年(1674)創業以来「染料」とともに、300年以上に渡っての歴史を築きました。

 

 

十三代与吉郎と後藤捷一両氏の編集により『阿波藍譜•栽培製造篇』『阿波藍譜•精藍事業篇』『阿波藍譜•史話図説篇』『阿波藍譜•史料篇(上中下)』を刊行し、阿波藍に関する諸統計や三木文庫所蔵の史料目録の刊行など、藍の研究に欠かすことができない貴重な史料を残しました。三木家の文化事業は、近代化学技術史を考察するための資料として大きな貢献をしています。

 


藍商人-❸ 志摩利右衛門

摩家の祖は河野氏の一族、越智氏といわれ藩政初期のころ東覚円村(石井町覚円)で藍作をはじめました。三代の間に田畑を大きく増やし、4代目から伊勢と尾張に売場を設け、藍を移出した帰りには他国の商品を仕入れ国内で販売も行いました。

 

六代目の志摩利右衛門は幼少期に父母を失い、15歳になると藍商の家業を継ぎ驚くべき商才を発揮したといわれます。文政7年(1824)に信州松本の城下に支店を置き、9年には出羽米沢にも支店を開設して秋田まで販路を拡大、10年には越後から東北一帯にまで販売網を拡張しています。文政11年、京都三本木町に支店を開き京都の藍市場の足場を固めます。翌年には四条通りの御旅町にも支店を置き阿波名産「煙草」の専門店をはじめます。このとき20歳の志摩利右衛門の積極的な経営戦略は、類稀な情報収集能力であったといわれています。

 

米沢藩では上杉鷹山による藩政改革で、養蚕•製糸•機織りが盛んになり米沢織が軌道にのると、紺屋の技術水準が低いことを聞きつけ城下で藍玉を販売します。さらに紺屋を併設し城下の紺屋にも藍染技術を伝授したそうです。米沢で経営基盤が盤石になると会津若松•仙台•庄内•本庄•山形と売場を拡大したのです。

 

商才だけではなく、天保期の徳島藩の財政改革を成功させ経済官僚としても活躍しています。藩債整理が軌道に乗り始めると次は斎田塩をめぐる制度改革を行い、藩の統制下で専売制を完成させます。塩の次は阿波三盆糖、半田漆器の販路開拓を依頼されたことより地場産業の江戸進出を実現します。

 

 

全国31ケ所の売場を持ち、京都•越後高田•信州松本•会津米沢の支店を経営する、その商業活動は驚異的であり、当時の販売体制の中でも独創的でありました。そして京都での頼山陽や当時の知識人たちとの文化交流によって見識を深め、卓越した経営手腕と自由主義的な経営思想をもった経済人でした。俳諧•書画を好み、尊王攘夷運動、自由民権運動に関わる人々を支援し、明治維新を切り開く若い才能を育てた人でもありました。大政奉還後は藍師株の制度を廃止して自由な営業を勧め、冥加銀も廃止するなど商業活動の近代化を目指し大改革を進めます。廃藩置県後の商法方改革後に職を辞し明治17年76歳の偉大な生涯を終えます。

 


藍商人-❷ 島屋六兵衛

屋六兵衛の祖は慶長年間(1596–1614)に土佐から小松島に移住した森庄左衛門で、その後阿波藩札の座元人で豪商寺沢六右衛門と縁戚となり、藍商の手塚分右衛門とも縁戚をつくり寛文年間(1661–1672)に初代島屋六兵衛となります。

 

元禄期(1688–1704)には城下にも進出して支店を置き、自前の廻船を使い「直売」「振売」商法によって阿波藍と肥料を取扱い活躍します。享保16年(1731)には播磨売場にも藍を移出販売し、寛政11年(1799)には徳島藩より干鰯平問屋に指定されました。

天保2年(1831)には板野郡で藍の製造部門も開設します。そして東播磨•丹波•丹後にも売場を拡張し、嘉永6年(1853)には江戸に出店を持ち関東売場株を6千両で譲り受け江戸•武蔵•上総•相模も売場とします。幕末•維新期の関東売藍商では「野上屋」西野嘉右衛門に次ぐ阿波藍取扱い量となりますが、開国後はインド藍の取扱いもはじめます。阿波では依然「他国藍」「外藍」は取扱わない状態でしたので激しい対立を招くことになります。

 

明治3年(1870)には大量の藍玉を出荷するため、1000石積みの船4艘を買入れ撫養(鳴門)を母港として瀬戸内から下関を経由する北前航路によって、各地との交易を拡大し北海道から鯡粕を大量に輸送することになります。明治20年には肥料売買業を開始し、満州大豆粕•チリ硝石•インド骨粉などを直輸入し、その後は化学肥料の生産も行うなど肥料の変化に積極的に対応します。藍作農民のことを十分知抜いた「島屋=森六」の商法は幾多の困難も乗り切り、明治–大正–昭和と肥料商としても経営を拡大しました。

 

 

森六の事業は藍だけに留まらず、時運と共に多彩で転換も早く、絶えず時代を先取りする精神を持ち発展させてきました。肥料•醤油醸造業•豆粕製造業•木材、日露戦争後には朝鮮農場の経営と朝鮮•満州•天津の事業にまで及びました。昭和20年(1945)の敗戦後、それまでの経営体系は全て崩壊しましたが、22年に徳島機械製作所、23年に森六食品工業株式会社、三井化学工業と塩化ビニール、ポリエチレン•ハイゼックスを製造し本田技研工業へ納入します。61年にはホンダとアメリカ進出も同行し、化学部門•精密化学部門•合成樹脂部門•生産部門と研究開発部門をもつ複合企業となりました。現在は森六株式会社と改名し、寛文3年創業の阿波藍(天然染料)から合成染料へ、石炭化学•石油化学へと日本の化学工業近代史そのものの長い歴史を貫き通しています。


藍商人-❶ 久次米兵次郎 

波藍商の栄枯盛衰を象徴する存在として語られることの多い久次米兵次郎ですが、久次米家の祖は大江広元といわれ、関ヶ原の役で毛利家敗軍によって蜂須賀家政の阿波入国の際、家臣益田氏の下移住したと伝えられています。撫養塩田の開発を勤めた後、海部城へ入りましたが益田氏失脚で帰農しました。

 

名東郡新居村に移住し藍商人として江戸では大坂屋庄三郎、大坂では米津屋庄三郎として活躍します。現在は吉野川の河川敷となっている北新居村(徳島市不動北町)で、約4ヘクタールの敷地に分家九軒と共に豪壮な屋敷群を構え阿波藍商の財力を示す威厳を誇っていたと伝えられます。元禄期(1688–1704)には江戸にも基盤を固め、その後享保4年(1719)には関東売藍商36人の中に指定されます。江戸店(京橋八丁堀)550坪に隣接する紀国屋文左衛門の遺宅を買取り、木材業に進出したとの伝承も残りますが、元文年間(1736–1740)には藍商だけでなく木材商としても大坂屋庄三郎の名が残っています。かつて益田氏失脚の原因にもなった海部郡の木材を江戸に流入したことや、その後の深川木場に大きな勢力を持つ徳島木材業者の先駆となったことからも、林業地帯の情報と技術にも熟知し木材の産業化にも大いに貢献しました。

 

阿波藍商としての久次米家の活躍はめざましく、大坂では河内木綿や和泉木綿などの染料として広範な得意先を持って経営をしていました。米津屋の傘下として藍玉を出荷する藍商と運命共同体を形成し、大坂市場の情報発信基地を兼ねるなど、藍商たちの経営にとっても巨大な存在でした。

 

五代兵次郎が組頭庄屋だった宝暦13年(1763)に、藩の問い合せに返答するための文書で「藍は毎年生産高およそ14、5万俵を諸国に販売し、1俵2両ほどで取引されていて、大坂売は銀3~4貫で売却し総額は金30万両ほどになる」と商況を伝えるなど、藩からも信頼され藍行政の指導的な立場と待遇が与えられていました。

 

 

明治12年には久次米家の経済力と阿波藍商人の蓄積した資本を背景に、阿波藍流通•材木取引などの金融機能の合理化のため久次米銀行が設立されます。隆盛時には東京、大阪、郡山、新宮など広範囲な顧客をもつ、全国で活用される銀行として経営近代化を果たしました。私立銀行としては三井銀行200万円に次いで全国第二位の資本金50万円を有しましたが、明治24年(1891)に前年から始まった日本最初の恐慌とともに休業に追い込まれてしまいました。銀行破綻によって全国組織が分解され地域銀行となり、久次米兵次郎の影響も急速に減退しました。


藍商人-⓿ 阿波商人は藍の生産直売を全国で展開ー商業活動の軌跡ー 

戸時代になると実生活に有用な草や木が広く栽培されるようになり、三草四木とも呼ばれ商品作物として流通します。三草とは木綿•麻•苧麻•藍•紅花など、四木は桑•茶•楮•漆をいいます。元禄10年(1697)『農業全書』宮崎安貞の中にもこれらの栽培の方法が詳細に記述されています。長い間日本の庶民の衣料はほとんど全て麻•苧麻などの靭皮繊維でしたが、この頃から木綿も用いられるようになりました。棉作が全国的に普及され、近畿地方での大量生産システムが整うと、紺屋も全国津々浦々に出現し藍も各地で栽培されるようになります。

 

多くの庶民によって木綿の需要が増えると、阿波藍の生産も多くなり大坂•江戸の市場だけではなく、全国各地に藍商人が活発に商業活動を始めます。近江商人や伊勢商人などと同時代に活躍している阿波商人の存在は、歴史的な研究も少なくあまり知られていません。阿波商人は藍を問屋に委託販売することはせず、各地に自らが設けた出店から紺屋に直売する形態を取っていました。出店が持てない場合は荷受問屋に藍玉を送り、藍商または従業員が問屋へ出向き紺屋へ販売していました。藍の栽培(農家)+藍玉加工(工業)+藍玉販売(商業)を兼ねた生産直売型の藍商人だからできた販売戦略ともいえます。藍商人の活動の軌跡の多くは埋もれたままですが、全国にその存在の跡は残っています。

 

元禄期(1688–1704)以降は商品流通、貨幣経済が急速に発展したことで、商人たちは商業資本の蓄積が進み豪商が生まれます。阿波商人も特権と特異な商業活動で、大藍商と呼ばれる人たちも出現しました。奥州や九州などにも自らの廻船を使い、藍を移出した帰りには米や各地の産物を移入していました。宝暦4年(1754)「玉師株制度」が藩によって施行されたことで、藩の統制によって全国の売場は30以上の売場に区分され株組織が成立します。その後の発展と幕末までの藩と阿波商人の結びつきは、経済学者によって研究がされています。

 

 

藍商人たちの経済動向は研究者には知られていますが、各々の藍商人たちが全国各地で活動した記録や、郷土史家が抜粋した資料から独創的な開拓精神を紹介をしたいと思います。


阿波藍商人見立一覧表から見る明治期の藍の隆盛

両 親、祖父母は徳島の出身ですので、関東で育った私でも少しは徳島のことは知っていました。だけども藍のことなど聞いたこともありませんでした。

父方の祖母はこの眉山の麓で長年暮らし、訊ねますと近くに紺屋があったのは覚えていました。明治31年(1898)に合成藍の輸入が始り、祖母の青春時代には合成藍や硫化染料の全盛期になっていました。(本人は阿波藍だと思っていましたが……)

 

明治憲法下で市制がしかれた頃の徳島は、阿波藍の隆盛がつづき大変活気のある状況だったようです。

 

藍商人の数もおよそ4000人いたと伝えられています。それぞれが格付を競っていた様子を藍商人見立一覧表で見ることができます。 →クリックで大きくなります