阿波藍の技術移転ー佐藤信淵

品作物が盛んになると農業技術を記録•解説した『農業全書』宮崎安貞『綿圃要務』大蔵永常などの農書が成立し、写本や木版印刷によって広く普及しました。全国各地の篤農家を尋ねる農学者や農業記者も現れ、その土地で行われている農業技術が記録されるようになります。佐藤信淵は文政12年(1829)に『草木六部耕種法』の中で有名な藍の産地を紹介し、「藍葉を作るには阿波国の作法学ぶべし」「藍を作るには阿波の国法を第一とし、筑後国久留米を第二とす」として栽培法•藍玉製法について記していますが、他にも藍玉に砂を混ぜる場合の「錆砂」を阿波では選んで使用していることなども記しています。

 

佐藤信淵は明和6年(1769)出羽国雄勝郡(秋田県)に生まれ、江戸に出てから儒学•国学•神道•本草学•蘭学•天文学を学んだそうです。諸国を遍歴し見聞した事も含め著書は極めて多様で、農学から国家経営におよび、極めて実際的なものから農政•物産•海防•兵学•天文•国学など広範に及びます。「佐藤信淵の言説は虚構が多く、著書の刊行も明治になってからで、阿波に移住した事実もなく、蜂須賀家の公文書などあらゆる記録に載っていない」と森銑三は云い、詐欺師扱いをしています。真相はわかりません。江戸中期以降の徳島藩の藍栽培と製法は、他領•他国へ秘密が漏泄したときの規正制裁は厳重でした。当時の厳しい環境の阿波に佐藤信淵が藩家老集堂氏の食客として、文化5年(1808)から阿波に一年近く滞在したと云われ、実際文化6年(1809)2月に名東郡鮎喰川原で大砲の試射をしたことが記録されています。『草木六部耕種法』の著作前に藍の製造法を視察していた、そして記述され紹介されていた、という特別な扱いがあったことに驚くばかりです。

 

著書が膨大で広範囲なこともあって佐藤信淵の評価は未だ定まっていませんが、展開された理論の中に農政経済論があり思想の動機は、国内の農村の貧困にあったことは事実だったと思います。国内を見聞した信淵には徳島藩に於いて農民による藍という商品作物の展開は、商品経済が発展し流通も拡大していく状況下に、諸藩の政策の思索となったのでしょうか。全国的な規模で封建制度を維持し領主経済の改革に、殖産興業政策の成果をあげ、窮乏を救済する手段を主張することが必要でした。

 

 

『草木六部耕種法』著作後の天保3年(1832)には武蔵国足立郡鹿手袋村(さいたま市南区)に住み、農園を持ち藍作を試みていたそうです。同年に『農政本論』を刊行します。


阿波藍の技術移転ー福井•大分•山梨県

島藩の藍製造法を探るため他国からの隠密や、四国八十八箇所の巡礼者を装った間者の話しは数多く残っています。栽培•製造方法の技術漏泄には厳格な規制のありましたが、明治維新になってから他府県の要請によって藍作の指導教師として赴任も可能になり、赴任地に永住した徳島県人も多かったようです。長く守ってきた阿波の技術を、時流の変革の機会に憚ることなく享受することができたのです。

 

豊後国北海部郡下ノ江(大分県臼杵市)の井沢幸兵衛は、幕末の阿波へ藍の製造法を修業しに来ました。文久4年(1864)に幸兵衛は徳島城下の水師を養成する私立の学校で、佐藤松五郎から「藍作り方伝授書」を与えられています。臼杵に伝わる伝承によれば、四国遍路にでかけた幸兵衛がこの地の藍づくりの活気に満ちた様子を見て、わが村でも藍を栽培したいと、仮病まで装おって懇願し修得したことが『臼杵ものがたり』(臼杵市立図書館刊行)に詳しく掲載されています。事実とは少し違いそうですが、幕末の阿波で他藩の人にも藍作を伝授していた興味深い史料です。臼杵に戻った幸兵衛は土質にあった育苗や栽培を工夫し、近隣の人々に教え藍作は下ノ江から下北、江無田地方まで普及し明治から大正まで盛んに行われたようです。明治32年に井沢幸兵衛の業績をたたえ「生藍功績碑」と刻まれた石碑が、農家の人々の手で建てられています。明治30年の大分県の栽培面積は471町歩(ha)です。

 

明治8年(1875)に福井県吉田郡山東村(福井市志比口町)に移住した喜多新助は、吉田郡の人々に藍種を授け藍の栽培と製造を教えました。新助は天保14年(1843)に、麻植郡桑村(川島町)で藍製造を営む家に生まれます。新助が移住した事情はわかりませんが、地味が藍作に適していて藍作は年を追って盛大になって、明治28年の内国勧業博覧会で協賛功労賞を受けるまでになりました。明治30年には県産を興隆した功績により緑綬褒章を下賜され、吉田郡の人々から「藍業紀功碑」が長松寺の境内に建立されました。明治30年の福井県の栽培面積は317町歩(ha)です。

 

 

阿波郡勝命村谷島(阿波町)の藍師吉田屋の二男片山亀二郎は、山梨県の招聘により藍作の指導教師となって赴任しました。天保4年(1833)生まれの亀二郎は若い頃には京に出て、やはり生家が藍商であった後藤田南渓について南画を学び、勝命村の渓流•菊里谷から号を菊渓とし嘉永5、6年には長崎でも学んでいます。明治以降に家業の衰退により山梨へ移住をしますが、明治30年の山梨県の栽培面積は121町歩(ha)で、40年には1町歩と記録されています。技術移転の調査資料などはありませんが、他にも類似の事象はあったと考えられます。


阿波藍の技術移転ー筑後国

後平野を蛇行して流れる筑後川の流域は、古くから文化が発達し3世紀頃には大集落があったといわれています。久留米は筑後川の中流域に位置し、元和6年(1620)に有馬豊氏が丹波福知山より入国し有馬藩の城下町になります。ここにも「藩主が播磨姫路より藍の種をとりよせて藍栽培を始める」という阿波藩と同じような説話が残り、その後の栽培は「領内多く産出し四方に送る」と『筑後志』(1777)に書かれています。『久留米絣』(1969刊行)の中に「はじめは椿葉(丸葉)或いは藍を栽培していましたが、阿波から上香(上粉)の種を取寄せ、次いで少上香(小上粉)を取寄せ栽培地域を拡大した」との記載があります。

 

史料によれば享和3年(1803)に御井郡北野大庄屋•上瀧茂吉が玉藍を製造したといわれ、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、浮羽、竹野、八女、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。久留米絣は久留米近郊で寛政11年(1799)に始まり、絣の生産が増えるとともに藍栽培も盛んになります。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになります。

 

正保2年(1645)に筑後川の川港の瀬ノ下に久留米藩によって御米蔵が設けられ物資の集散地となり、廻船問屋•松屋は大坂をはじめ西日本各地と密接に結びつき、物産を他国に移出していました。松屋の初代三枝善次郎は甲州出身で、有馬豊氏に随従した武士であったそうです。安永2年–嘉永7年(1773–1854)から六代松屋の家業は発展し、文化8年-明治2年(1812–1869)には国産玉藍御用掛に任命され御用商人として活躍します。20ケ所(領内22ケ所)の藍手配所を支配し、文政10年(1827)には長州藩へ筑後藍を統括して移出していました。文化年間中(1804–18)には筑後藍は他国や大坂、江戸へと移出をはじめ、天保10年(1839)には2683俵(1俵50斤)が移出されています。筑後藍を国外に移出するほど藍栽培が盛んに行われてるこの地域に、文久元年(1861)に阿波藍を1795俵移入していることが記録に残っていて、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされていたと考えられています。

 

 

明治になると久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。着実に生産が増大するなか、輸入染料による粗製乱造で信用を失った久留米絣は、組合によって天然藍の保護と堅牢度を守り、品質と信用を取戻します。久留米絣の染色には地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため、徳島県に伝習生を派遣して藍製法を学びます。久留米絣の生産は明治19年46万反、明治28年85万反、大正期になると100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。明治中期以降はインド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透します。福岡県の藍の栽培面積は明治30年2,062町歩(ha)、40年352町歩、大正2年88町歩となります。厳格に管理していた久留米絣も、明治40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入され藍栽培は衰退しました。


阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。


阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。

 


阿波藍の技術移転ー尾張国

保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城•尾張•美濃が記されていることから、尾張•美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡•丹羽郡•海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

 

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村•津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡•海東郡•海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村•愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

 

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

 

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡•海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培•製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡•渥美郡•八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

 

 

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年に351町歩と激減したのは愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人•地主•機屋•染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

 


阿波藍の技術移転ー武蔵国

喜式(927完成)によれば武蔵国や関東の国々でも調として藍•藍布が納められていますので、この頃には荘園•標野などで藍の栽培が行われていたと考えられます。染織技術の高い地域は古代より開けた土地が多く、自然環境に恵まれ古くから豪族や渡来人が住んでいたことが古墳や出土遺品などで窺い知れます。

 

徳川幕府は江戸に開かれましたが当時から畿内が先進地であり、生産拠点も流通も江戸時代後半になるまで近畿地方が主流であり続けました。関東の木綿生産は18世紀後半から19世紀以降の高機の導入により、限られた地域の農閑余業として展開していた綿業が、新たな綿織物の産地として足利•佐野•蕨•川越•所沢などで興こります。こうした綿業の発展にともない、関東でも地藍生産が成長します。藍作地帯は肥沃で物流に優れた荒川流域の川島•吉見•川越•所沢や、利根川流域の本庄•深谷•妻沼にかけて集まっています。利根川中流域の藍商人、葛飾郡西大輪村(埼玉県久喜市)白石家、樺沢郡下手計村(埼玉県深谷市)粟田家の史料により文化期(1804~)以降、天保期から嘉永期にかけて約3倍増となる急成長も確認できます。『江戸時代人づくり風土記•埼玉』(1995発刊)のなかで、樺沢郡中瀬村(深谷市)河田家の史料に栗原村(久喜市)の紺屋•藤右衛門のところに、病気により逗留した阿波の人から藍の葉の「寝かせ方」を習い、その技術を「下り寝せ」と呼んでこの地方で流行したと書かれています。葉藍の寝かせ方というのは、蒅の製造技術のことで時期はおよそ天明•寛政(1781–1801)ごろだと考えられています。

 

安政元年(1854)阿波藍の他国への総移出量は236,000俵で、幕末の阿波藍の江戸への移出の内訳は48,930俵、関東地藍(武蔵•上野•下野•上総•下総•常陸)は10,000俵となっています。明治初年の藍の生産統計では、阿波についで武蔵が有数の産地とされていて、興隆させようと県の農業指導員の指導のもと、明治23年には阿波藍を試植させ適地の研究もしています。葉藍作付面積は明治16年1,078町歩(ha)、20年代になると2,000町歩に、31年には3,120町歩の最高作付面積を記録しますが、40年には410町歩と衰退していきます。明治40年代に編纂された『織物資料』に記された武州織物の染色方法の変遷をみると、当初は天然染料による染色を基調としていましたが、20年前後になると外国染料(化学染料•インド藍)の導入へと変化していきます。

 

 

明治の社会•経済を牽引した渋沢栄一は樺沢郡血洗村(深谷市)の生まれで、家は藍の栽培と農家から藍葉の買付け、藍玉を製造し紺屋に販売をしていました。藍玉は高価ではありましたが、紺屋からの代金回収には長い時間を要し、原料の藍の仕入れには大量の資金が必要でした。良い藍を育てるには肥料として干鰯•〆粕の購入も必要です。質屋•金貸•養蚕•藍商人として品質管理と才覚を学び、渋沢栄一は商業的農業経営者としての合理的精神を家業から受継ぎました。

 


阿波藍の技術移転ー北海道藍 

波藍の栽培にとって干鰯•鯡粕などの魚肥を移入することが、長い歴史の中で大きな経営戦略の一つでした。江戸時代後期には蝦夷地(北海道)から北前船航路で、大量の鯡粕を交易していました。徳島藩の洲本城代であった稲田家は幕末に起した庚午事変の処分として、明治3年日高国静内郡に強制移動が命じられます。稲田家臣団の開拓事業は、およそ環境の違う土地での開墾に苦戦を重ねましたが、藍作を取り入れたことで大きな成果をあげました。

 

明治25年に徳島県知事が、県民20万人を北海道に移住させる計画案を発表しました。基幹産業だった藍の衰退が始まった頃で、当時の人口約70万人のうち過剰な県民を移住させようと画策したものでした。知事の辞職により実現はしませんでしたが、停滞する経済や産業の打開策として県内の有力者による団体が組織され、多数の農場が道内各地に開設されることになります。

 

明治12年仁木竹吉は麻植•美馬•三好の農民360余人を、後志国余市郡の原野に入植させ藍作を始めます。胆振国有珠郡紋別に移住した鎌田新三郎も藍作と藍の加工を始め、蒅の製造に成功しています。板野郡長江村(鳴門市大津)出身の滝本五郎は大農経営による農場開拓を目指し、安い鯡粕が大量に入手できると移住を決めました。明治14年に実弟阿部興人と徳島興産社を設立し、石狩国札幌郡篠路村で農場と藍栽培を始めます。始めは出来た葉藍を乾燥させ徳島へ送り蒅に加工しました。徳島県の藍取締り規則で他県からの買入を禁止したことより、北海道庁と徳島県の「経済摩擦」にまで発展して、滝本らは地元で葉藍から蒅に加工することになりました。18年に徳島から技術者を雇い入れ、寒い土地での藍の醗酵に不安はあったものの良質な蒅ができました。

 

 

北海道庁の支援も受け製藍事業を進め、製造所2棟を新築し藍の作付面積も増やします。藍は反当たりの収入が多いだけではなく、種子や肥料、機械まで貸付て買入代金で精算することで急速に広まりました。20年頃には阿波藍商を動揺させるほど、北海道藍が関東へも進出していたそうです。29年には道内の藍作面積は1,418町歩(ha)に達しましたが、天然染料から化学染料への転換が始まり、30年には徳島興産社は事業の中止に追い込まれました。37年には化学藍が全国的に大量に使用されはじめ、30年には889町歩、40年には386町歩、大正4年201町歩となります。明治26年に徳島県から移住した篠原家は、現在でも伊達市で藍製造をしています。


藍の品種 Ⅲ

治31年に徳島県農事試験場の技師吉川祐輝が調査した藍の品種は、青茎小千本 赤茎小千本 百貫 上粉百貫 上精百貫 両面平張 じゃんぎり(散切) るりこん千本 青小千本播磨青 おりき千本 赤茎大柄 大葉百貫 椿葉 縮緬 縮葉 越後 青茎中千本 赤茎中千本 赤茎大千本 大柄百貫と20種の記載があります。他にも赤茎百貫 青千本 赤千本 紺葉 丸葉藍など明治になってからは栽培種の名称は数多く記載され、これら品種名の中にはほとんど同じものも含まれていて、今日では判別することは不可能です。

 

明治6年(1873)に発行された『あゐ作手引艸』は備後福山の藤井行磨によって藍作から藍粉成しまでの行程が書かれています。藍の品種も獅子葉 知々美葉 丸葉 剣先葉 大葉 木瓜葉 出雲葉 小千本青 小千本赤軸 小千本両面と10種が記載されています。後藤捷一氏によると阿波の手法の紹介と、記載されている品種は全て阿波での栽培種であると云われています。

 

合成藍の輸入によって栽培面積が急速に減った大正9年に、従来から栽培されている品種が雑多であったため、整理して優良な品種を試験場で選出しました。最も収量•価格の良い小上粉は明治初期には栽培されていなかった品種で、京都九条の水田で栽培されていたため水藍とも呼ばれていた一種でした。百貫 両面平張 赤茎小千本 上粉百貫 るりこん千本 じゃんぎり 青茎小千本が上位に選ばれ、指導奨励されたことでその後は栽培される品種が少なくなっていきます。

 

 

現在(2007年)農業試験場で栽培されているのは、小上粉の白花種と赤花種 赤茎小千本 百貫 宮城 松江 広島神辺 大千本 千本 紺葉 那賀椿の11品種です。最近になって藍の研究は急速に進み、青藍(インジゴ)の含有量の測定は乾燥方法によっても違うことが判明したり、これからいろいろと解明されると思われます。品種別の含有量の比較はまだ決定されたわけではありませんが、大千本 紺葉 百貫 那賀椿の順になっていて、現在主力品種とされ栽培している小上粉白花は中間くらいです。


藍の品種 Ⅱ

『会津農書』 貞享元年(1684)は佐瀬与次右衛門によって書かれた独創的な農業書です。稲作•畑作•農業経営を上中下に分け書いた内容を、農民にわかりやすく和歌に託して啓蒙した歌農書も含まれています。この中に「元禄11年(1698)に阿波国名東郡猪津(徳島市)の住人、仁木三右衛門尉政義、宍戸涼太夫正秀が会津幕内村(会津若松市)に来て藍畑手作したので、其業微細に見て一巻の書に綴り、其あらましを歌農書に記した」という内容が含まれています。一巻の書というのがどのようなものか分りまませんが、中巻の畑作のなかに藍作の記載もあり、藍に関する歌は43首残されています。藍の栽培製造の技術が藩外に漏れることは稀で、阿波藩によって御法度になる前のことだったのでしょうか、江戸初期の阿波藍のことがわかる貴重な資料です。

 

この歌の中に藍の品種のことが出てきます。大がらあい•小がらあい•槐藍•大藍•蓼藍•丸葉•長葉藍の品種名が見られ、会津では丸葉、槐藍、長葉藍を蓼藍といい、阿波では大がらあいを丸葉藍、小がらあいを長葉藍と呼んでいると書かれています。藍は生命力のある草ですので、栽培される環境によっても様々な変化を遂げ、文献による品種名だけで個体を特定することは困難な作業です。

 

藩政時代に栽培されていた品種として水藍 陸藍 菘藍 円葉藍 蓼藍 大藍 丸藍 山藍などが様々な文献に記されていますが、水藍 陸藍は栽培地による区別の呼名で、菘藍 蓼藍は科目の種類です。大藍 丸藍 山藍 円葉藍は蓼科であると書かれています。徳島では平地から山分まで栽培されていましたので、地質に合う良い品種を植える事や自然交配によって品種が増えた時は選別して最良の品種を奨励していたと書かれていますが、藍が商品作物として保護されていたため詳細な図も統一された呼称の説明もありません。

 

昭和25年(1950)に重要無形文化財に指定された千葉あやの氏が栽培していた藍の品種は、阿波では明治期に栽培されていた「縮葉」と呼ばれていた品種でした。宮城県栗駒山という自然環境に適応するため、随分と形態が変化したようで一見では分らなかったそうです。

 

 

*年代の記載に正誤があると思われますが、資料の年代のまま記載しました。


藍の品種 Ⅰ

島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令•賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

十世紀になると『倭名類聚抄』『延喜式』に染色処方も記されるようになります。『延喜式』主計寮には諸国へ庸として乾藍三斗三合三勺が課せられていること、中男作物として紅花•茜•黄檗などの染料も課せられている国が記されています。藍の栽培は律令国家のもと租税の調•庸として中央へ納めるため、急速に各地の荘園に広がります。

 

平安時代の辞書『倭名類聚抄』(931–938)には「多天阿井」タデアイと科目がわかる表記で書かれています。蓼藍には多くの種があり、栽培地により同種のものでも呼名が変わることもあります。律令時代に広く日本列島でも栽培され始め、その後武士の時代には貴族の力が弱り藍が中央に集まることは少なくなります。新しい有力者に保護された藍は鎌倉時代から続く戦乱にも残り、秩序が回復される時まで栽培され続けたのだと思います。『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍と記されていて、京蓼は小上粉のことかも知れませんが、高麗藍や広島藍は如何なる種のことなのか確認ができません。

 

 

和歌山県山間部で大正末に藍作を廃業した人が、大正11年から60年間絶やすこと無く栽培してきた藍が徳島では絶えた「椿葉蓼藍」だったことがあります。椿葉蓼藍は別名「赤茎中千本」徳島県では明治–大正時代まで栽培されてきた記録がありますが、収量•品質•価格において栽培されなくなった品種でした。徳島県の山間部でも小上粉と椿藍との交配品種のような藍が見つかったことがあります。和紙漉きで痛んだ手に使うため家の廻りに自然に育っていたそうです。すでに徳島で見られなくなった青茎小千本などの品種も、もしかしたら何処かで栽培されているかも知れません。


藍商人-❿ 川真田市太郎•徳三郎

政時代に盛んに栽培された阿波藍の起源については、未だにはっきりしていません。戦前までの文献はすべてのものが天正13年(1585)に徳島藩祖の蜂須賀家政が、旧領地•播州から藍の栽培技術を導入したことになっていました。近年では板野郡藍住町•勝瑞城址にある見性寺の文書から、鎌倉時代の阿波の守護小笠原長清の一族が治めていた美馬郡岩倉(脇町)で、宝治元年(1247)に宝珠寺を開山した翠桂和尚が「染葉」で染めた僧衣を着用していた、と記されていたことからこの染葉が藍だったのではないかといわれています。

 

また文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』に掲載された記録により阿波から兵庫北関(神戸港)に、大量の藍葉が荷揚げされていたことが確認できます。藍葉を積荷した湊の一つとして記されていた惣持院の被定地は麻植郡(吉野川市)川田、鴨島など諸説ありますが、何れも古代から開かれた吉野川本流とその支流の江川•飯尾川によって形成された肥沃なところです。文献は存在しませんが、麻植郡から上流の美馬郡までのしかるべき場所で藍の栽培が始まったと私は考えています。

 

麻植郡は古くから大麻•苧麻がつくられた染織技術の先進地で、記録に残る藍栽培も早くから始まり藍商も紺屋も多く輩出しました。関東売仲間には阿波屋勘三郎•藍屋五右衛門、石原六郎•須見千次郎など明治の産業転換期に活躍した藍商がいました。明治42年に阿波藍移出の第一位だった本家の川真田市太郎(2,841俵)、分家の徳三郎(6,632俵)の川真田一族は、藍商人としての進出は遅かったようです。川真田徳三郎が徳島城下の船場に進出したのは安政2年(1855)で、魚肥•阿波三盆糖と阿波藍を取扱い幕末の激動期に藍商として活躍します。五代市太郎は藍の品質向上のために製作試験場を自宅に設けたり、明治9年の名藍社設立の中心的な役割も果たしました。阿波国共同汽船、徳島電燈会社、徳島鉄道会社の設立に参加し社長などとなり多方面の実権も握り、二代徳三郎は第一回衆議院議員となりました。明治31年に大阪北堀江に阿波藍株式会社を設立し大阪へ藍を移出する中心とし、その後は藍商から化学薬品商社への転進を図ります。

 

明治末期の麻植郡では没落する藍産業に変わって生糸生産への大転換がなされ、藍商人の蓄積資本の一部が製糸業に投下されたといわれています。

 

 


藍商人-❾ 藍屋嘉蔵

村家が藍屋嘉蔵として藍商活動を始めたのは17世紀中期ごろですが、六代嘉蔵が文化•文政時代(1804–30)に大坂売場株•玉師株を取得して藍商人としての基盤を固めました。急速に発展したのは幕末維新期に特権的藍商が経営を崩壊する動乱の中、九代嘉蔵のとき筑前•肥前売場株を取得し九州に進出をします。明治5年(1872)の玉師株•売場株廃止により藍の製造も販売も自由になったことで、6年には江戸深川町に東京支店を開設し相模•武蔵•甲斐•信濃•駿河も市場とします。

 

筑前•肥前市場には持船の「若宮丸」で阿波藍を移出し、筑前米•麦•菜種油•博多帯•久留米絣など諸産物を移入します。「若宮丸廻船規則」によると堂浦(鳴門市)の米田熊之助が沖船頭を勤め、本家の権限と沖船頭の裁量権を規定していて、廻船経営の内容が示されています。明治10年(1877)の西南戦争以後、14年の松方正義デフレ財政の時期に、所有農地を10町歩ほどから35町歩に急速に増やします。12年には酒造業を始め、20年には肥料店舗を開設して経営の多角化を進めます。東京支店にも肥料部を置き、北海道産の鯡粕•米穀•大豆•満州大豆粕を関東•東北地方に販売を始めます。インド藍、続いて化学染料輸入が主流となり、大量染色の普及が始まる前に肥料商として経営転換することで、近代的な企業経営へ切り替えることができました。時代の変動の中で拡大した奥村家の経営は、豊かな情報収集と情報の活用ですばやく時代に順応する柔軟性が優れていたといわれます。

 

太平洋戦争中の幾多の困難から戦後は奥村商店として営業を再開し、昭和25年に肥料の統制が撤廃されると肥料の取扱いを再開します。営業品目に農薬を加え、三井リッチ配合肥料特約店として関東•東北•山梨•静岡地区への販売を始めます。現在は製造部門を埼玉県岩槻市に持ち有機•無機配合肥料を製造•販売し、販売部門では肥料卸業者として、物資部門では農業用肥料以外の関連商品と健康食品•家庭園芸用品とやまか糸わかめの販売を行っています。

 

 

昭和62年に大藍商の豪壮な屋敷を板野郡藍住町に寄贈し、観光施設「藍の館」として公開しています。十数万点の奥村家文書と文化5年(1808)創建の母屋•土蔵•東門•奉公人部屋•西座敷•寝床(藍製造場)など13棟の建造物があり、奉公人部屋からは当時の労働者の厳しい環境が窺えます。各建造物の創建年代と工事の詳細や建築経費が記録された資料も保存されています。


藍粉成し

「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東•名西•麻植•板野•阿波•美馬•三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。

 

「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板野の村へ 夏の土用に 藍こなし」古くから伝わる民謡からも、夏場の藍作農家は臨時の労働者を雇っていても、大変な忙しさであったことが想像できます。

 

現在でも夏の陽射しのなか一気呵成の一連の作業は、延々と続くかと思うほどの葉藍を刻むことから始まります。朝刈り取った葉を細く刻み、風によって葉と茎とに選別してから、からからに乾燥させます。かつては多くの人々の手で唐棹で縦横に打ち叩いたり、藍摺板という道具で葉を傷つけながら、その間に竹箒で上下に反転させて充分に乾燥させていました。傷つけることで汁が空気にふれ酸化したり、寝せ込みのときに水分が吸いやすい状態となり、藍草の主要な青色色素•青藍(インジゴ)を含んだ上質の藍を得ることができます。

 

 

近年は藍作人の工夫と他業種の道具類を駆使して、人手の少ないなか大量の葉藍の処理作業に最善を尽くしています。大量の葉藍が広い敷地いっぱいに広げられている景色は、藍草が染料になるために必要な時間と自然の循環過程、先人の最善周到な技能を思わずにはいられません。気温が冷える秋の彼岸の頃まで、乾燥した藍はしばらく保管されます。すでにインジゴは存在している乾藍ですが、今度は約100日間という時間のなか、繊維醗酵させることで完全な藍の染料に変化します。藍染の染液を作る方法である醗酵建てをするために必要な、藍還元菌をより多く含まれた状態にするためこの作業が生まれたのだと思います。


手板法

政時代に阿波藍を他国に移出できたことの一番の理由は、品質が優れていたからです。高価格でも染上がりが優れていたため、他藩から「移入制限」「移入禁止」政策が取られてもほぼ反古になり、紺屋から支持され阿波藍を移入することになりました。卓越した品質は藍玉製造者(玉師)の努力と工夫の積み重ねから得られたわけですが、毎年大坂、徳島で開催した「藍市」が玉師の技術向上に大きく寄与しました。いわゆる品評会であり、藍玉の等級を決めるため大坂•京都•江戸の問屋仲間など関係者が、手板法により鑑定し投票が行われました。「天上」「随一」に選ばれた生産者(藍商)には、その年の最高品質の名誉が与えられ藍玉相場の基準となり、御祝儀相場と宣伝と競売会も兼ねていました。

 

藍分などを科学的に測定する技術はまだありませんので、品質の優劣を判別するのに阿波では「手板法」といって長年の経験と勘を頼りに肉眼で鑑定する検査法を用いていました。

まず少量の藍を左の掌上に乗せ水を加え「竹べら」でよく練り合わせ、親指で力をこめて練ります。餅のような練藍になるように繰返し練り、固い餅状となる間の掌上の感触や勘の働きで、藍玉の染力を推測し醗酵のし易さを感知します。練る過程で出る灰汁の多寡で、粘着性や弾力性を判断して大体の「値頃」を踏むのです。

それから練藍を球状に揉み、掌中に水を加え練藍を研くと濃厚な藍液ができます。この液の状態と球状の練藍を紙面に押捺し日光に透かして、藍の色相・濃度などを判断します。この時使用の紙は年数の経った、薄様紙の加賀半紙が手板用紙として決められていました。 

 

 

青味のものは色は綺麗ですが質が劣るといわれ、赤味のものは色は汚いけれども、醗酵が早く、藍建てがし易いので「赤口」とも呼ばれ良質だと紺屋側では喜ばれたといいます。手板法で品質を判断できるようになることは大変重要なことで、一人前になるのに5年はかかると書かれています。この時代の藍取引では手板は製藍(玉師)・取扱(藍商)・消費(紺屋)のいづれもが、必ず身につけていなければならない鑑定法だと伝えられていました。明治になり徳島県庁で手板法と、農商務省の化学定量分析法とを競合させたところ、双方全く一致したことを官報で報じていたそうです。

 


水師学校 犬伏久助

の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。

 

初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年•1758–1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した‥‥と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。

江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培•蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。

 

『阿波藍譜』「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転しその名を不動のものとしました。


藍と絞り

事のないまま徳島へ来て、突然、藍染制作で生活をすることになったとき、「絞り」に助けられて30年間住み続けられました。織物が好きでしたが技術習得の時間も余裕もなく、尊敬していた片野元彦氏の絞りの本が先生でした。針痕を見れば大体どのように絞ってあるのかわかりますし、何といっても針と糸だけで始められました。絞りは自由で、すなおな魅力があると古い作品を見ていて感じます。

 

正倉院や法隆寺に「纐纈」と称した見事な絞りが残されています。古くから「くくり」と呼ばれて万葉集にも詠まれているように、布を糸で巻いて文様を染め出す手法は一番手短なことだったからでしょう。絞りの歴史は辿れないほど古く、有史以前から南米ペルーやインド、アフリカ、中国など世界のいろいろな場所で思い思いの絞りが誕生していました。

 

原始的な絞りは宮廷では衰退して姿を消していましたが、庶民の間で細々とつなぎ続けていました。武士の台頭から再び「目結(めゆい)」として糸で括った絞りがさまざまな文様になって発展していきます。藍とも相性のよい絞りは地域のなかで新しい技術が生まれ、交易に適した地域の中から大分の豊後絞り、愛知の有松絞り、京都の鹿の子絞り、福岡の博多絞り、岩手の南部茜・紫根絞り、秋田の浅舞絞り、新潟の白根絞りなど多くの産地が生まれました。これらの地域から発信されたものが、また多くの人の手で展開させながら、百種以上の絞り加工の多様性、技術の精巧さを競っていたことだろうと想像ができます。

 

 

明治10年の絞染産地の分布は福岡20万反、愛知16万反、長野2万6千反、大阪2万5千反、秋田、山形、東京、新潟、愛媛、徳島も5500反の生産があったことが「第一回内国勧業博覧会」の報告書からわかります。その後各地で長板中形(木綿型染)の生産が増え流行するようになると、有松の嵐絞りが明治27、8年ころ年産100万反で人気を得ますが、絞藍染木綿の国内需要は減ることになります。有松でも合成藍の使用を認め、明治33年~40年には多くの紺屋で合成藍の使用が始まります。

 


藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


襤褸藍-ぼろあい-

褸藍-ぼろあい-と聴くと近年は、破れたら当て布をしてまた使い、何枚も重なる擦り切れた布と縫い目の、継ぎはぎだらけの布を想像する人が多いかと思います。明治初期でも布類は庶民の暮らしには高価な貴重品でしたので、襤褸(ぼろ/らんる)と呼ばれ日本各地で人々の手で創意ある布が、慈しみ使われていました。江戸時代のリサイクル生活様式に感銘を受けていたとき、多くのことを知りました。藍の布が着物-布団地-おしめ-雑巾など様々な形に変わり、最後を向かえるときまで充分活用される知恵などです。

 

大事に使われてもやがて使われなくなった藍の布を、また買い集めて一ケ所に集め、集められた襤褸から藍の微粒子を集めるのです。驚きました。布から染料をまた回収できるなんて、誰が思いついたのでしょうか。藍の襤褸を集め、灰汁に石灰、水飴を混ぜ煮沸させ浮き出てきた藍の泡を集めます。臼で布を搗いたりもしていました。青い微粒子を集めて乾燥させて固形状にしたもの、膠を混ぜて固めて顔料にしたものなどを画料•染料として使っています。これが江戸時代の襤褸藍です。

 

藍を化学的に理解していれば可能なことは解りますが、江戸の素晴らしい人々は青い微粒子を見つけ出し、色の抜かれた残りの木綿•麻の襤褸は、屑屋の紙くずと混ぜて漉き返され、浅草紙にリサイクルしていたということです。     

 

 

明治12年の「藍鑞卸売商営業鑑札」が残る浅草・藍熊染料店の創業は文政元年(1818)で、初代は漢方薬店を商い、その後藍鑞を製造•販売していました。「紺肖切(藍布裂)・蛎灰・飴を釜の中にいれ、水煮し浮き出す藍泡を掬い藍鑞を製造。藍鑞は紺屋へ売却、残った襤褸も売却。」との内容が記された文書が残っています。これは襤褸藍の製造と同じと思われますが、できあがったものは藍鑞と呼ばれています。本来の藍鑞とは藍瓶の縁に付着した藍分や、藍の華と呼ばれる染液に浮かぶ青色の泡を精製して造った純度の高い固形物です。不純物が少なくて光沢があったので藍鑞と呼ばれていました。藍花•青黛•青代•藍澱•靛花などとも呼ばれ江戸初期からの利用がありました。


木綿織物産地と藍 –久留米絣

留米絣は寛政11年(1799)当時産業の少なかった久留米近郊に始まり、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、竹野、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。筑後藍は文化年間中に他国や大坂、江戸へと移出しています。

資料に残る阿波藍の九州への移出は、享保11年(1726)薩摩、14年筑前、肥前の各地に販売を始めています。藩内の筑後藍を移出できるほど栽培していても、阿波藍を文久元年(1861)に1795俵移入していることから、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされたと思われます。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになり、藍栽培もますます盛んになります。

 

明治時代は久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。明治10年着実に生産が増大するなか、新しい染料による粗製乱造で信用を失ったことから、販売業者によって販売と染色の責任を明確にするための組織がつくられます。久留米絣の染色に地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため徳島県に伝習生を派遣して、久留米絣の理念を守ります。

 

明治13年に小柄の絣緯糸が織貫の方法で容易に生産され、37年には絣糸製造機が発明され経糸も容易に作れるようになりました。さらに42年には中柄・小中柄の糸も機械括りができて量産が容易になりました。明治19年46万反、28年85万反、40年113万反、大正期100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。

 

明治中期以降インド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透しますが、久留米絣は組合によって厳重に天然藍の保護と染色の美しさ、堅牢度を守り、品質と信用を維持したのです。それでも40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入されます。染め回数の半減と着色力もよいことから、労力でも材料費でも生産効率がよい混合建(割建)が昭和40年頃まで用いられることになります。そして昭和37年頃よりナフトール染料へと転換します。

 

 


木綿織物産地と藍 –備後絣

留米絣、伊予絣に続き生まれた備後絣は富田久三郎が文久元年(1861)独自に考案した文久絣が基になったといわれます。『ヒストリー 日本のジーンズ』日本繊維新聞社発行(2006年)の記事「備中・備後紀行」のなかで逸話として、久三郎の不在時に来訪した阿波の某氏が絹織の「浮織」の技法を記した書を残し、久三郎はそれを研究して綿織物に応用し原糸を糸で括ることで、井桁文様を作りだすことに成功したと書かれていました。大変興味深い内容でいろいろ想像してしまいました。阿波の某氏とは藍商人のことだと思いますし、文久絣は始めから輸入紡績糸を使用して絣の生産を始めましたので、藍玉をたくさん売るため商品開発の助言をしたのではないかと思いました。文久絣の誕生は他の説が一般的なので信憑性はわかりませんが、阿波の藍商人の商売方法の一端を見るようでした。売場株を持っている藍商人の特長は持船で「のこぎり商法」といわれる行き帰りの商売をしていました。葉藍作りから蒅・藍玉製造まで一貫して行い、藍玉を自ら全国各地の売場に販売し、さらに売場先の国産品を買い入れて京都、大坂、藩内へと交易までも生業とする総合商社のような活動をしています。

 

明治になって備後絣と名付け大阪市場伊藤忠商店に200反を販売し、明治13年には年産11.5万反、44年33万反、昭和元年82万反と生産を増やし、その後は手織機から足踏機、8年には力織機の導入で10年には130万反まで生産しますが、戦争をはさみ衣料品統制規則が廃止されるまで停止します。27年には年産170万反、30年220万反、35年には330万反の最盛期を迎え全国生産高の7割を占めるまでに成長しました。

 

 

昭和30年三井化学工業株式会社と「三井インヂコ」の一括購入契約を結び、翌年には絣木綿織物「備後絣」の文字の商標登録が完了しました。昭和34年(1959)井伏鱒二『木靴の山』のなかで乙女の着る備後絣もほとんどが合成藍で染めた紺絣です。


木綿織物産地と藍 –伊予絣

 治32年(1899)に伊予織物の生産高は70万反余りで全国2位となります。享和年間(1801–1803)に京都西陣の花機を綿高機に改良して、縞木綿の生産を増やし松山縞・道後縞として他地域へ移出するようになりました。伊予絣は藩政時代には今出鹿摺と呼ばれ一部の地域でのみ織られていましたが、明治になると縞木綿より絣木綿の需要が増えます。伊予絣の生産全盛期は明治末から大正年間(1912–1926)で、全国の絣織物の半分を占める盛況ぶりだったと伝えられます。

 

今出絣株式会社村上霽月の親族である村上孝次郎が、明治32年3月に村上洋藍店を開業します。ドイツから合成藍の製造元、馬獅子アニリン・ソーダ化学工業会社(BASF)の特約店として販売を始めました。今出絣の会社沿革に記載された内容は、私が調べていた合成藍の輸入開始年度より一年早く、しかも伊予絣の生産高はその後数年で倍増するのです。続けて調べますと『藍に関する講話』明治36年4月発行の中でも32年に輸入が始まったと書かれていました。

 

1880年に藍の主成分であるインディゴの化学合成にバイヤーが成功し、BASFとヘキストが特許権を取得したときから合成藍の工業化は予想できたことです。1897年BASFによって工業化され量産が開始されました。しかし依然徳島の藍商人たちの意見は分かれ、大方は阿波藍を保守することを選び外国藍を扱うことを牽制しました。新興人造染料取扱い業者が先行する中、量産に出遅れたヘキストより価格で有利な合成藍が開発され、激烈な両社の販売競争となりました。乱売に疲れた徳島では、明治42年日本市場に対する独占販売機関大同藍株式会社を創設し、その後は新たに開発される有機化学染料の商社へと移行していきます。

 

この時の混乱は多くの資料を見ていて分るように、正確な輸入時期の特定ができていません。東京銀座の天狗煙草岩谷松平が初めて輸入したとも云われていましたが、BASFジャパンの沿革年表を見ると「1898年山田商店および柴田商店によって輸入開始」と書かれています。


木綿織物産地と藍 –小倉織 青梅縞

川家康の遺品の中にも名称が見られる小倉織は、藩政時代の武士や他国に流通する銘柄織物として愛用された豊前小倉を代表する特産品でした。明治になっても全国にその名を馳せ、夏目漱石の『坊ちゃん』や多数の文学作品の中にも小倉織の名を見ることができます。

関東の綿織物は江戸中期に始まり限られた地域の農間企業として展開していましたが、高機の導入により幕末にかけて著しい発展をしていました。真岡木綿、青梅縞、結城縞など銘柄織物も知られるようになります。安政6年(1859)横浜港が開港すると良質で安価な紡績糸やインド藍の輸入が増大し、国内の棉作地は藍作地へと変わり、紡績糸を藍で染め新しい技術を取り入れた織物産地が広まります。

 

安政元年(1854)阿波藍総移出量は236000俵で、この頃の江戸への移入は42011俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10000俵の状況でした。明治初年には武蔵国が阿波に次ぐ有数の産地になっています。埼玉県の明治16年(1883)藍作付面積は1078ha、31年には3120haを最高に衰退期を迎えます。

 

明治42年に編纂された『織物資料』には、埼玉県の主要織物の染色方法と染料供給地の変遷が記載されています。

《青縞》始め染料は地藍のみを使用、製織の発展に伴い不足分を阿波藍、明治20年頃よりインド藍、北海道藍を使用。その後藍の需要は年々減少し合成藍の使用が多くなる。

《武蔵飛白》維新までは地藍、阿波藍を使用し、その後北海道藍を大部分使用。明治2、3年頃紺粉。16、17年頃よりログウッドエキス、ヤシャ、ダークブルー、30年以降インド藍、35年頃より合成藍と正藍を使用。今日は硫化染料を採用。

《双子織》始め正藍を用いていたときは地藍、阿波藍を使用。その後インド藍、ヤシャ、鉄漿、紅柄、明治25年頃より直接染料、塩基性染料、酸性染料を使用。明治37年頃から硫化染料が増加して最も多く使用。

《絹綿交織》明治25年頃までは天然染料のみを使用。その後直接染料、アリザリン属、塩基性染料、明治37年頃より硫化染料の使用が7割になる。

 

 

小倉織は新しい染料を導入しないまま、昭和初期にはその生産が途絶えました。明治42年、田山花袋『田舎教師』に登場の青縞はほとんどが合成藍、硫化染料で染められた綿織物になっていたと思われます。

 


日本の藍と明治 - 混合建(割建)という技術

政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基づき、翌年には先行して横浜港が開港、生糸貿易の中心となります。欧米の新しい技術、製品とともに輸入されたインド藍など染料関係は関東から浸透します。そして幕末の混乱から10年経った明治2年(1869)に漸く開港した神戸港に、インド藍や化学染料が輸入されるようになると、西日本の織物産地にも大きな変化が見られるようになりました。それでも京都など一部の需要者によって久留米絣や小倉織、柳井縞など阿波藍を使った木綿織の産地は支持され、阿波藍の需要は西日本の産地にシフトしていきました。しかしその後の合成藍の出現と新しい染料を使う技術の上達で、紺屋にも大きな変革の時期がきました。欧米では急速に天然染料から化学染料に変わりましたが、紺色に思い入れがあったのでしょうか、従来の青の希求から量産にも耐えられる天然藍に合成藍を混合して染める、混合建(割建)という技術を発明してしまいました。

 

明治40年頃から全国の紺木綿織産地の天然藍使用が急激に減少します。紺屋の規模により完全に化学染料になり機械化が進んでいく工場、混合建(割建)を選ぶ工場など変革を迫られ、大方は化学染料と合成藍を受入れる事を選びます。そして新しい青色の新橋色、金春色など純度の高い色が、ハイカラな雰囲気で欧風の感覚だと花柳界から流行色も生まれました。商品の競争にも明暗が生じます。この頃から「藍色」の色名が多く見られるようになり、「はなだ・縹」「花色」「千草」「浅葱」の色名は少なくなります。天然藍だけを選んだ織産地は昭和になるころには衰退します。天然染料だけだった江戸時代には「藍色」の使用は少ないことから、この時期から使われだした「藍色」を当時の人たちは合成藍だと意識して使用し始めたように思われます。

 

 

藍の生産は明治36年の15099haを最高に、明治40年7542ha、大正元年2888ha、昭和元年には502haになりました。日本でも合成藍の製造が行われるようになり、昭和16年40ha、昭和40年には4haまで減ることになります。

 


高原義昌•田辺脩『細菌による藍の工業的還元に関する研究』

治31年に合成藍の輸入が始まり、大正時代になると天然藍は衰退します。消滅しようとしている技術の解明や染色方法の説明も衰えていくのはわかりますが、化学染料の普及が終わると昔の染料への懐古が生まれ、僅かですが日本では天然藍が使われ続けました。転換期にインド藍(藍靛)や合成藍との折合いから、世界でも珍しい割建てという曖昧な技術を生み出し、現場は様々な情報があふれていました。同じように見える藍瓶でも、経営者の仕事の選択によって使われる染料、添加する材料が著しく異なった状態で「藍染」として存在していました。戦後「本物」と称して藍染が注目されたときから、伝えるべき情報が現実から乖離した言葉だけの内容になって、益々混乱したように思います。

 

『細菌による藍の工業的還元に関する研究』高原義昌•田辺脩(1960年工業技術院発酵研究所)による論文があります。藍還元菌の生理形態の究明と醗酵建の菌学的研究です。公的機関での研究は初めてだったかもしれません。「細菌(バクテリア)による天然藍の還元、いわゆる醗酵建は有史以前から行われているにもかかわらず、その実態は全く不明で各地の染色場においては古来からの言い伝えや長い間の経験と‥‥」藍染を行っている現場の管理技術や醗酵時間の短縮など、合理化と染色生産費の低下も見据えての研究だったと思います。研究結果は有意義なこともあったかとも思いますが、残念な結果も報告されています。

 

 

「醗酵過程において細菌や酵母の関与で炭酸ガスと水素が生産されるといわれてきたが、乳酸、ピルピン酸、蟻酸、酢酸の検出による炭酸ガスの発生のみで、酪酸は検出されず水素の発生は認められなかった」と報告されました。このことで酪酸醗酵、乳酸醗酵による水素によって還元するという従来の説を否定しました。藍の含有糖分や麸などの澱粉の糖化作用も否定されています。現在ではどちらの説明が有力なのかははっきりしてきましたが、この時点で後藤捷一氏など従来の原理は支持を得られないことになったように思います。大掛かりな機材を使って、却って醗酵のシステムを考えるうえで混乱が生じました。明治の研究者中村喜一郎は「藍玉濁建」「藍玉澄建」は灰汁を使って説明しています。そして「苛性曹達建」「灰汁建」との区別もしていますが、発酵研究所の試験の藍染は苛性ソーダで行っています。30年藍染をしているだけの微弱な経験からですが、この違いは大変大きいことだと考えます。


中村喜一郎『堅牢染色法』明治22年

治になって化学染料の使用が広まると、化学染料の使用方法が書籍によっても紹介されます。『西洋染色法』明治11年 東京府勧業課『初学染色法』明治20年 山岡次郎『堅牢染色法』明治22年 中村喜一郎など新しい技術の習得に熱心な様子が窺える内容になっています。化学染料と化学薬品は驚くほど早く多くの工場で使用が始まりますが、色の定着や生地の扱いなど従来使っていた天然物との変換には多くの困難がありました。これらの書籍の中には化学染料と並び、化学薬品を使い従来の藍(蒅)の新しい建て方も紹介されています。蒅(すくも)に慣れ親しんでいた職人たちもインド藍や琉球藍、台湾藍(藍靛)の出現で、灰汁に変わるポットアス(炭酸カリ)や曹達、苛性曹達の使用方法もいち早く覚えたようです。

 

『西洋染色法』は西洋の染色技法を齊藤實堯が翻訳した書籍です。藍の使用方法も掲載されていて「菘藍(ウォード)をもって藍玉を製する法」などの項目や、藍靛の染色法についての説明など、長い間口伝で伝えてきた藍の伝授の手続きに困惑も生まれたのではないでしょうか。『初学染色法』には藍建てに薬品を使った還元方法「硫酸鉄建」「亜鉛末建」「亜硫酸建」が説明されています。『堅牢染色法』はドイツの染料会社やヨーロッパ各国の工場を巡り染色技術を習得した中村喜一郎が、技術の向上を図るために実地で染色を行いながら研修した染色指導書なので、いま読んでも明治の染色業の発展に重要な仕事だったことがわかります。

 

藍及び藍染についても多くの解説をしていて、藍玉と藍靛の応用や特徴、染色方法の短所長所も論じています。中村氏は天然染料に対する知識が乏しかったので指導を請い研究したといわれますが、この時の解説から殆ど前進をみなかった戦後の藍の説明に驚愕します。「藍靛硫酸鉄建」「藍靛石灰建」「藍靛アンモニア建」「藍靛苛性曹達建」「藍玉濁建」「藍玉澄建」「藍玉亜鉛末建」の説明にはじまり藍色の染め方、青色を得るシステムは「醗酵作用によりて之を還元せしむか、もしくは親和作用によりて還元せしむかの二種の仕方に基づく」と書かれています。

 

明治以降繊維素材と化学染料は江戸時代まで続いた技術からの転換を成し遂げて、堅牢であり鮮やかな美しさを多くの人たちに与えてくれました。欲をいえば欧米文明を吸収した後もう少し時間があったなら、日本独自の藍の醗酵技術の解明もこの時代の人々ならできたかも知れないと、残念に思うのです。

 


変わった新しい藍色の区別

治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。

 

絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。

 

昭和3年工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)

この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。

 

 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家

 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者

 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者

 「本染」    上村六郎 上代染織史学者

 「古代植物染」 後藤博山 染織家

 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者

 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

 

 

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。

 


変わっていく藍色

以降に登場した青色を染める染料の種類を大きく分類しますと、🔹インド藍など精藍法(沈殿法)で作られた天然藍、🔹ログウッドなど南洋材による天然染料、🔸人造藍とも呼ばれる黄血塩(人造顔料:化学染料)である紺粉、ベロ藍、🔸明治33年(1900)合成藍(インディゴピュア)が輸入されるまでに発見、有機化学の理論によって開発された化学染料です。

 

青色、藍草の異種ごとに製法された染料を表す言葉はそうたくさんありませんので、同じ文字が違うモノを指す場合が多くなるのは避けれません。維新後の混乱と藩政から日本帝国となり、方言、地域内の呼名など混乱もあったかも知れませんが、染料に関してはその後の認識に大きく誤解が生じることとなりました。明治8年(1875)にドイツに留学していた中村喜一郎が合成染料37種類を持ち帰り、染色法の指導を始めます。明治11年には東京府勧業課も『西洋染色法』齊藤實堯の翻訳で欧州の開発した染料、薬品の使用方法などの実用手引きを発行しています。染織技術の急展開の様子が数々の書籍からも窺えます。

 

🔹藍靛(らんじょう・らんてん・インジゴ):インド藍.琉球藍.台湾藍.沈殿藍.

🔹靛藍(てんらん・インジゴ):沈殿藍.純藍.

🔹硫酸靛藍:藍を硫酸に溶かしたもの.靛藍エキス.

🔹水靛:外国産泥藍.  

🔹土靛:外国産乾藍.

🔹泥藍:琉球藍.沈殿藍.

🔹精藍:沈殿藍.精製藍の略.青黛.藍鑞.

🔹青藍:沈殿藍.インジゴ(藍の色素).ブラーウ.純藍.

 

🔹擬紺:ログウッド.南洋材+合成染料.

 

🔸紺青:ベロ藍.ベレインブラーウ.プルシャンブルー.インジゴ.

🔸黄色血滷塩(けつろえん):ベロ藍.ベルリンブルー.チャイナブルー.人造藍.

🔸紺粉:ソルブルブルー.黄血塩.

 

🔸塩基性合成染料:モーブ.

🔸酸性染料:ソルブルブルー.リヨンブルー.

🔸酸化染料:アニリン黒.

🔸媒染染料:アリザリン ブラーウ.

🔸硫化染料:

🔸建染染料:インジゴピュア.合成藍.インジゴ.人造藍.

 

 

*個人的資料に基づいて抜粋しています。


日本の藍と明治 - 新しい技術

国によって他国との商品の競合も少なかった日本に、イギリスから紡績糸と綿織物が輸入されました。慶応元年(1865)の輸入品の79.6%が毛・綿織物と綿糸であり、輸出品の84.3%が生糸、蚕卵紙であるように国産より安価な大量の綿が全国に広まります。

 

明治になると棉栽培地では輸入綿を染めるために藍栽培への転換が始ります。明治31年農商務省吉川祐輝技官によって『阿波国藍作法』の報告が出ることで、藍の栽培法や肥料などの技術面,江戸時代から秘伝とされていた染料(蒅)の加工技術が科学的な成分変化の精細な数字とグラフとで、醗酵に要する日数と発色の変化が明らかにされました。維新になって大分、愛知、福井、山梨、北海道などの要請により個別には藍の技術指導は行われていましたが、これを機に多くの書物で藍作りの技術が紹介されることになります。

 

明治10年代の出版物は西洋の染色技術と従来の染色技術がごちゃごちゃに紹介されています。驚くほど危険な物質も急速に使われ始め、その中にインド藍=靛藍(てんらん)としての染色法は、従来の醗酵による還元法とは違い硫酸で溶かす方法が紹介されています。新しい化学染料、紺粉(ソルブルブルー)や大量の布の染色に多くの紺屋が技術の転換を余儀無くされ、驚くほどの早さで適応していきます。文明開化といわれる状況下での藍の価格の比較です。

 

 

(注)他国藍=地藍=徳島県以外の県で作られた藍


日本の藍と明治 −インド藍

国を解いた日本は西洋の技術力に圧倒されます。日本中を掌握していた阿波藍も世界を制覇しているインド藍との競争に危機感はありました。藍寝床で葉藍を醗酵させ蒅に加工する製法ではなく、短縮化された生産工程を持つコストの安いインド精藍法(沈殿法)を精力的に学び取ろうとしました。

 

明治9年五代友厚は国産の藍がインド藍に圧されるのを危惧し、且つ藍を世界の商品作物にするため政府から50万円の借入を受け、大阪北区堂島浜通りに朝陽館を創設します。蒸気機関を動力とする最新設備を導入し従業員300人で創業を始め、徳島に粗製工場を設けるなどして精藍事業を開始しました。渋沢栄一は明治21年に蜂須賀家、関東買阿波藍商達と小笠原製藍会社を設立します。徳島でも明治20年代には藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が始まり、明治33年には徳島県出身の長井長義博士の精藍法を導入し、製藍伝習所が開設されました。しかし近代日本を飛躍させた実業家、五代と渋沢の取組みも実績が上がらず短期間で解散することになります。当時の関係者は蒅の製法とインド藍の製法は根本的に違うこと、その染色技術も全く違うことに対処せず有効な方策が見つけられなかったように思われます。

 

 

国内の紡績業や綿織物の発展により布帛の需要はますます拡大し、染料は足りない状況でしたので阿波藍もインド藍との競合のうちに、明治31年に合成藍が輸入され始めます。その後大きな近代化・工業化の流れのなか、世界のシステムは有機化学工業が主流となり、インド藍とともに日本の藍も消えていきました。

 


藍草で染めた名称 染料による青系統の名称

で染めた色の名称は唐の時代に律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱がみられますが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別は鮮明でなくなり、各々に使われ伝わる範囲で並立して普遍的な識別には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

 

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代も八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

 

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。

この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。

 

この時から青色に染まる物質藍草から作られる固形のインド藍や泥状の琉球藍と、人工物の黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称と多様な染料と染法が紹介されるようになります。


横浜港開港によって大量のインド藍の輸入が始まりました

末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

 

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

 

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)

         印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)


藍という商品作物–社会の発展とともに

盛期の明治36年(1903)には吉野川、那賀川、勝浦川流域で15099ヘクタールの藍が栽培されていました。当時の県内全耕地面積の約23%、稲作面積の約50%に当たります。藍の衰退によりあっという間に大正末期には水田までが桑畑になり、10240ヘクタールにまで拡大して養蚕農家も4万戸となりました。養蚕が活力を失ったあと沢庵漬加工と大根栽培、奈良漬加工と白瓜の栽培など時代とともに変化するどんな野菜でも栽培し、現在は人参を多く栽培しています。絶えず収益性の高いものを摸索して栽培品種が生まれましたが、変り身のはやさと勤勉さには敬意を表します。土壌の良さも‥‥

 

 

それでは藍の前の品種は何だったのでしょうか?非常に古いことなので記録もありませんが、私は荏胡麻だったと考えています。9世紀以降荏胡麻から作られる灯明油は、全国の社寺や宮廷など貴族社会に浸透し始め生産と販売の流通網がつくられます。徳島では港津「別宮」から「山崎」へと荏胡麻が運ばれている15世紀の記録が残されています。藍の商品作物としての展開は、社会の進展とともに新たな供給先が育ったことで始ったのではないかと考えます。


阿波藍商人見立一覧表から見る明治期の藍の隆盛

両 親、祖父母は徳島の出身ですので、関東で育った私でも少しは徳島のことは知っていました。だけども藍のことなど聞いたこともありませんでした。

父方の祖母はこの眉山の麓で長年暮らし、訊ねますと近くに紺屋があったのは覚えていました。明治31年(1898)に合成藍の輸入が始り、祖母の青春時代には合成藍や硫化染料の全盛期になっていました。(本人は阿波藍だと思っていましたが……)

 

明治憲法下で市制がしかれた頃の徳島は、阿波藍の隆盛がつづき大変活気のある状況だったようです。

 

藍商人の数もおよそ4000人いたと伝えられています。それぞれが格付を競っていた様子を藍商人見立一覧表で見ることができます。 →クリックで大きくなります