藍と絞り

事のないまま徳島へ来て、突然、藍染制作で生活をすることになったとき、「絞り」に助けられて30年間住み続けられました。織物が好きでしたが技術習得の時間も余裕もなく、尊敬していた片野元彦氏の絞りの本が先生でした。針痕を見れば大体どのように絞ってあるのかわかりますし、何といっても針と糸だけで始められました。絞りは自由で、すなおな魅力があると古い作品を見ていて感じます。

 

正倉院や法隆寺に「纐纈」と称した見事な絞りが残されています。古くから「くくり」と呼ばれて万葉集にも詠まれているように、布を糸で巻いて文様を染め出す手法は一番手短なことだったからでしょう。絞りの歴史は辿れないほど古く、有史以前から南米ペルーやインド、アフリカ、中国など世界のいろいろな場所で思い思いの絞りが誕生していました。

 

原始的な絞りは宮廷では衰退して姿を消していましたが、庶民の間で細々とつなぎ続けていました。武士の台頭から再び「目結(めゆい)」として糸で括った絞りがさまざまな文様になって発展していきます。藍とも相性のよい絞りは地域のなかで新しい技術が生まれ、交易に適した地域の中から大分の豊後絞り、愛知の有松絞り、京都の鹿の子絞り、福岡の博多絞り、岩手の南部茜・紫根絞り、秋田の浅舞絞り、新潟の白根絞りなど多くの産地が生まれました。これらの地域から発信されたものが、また多くの人の手で展開させながら、百種以上の絞り加工の多様性、技術の精巧さを競っていたことだろうと想像ができます。

 

 

明治10年の絞染産地の分布は福岡20万反、愛知16万反、長野2万6千反、大阪2万5千反、秋田、山形、東京、新潟、愛媛、徳島も5500反の生産があったことが「第一回内国勧業博覧会」の報告書からわかります。その後各地で長板中形(木綿型染)の生産が増え流行するようになると、有松の嵐絞りが明治27、8年ころ年産100万反で人気を得ますが、絞藍染木綿の国内需要は減ることになります。有松でも合成藍の使用を認め、明治33年~40年には多くの紺屋で合成藍の使用が始まります。

 


藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


襤褸藍-ぼろあい-

褸藍-ぼろあい-と聴くと近年は、破れたら当て布をしてまた使い、何枚も重なる擦り切れた布と縫い目の、継ぎはぎだらけの布を想像する人が多いかと思います。明治初期でも布類は庶民の暮らしには高価な貴重品でしたので、襤褸(ぼろ/らんる)と呼ばれ日本各地で人々の手で創意ある布が、慈しみ使われていました。江戸時代のリサイクル生活様式に感銘を受けていたとき、多くのことを知りました。藍の布が着物-布団地-おしめ-雑巾など様々な形に変わり、最後を向かえるときまで充分活用される知恵などです。

 

大事に使われてもやがて使われなくなった藍の布を、また買い集めて一ケ所に集め、集められた襤褸から藍の微粒子を集めるのです。驚きました。布から染料をまた回収できるなんて、誰が思いついたのでしょうか。藍の襤褸を集め、灰汁に石灰、水飴を混ぜ煮沸させ浮き出てきた藍の泡を集めます。臼で布を搗いたりもしていました。青い微粒子を集めて乾燥させて固形状にしたもの、膠を混ぜて固めて顔料にしたものなどを画料•染料として使っています。これが江戸時代の襤褸藍です。

 

藍を化学的に理解していれば可能なことは解りますが、江戸の素晴らしい人々は青い微粒子を見つけ出し、色の抜かれた残りの木綿•麻の襤褸は、屑屋の紙くずと混ぜて漉き返され、浅草紙にリサイクルしていたということです。     

 

 

明治12年の「藍鑞卸売商営業鑑札」が残る浅草・藍熊染料店の創業は文政元年(1818)で、初代は漢方薬店を商い、その後藍鑞を製造•販売していました。「紺肖切(藍布裂)・蛎灰・飴を釜の中にいれ、水煮し浮き出す藍泡を掬い藍鑞を製造。藍鑞は紺屋へ売却、残った襤褸も売却。」との内容が記された文書が残っています。これは襤褸藍の製造と同じと思われますが、できあがったものは藍鑞と呼ばれています。本来の藍鑞とは藍瓶の縁に付着した藍分や、藍の華と呼ばれる染液に浮かぶ青色の泡を精製して造った純度の高い固形物です。不純物が少なくて光沢があったので藍鑞と呼ばれていました。藍花•青黛•青代•藍澱•靛花などとも呼ばれ江戸初期からの利用がありました。


木綿織物産地と藍 –久留米絣

留米絣は寛政11年(1799)当時産業の少なかった久留米近郊に始まり、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、竹野、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。筑後藍は文化年間中に他国や大坂、江戸へと移出しています。

資料に残る阿波藍の九州への移出は、享保11年(1726)薩摩、14年筑前、肥前の各地に販売を始めています。藩内の筑後藍を移出できるほど栽培していても、阿波藍を文久元年(1861)に1795俵移入していることから、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされたと思われます。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになり、藍栽培もますます盛んになります。

 

明治時代は久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。明治10年着実に生産が増大するなか、新しい染料による粗製乱造で信用を失ったことから、販売業者によって販売と染色の責任を明確にするための組織がつくられます。久留米絣の染色に地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため徳島県に伝習生を派遣して、久留米絣の理念を守ります。

 

明治13年に小柄の絣緯糸が織貫の方法で容易に生産され、37年には絣糸製造機が発明され経糸も容易に作れるようになりました。さらに42年には中柄・小中柄の糸も機械括りができて量産が容易になりました。明治19年46万反、28年85万反、40年113万反、大正期100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。

 

明治中期以降インド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透しますが、久留米絣は組合によって厳重に天然藍の保護と染色の美しさ、堅牢度を守り、品質と信用を維持したのです。それでも40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入されます。染め回数の半減と着色力もよいことから、労力でも材料費でも生産効率がよい混合建(割建)が昭和40年頃まで用いられることになります。そして昭和37年頃よりナフトール染料へと転換します。

 

 


木綿織物産地と藍 –備後絣

留米絣、伊予絣に続き生まれた備後絣は富田久三郎が文久元年(1861)独自に考案した文久絣が基になったといわれます。『ヒストリー 日本のジーンズ』日本繊維新聞社発行(2006年)の記事「備中・備後紀行」のなかで逸話として、久三郎の不在時に来訪した阿波の某氏が絹織の「浮織」の技法を記した書を残し、久三郎はそれを研究して綿織物に応用し原糸を糸で括ることで、井桁文様を作りだすことに成功したと書かれていました。大変興味深い内容でいろいろ想像してしまいました。阿波の某氏とは藍商人のことだと思いますし、文久絣は始めから輸入紡績糸を使用して絣の生産を始めましたので、藍玉をたくさん売るため商品開発の助言をしたのではないかと思いました。文久絣の誕生は他の説が一般的なので信憑性はわかりませんが、阿波の藍商人の商売方法の一端を見るようでした。売場株を持っている藍商人の特長は持船で「のこぎり商法」といわれる行き帰りの商売をしていました。葉藍作りから蒅・藍玉製造まで一貫して行い、藍玉を自ら全国各地の売場に販売し、さらに売場先の国産品を買い入れて京都、大坂、藩内へと交易までも生業とする総合商社のような活動をしています。

 

明治になって備後絣と名付け大阪市場伊藤忠商店に200反を販売し、明治13年には年産11.5万反、44年33万反、昭和元年82万反と生産を増やし、その後は手織機から足踏機、8年には力織機の導入で10年には130万反まで生産しますが、戦争をはさみ衣料品統制規則が廃止されるまで停止します。27年には年産170万反、30年220万反、35年には330万反の最盛期を迎え全国生産高の7割を占めるまでに成長しました。

 

 

昭和30年三井化学工業株式会社と「三井インヂコ」の一括購入契約を結び、翌年には絣木綿織物「備後絣」の文字の商標登録が完了しました。昭和34年(1959)井伏鱒二『木靴の山』のなかで乙女の着る備後絣もほとんどが合成藍で染めた紺絣です。


木綿織物産地と藍 –伊予絣

 治32年(1899)に伊予織物の生産高は70万反余りで全国2位となります。享和年間(1801–1803)に京都西陣の花機を綿高機に改良して、縞木綿の生産を増やし松山縞・道後縞として他地域へ移出するようになりました。伊予絣は藩政時代には今出鹿摺と呼ばれ一部の地域でのみ織られていましたが、明治になると縞木綿より絣木綿の需要が増えます。伊予絣の生産全盛期は明治末から大正年間(1912–1926)で、全国の絣織物の半分を占める盛況ぶりだったと伝えられます。

 

今出絣株式会社村上霽月の親族である村上孝次郎が、明治32年3月に村上洋藍店を開業します。ドイツから合成藍の製造元、馬獅子アニリン・ソーダ化学工業会社(BASF)の特約店として販売を始めました。今出絣の会社沿革に記載された内容は、私が調べていた合成藍の輸入開始年度より一年早く、しかも伊予絣の生産高はその後数年で倍増するのです。続けて調べますと『藍に関する講話』明治36年4月発行の中でも32年に輸入が始まったと書かれていました。

 

1880年に藍の主成分であるインディゴの化学合成にバイヤーが成功し、BASFとヘキストが特許権を取得したときから合成藍の工業化は予想できたことです。1897年BASFによって工業化され量産が開始されました。しかし依然徳島の藍商人たちの意見は分かれ、大方は阿波藍を保守することを選び外国藍を扱うことを牽制しました。新興人造染料取扱い業者が先行する中、量産に出遅れたヘキストより価格で有利な合成藍が開発され、激烈な両社の販売競争となりました。乱売に疲れた徳島では、明治42年日本市場に対する独占販売機関大同藍株式会社を創設し、その後は新たに開発される有機化学染料の商社へと移行していきます。

 

この時の混乱は多くの資料を見ていて分るように、正確な輸入時期の特定ができていません。東京銀座の天狗煙草岩谷松平が初めて輸入したとも云われていましたが、BASFジャパンの沿革年表を見ると「1898年山田商店および柴田商店によって輸入開始」と書かれています。


木綿織物産地と藍 –小倉織 青梅縞

川家康の遺品の中にも名称が見られる小倉織は、藩政時代の武士や他国に流通する銘柄織物として愛用された豊前小倉を代表する特産品でした。明治になっても全国にその名を馳せ、夏目漱石の『坊ちゃん』や多数の文学作品の中にも小倉織の名を見ることができます。

関東の綿織物は江戸中期に始まり限られた地域の農間企業として展開していましたが、高機の導入により幕末にかけて著しい発展をしていました。真岡木綿、青梅縞、結城縞など銘柄織物も知られるようになります。安政6年(1859)横浜港が開港すると良質で安価な紡績糸やインド藍の輸入が増大し、国内の棉作地は藍作地へと変わり、紡績糸を藍で染め新しい技術を取り入れた織物産地が広まります。

 

安政元年(1854)阿波藍総移出量は236000俵で、この頃の江戸への移入は42011俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10000俵の状況でした。明治初年には武蔵国が阿波に次ぐ有数の産地になっています。埼玉県の明治16年(1883)藍作付面積は1078ha、31年には3120haを最高に衰退期を迎えます。

 

明治42年に編纂された『織物資料』には、埼玉県の主要織物の染色方法と染料供給地の変遷が記載されています。

《青縞》始め染料は地藍のみを使用、製織の発展に伴い不足分を阿波藍、明治20年頃よりインド藍、北海道藍を使用。その後藍の需要は年々減少し合成藍の使用が多くなる。

《武蔵飛白》維新までは地藍、阿波藍を使用し、その後北海道藍を大部分使用。明治2、3年頃紺粉。16、17年頃よりログウッドエキス、ヤシャ、ダークブルー、30年以降インド藍、35年頃より合成藍と正藍を使用。今日は硫化染料を採用。

《双子織》始め正藍を用いていたときは地藍、阿波藍を使用。その後インド藍、ヤシャ、鉄漿、紅柄、明治25年頃より直接染料、塩基性染料、酸性染料を使用。明治37年頃から硫化染料が増加して最も多く使用。

《絹綿交織》明治25年頃までは天然染料のみを使用。その後直接染料、アリザリン属、塩基性染料、明治37年頃より硫化染料の使用が7割になる。

 

 

小倉織は新しい染料を導入しないまま、昭和初期にはその生産が途絶えました。明治42年、田山花袋『田舎教師』に登場の青縞はほとんどが合成藍、硫化染料で染められた綿織物になっていたと思われます。

 


日本の藍と明治 - 混合建(割建)という技術

政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基づき、翌年には先行して横浜港が開港、生糸貿易の中心となります。欧米の新しい技術、製品とともに輸入されたインド藍など染料関係は関東から浸透します。そして幕末の混乱から10年経った明治2年(1869)に漸く開港した神戸港に、インド藍や化学染料が輸入されるようになると、西日本の織物産地にも大きな変化が見られるようになりました。それでも京都など一部の需要者によって久留米絣や小倉織、柳井縞など阿波藍を使った木綿織の産地は支持され、阿波藍の需要は西日本の産地にシフトしていきました。しかしその後の合成藍の出現と新しい染料を使う技術の上達で、紺屋にも大きな変革の時期がきました。欧米では急速に天然染料から化学染料に変わりましたが、紺色に思い入れがあったのでしょうか、従来の青の希求から量産にも耐えられる天然藍に合成藍を混合して染める、混合建(割建)という技術を発明してしまいました。

 

明治40年頃から全国の紺木綿織産地の天然藍使用が急激に減少します。紺屋の規模により完全に化学染料になり機械化が進んでいく工場、混合建(割建)を選ぶ工場など変革を迫られ、大方は化学染料と合成藍を受入れる事を選びます。そして新しい青色の新橋色、金春色など純度の高い色が、ハイカラな雰囲気で欧風の感覚だと花柳界から流行色も生まれました。商品の競争にも明暗が生じます。この頃から「藍色」の色名が多く見られるようになり、「はなだ・縹」「花色」「千草」「浅葱」の色名は少なくなります。天然藍だけを選んだ織産地は昭和になるころには衰退します。天然染料だけだった江戸時代には「藍色」の使用は少ないことから、この時期から使われだした「藍色」を当時の人たちは合成藍だと意識して使用し始めたように思われます。

 

 

藍の生産は明治36年の15099haを最高に、明治40年7542ha、大正元年2888ha、昭和元年には502haになりました。日本でも合成藍の製造が行われるようになり、昭和16年40ha、昭和40年には4haまで減ることになります。

 


高原義昌•田辺脩『細菌による藍の工業的還元に関する研究』

治31年に合成藍の輸入が始まり、大正時代になると天然藍は衰退します。消滅しようとしている技術の解明や染色方法の説明も衰えていくのはわかりますが、化学染料の普及が終わると昔の染料への懐古が生まれ、僅かですが日本では天然藍が使われ続けました。転換期にインド藍(藍靛)や合成藍との折合いから、世界でも珍しい割建てという曖昧な技術を生み出し、現場は様々な情報があふれていました。同じように見える藍瓶でも、経営者の仕事の選択によって使われる染料、添加する材料が著しく異なった状態で「藍染」として存在していました。戦後「本物」と称して藍染が注目されたときから、伝えるべき情報が現実から乖離した言葉だけの内容になって、益々混乱したように思います。

 

『細菌による藍の工業的還元に関する研究』高原義昌•田辺脩(1960年工業技術院発酵研究所)による論文があります。藍還元菌の生理形態の究明と醗酵建の菌学的研究です。公的機関での研究は初めてだったかもしれません。「細菌(バクテリア)による天然藍の還元、いわゆる醗酵建は有史以前から行われているにもかかわらず、その実態は全く不明で各地の染色場においては古来からの言い伝えや長い間の経験と‥‥」藍染を行っている現場の管理技術や醗酵時間の短縮など、合理化と染色生産費の低下も見据えての研究だったと思います。研究結果は有意義なこともあったかとも思いますが、残念な結果も報告されています。

 

 

「醗酵過程において細菌や酵母の関与で炭酸ガスと水素が生産されるといわれてきたが、乳酸、ピルピン酸、蟻酸、酢酸の検出による炭酸ガスの発生のみで、酪酸は検出されず水素の発生は認められなかった」と報告されました。このことで酪酸醗酵、乳酸醗酵による水素によって還元するという従来の説を否定しました。藍の含有糖分や麸などの澱粉の糖化作用も否定されています。現在ではどちらの説明が有力なのかははっきりしてきましたが、この時点で後藤捷一氏など従来の原理は支持を得られないことになったように思います。大掛かりな機材を使って、却って醗酵のシステムを考えるうえで混乱が生じました。明治の研究者中村喜一郎は「藍玉濁建」「藍玉澄建」は灰汁を使って説明しています。そして「苛性曹達建」「灰汁建」との区別もしていますが、発酵研究所の試験の藍染は苛性ソーダで行っています。30年藍染をしているだけの微弱な経験からですが、この違いは大変大きいことだと考えます。


中村喜一郎『堅牢染色法』明治22年

治になって化学染料の使用が広まると、化学染料の使用方法が書籍によっても紹介されます。『西洋染色法』明治11年 東京府勧業課『初学染色法』明治20年 山岡次郎『堅牢染色法』明治22年 中村喜一郎など新しい技術の習得に熱心な様子が窺える内容になっています。化学染料と化学薬品は驚くほど早く多くの工場で使用が始まりますが、色の定着や生地の扱いなど従来使っていた天然物との変換には多くの困難がありました。これらの書籍の中には化学染料と並び、化学薬品を使い従来の藍(蒅)の新しい建て方も紹介されています。蒅(すくも)に慣れ親しんでいた職人たちもインド藍や琉球藍、台湾藍(藍靛)の出現で、灰汁に変わるポットアス(炭酸カリ)や曹達、苛性曹達の使用方法もいち早く覚えたようです。

 

『西洋染色法』は西洋の染色技法を齊藤實堯が翻訳した書籍です。藍の使用方法も掲載されていて「菘藍(ウォード)をもって藍玉を製する法」などの項目や、藍靛の染色法についての説明など、長い間口伝で伝えてきた藍の伝授の手続きに困惑も生まれたのではないでしょうか。『初学染色法』には藍建てに薬品を使った還元方法「硫酸鉄建」「亜鉛末建」「亜硫酸建」が説明されています。『堅牢染色法』はドイツの染料会社やヨーロッパ各国の工場を巡り染色技術を習得した中村喜一郎が、技術の向上を図るために実地で染色を行いながら研修した染色指導書なので、いま読んでも明治の染色業の発展に重要な仕事だったことがわかります。

 

藍及び藍染についても多くの解説をしていて、藍玉と藍靛の応用や特徴、染色方法の短所長所も論じています。中村氏は天然染料に対する知識が乏しかったので指導を請い研究したといわれますが、この時の解説から殆ど前進をみなかった戦後の藍の説明に驚愕します。「藍靛硫酸鉄建」「藍靛石灰建」「藍靛アンモニア建」「藍靛苛性曹達建」「藍玉濁建」「藍玉澄建」「藍玉亜鉛末建」の説明にはじまり藍色の染め方、青色を得るシステムは「醗酵作用によりて之を還元せしむか、もしくは親和作用によりて還元せしむかの二種の仕方に基づく」と書かれています。

 

明治以降繊維素材と化学染料は江戸時代まで続いた技術からの転換を成し遂げて、堅牢であり鮮やかな美しさを多くの人たちに与えてくれました。欲をいえば欧米文明を吸収した後もう少し時間があったなら、日本独自の藍の醗酵技術の解明もこの時代の人々ならできたかも知れないと、残念に思うのです。

 


変わった新しい藍色の区別

治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。

 

絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。

 

昭和3年工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)

この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。

 

 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家

 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者

 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者

 「本染」    上村六郎 上代染織史学者

 「古代植物染」 後藤博山 染織家

 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者

 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

 

 

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。

 


変わっていく藍色

以降に登場した青色を染める染料の種類を大きく分類しますと、🔹インド藍など精藍法(沈殿法)で作られた天然藍、🔹ログウッドなど南洋材による天然染料、🔸人造藍とも呼ばれる黄血塩(人造顔料:化学染料)である紺粉、ベロ藍、🔸明治33年(1900)合成藍(インディゴピュア)が輸入されるまでに発見、有機化学の理論によって開発された化学染料です。

 

青色、藍草の異種ごとに製法された染料を表す言葉はそうたくさんありませんので、同じ文字が違うモノを指す場合が多くなるのは避けれません。維新後の混乱と藩政から日本帝国となり、方言、地域内の呼名など混乱もあったかも知れませんが、染料に関してはその後の認識に大きく誤解が生じることとなりました。明治8年(1875)にドイツに留学していた中村喜一郎が合成染料37種類を持ち帰り、染色法の指導を始めます。明治11年には東京府勧業課も『西洋染色法』齊藤實堯の翻訳で欧州の開発した染料、薬品の使用方法などの実用手引きを発行しています。染織技術の急展開の様子が数々の書籍からも窺えます。

 

🔹藍靛(らんじょう・らんてん・インジゴ):インド藍.琉球藍.台湾藍.沈殿藍.

🔹靛藍(てんらん・インジゴ):沈殿藍.純藍.

🔹硫酸靛藍:藍を硫酸に溶かしたもの.靛藍エキス.

🔹水靛:外国産泥藍.  

🔹土靛:外国産乾藍.

🔹泥藍:琉球藍.沈殿藍.

🔹精藍:沈殿藍.精製藍の略.青黛.藍鑞.

🔹青藍:沈殿藍.インジゴ(藍の色素).ブラーウ.純藍.

 

🔹擬紺:ログウッド.南洋材+合成染料.

 

🔸紺青:ベロ藍.ベレインブラーウ.プルシャンブルー.インジゴ.

🔸黄色血滷塩(けつろえん):ベロ藍.ベルリンブルー.チャイナブルー.人造藍.

🔸紺粉:ソルブルブルー.黄血塩.

 

🔸塩基性合成染料:モーブ.

🔸酸性染料:ソルブルブルー.リヨンブルー.

🔸酸化染料:アニリン黒.

🔸媒染染料:アリザリン ブラーウ.

🔸硫化染料:

🔸建染染料:インジゴピュア.合成藍.インジゴ.人造藍.

 

 

*個人的資料に基づいて抜粋しています。


日本の藍と明治 - 新しい技術

国によって他国との商品の競合も少なかった日本に、イギリスから紡績糸と綿織物が輸入されました。慶応元年(1865)の輸入品の79.6%が毛・綿織物と綿糸であり、輸出品の84.3%が生糸、蚕卵紙であるように国産より安価な大量の綿が全国に広まります。

 

明治になると棉栽培地では輸入綿を染めるために藍栽培への転換が始ります。明治31年農商務省吉川祐輝技官によって『阿波国藍作法』の報告が出ることで、藍の栽培法や肥料などの技術面,江戸時代から秘伝とされていた染料(蒅)の加工技術が科学的な成分変化の精細な数字とグラフとで、醗酵に要する日数と発色の変化が明らかにされました。維新になって大分、愛知、福井、山梨、北海道などの要請により個別には藍の技術指導は行われていましたが、これを機に多くの書物で藍作りの技術が紹介されることになります。

 

明治10年代の出版物は西洋の染色技術と従来の染色技術がごちゃごちゃに紹介されています。驚くほど危険な物質も急速に使われ始め、その中にインド藍=靛藍(てんらん)としての染色法は、従来の醗酵による還元法とは違い硫酸で溶かす方法が紹介されています。新しい化学染料、紺粉(ソルブルブルー)や大量の布の染色に多くの紺屋が技術の転換を余儀無くされ、驚くほどの早さで適応していきます。文明開化といわれる状況下での藍の価格の比較です。

 

 

(注)他国藍=地藍=徳島県以外の県で作られた藍


日本の藍と明治 −インド藍

国を解いた日本は西洋の技術力に圧倒されます。日本中を掌握していた阿波藍も世界を制覇しているインド藍との競争に危機感はありました。藍寝床で葉藍を醗酵させ蒅に加工する製法ではなく、短縮化された生産工程を持つコストの安いインド精藍法(沈殿法)を精力的に学び取ろうとしました。

 

明治9年五代友厚は国産の藍がインド藍に圧されるのを危惧し、且つ藍を世界の商品作物にするため政府から50万円の借入を受け、大阪北区堂島浜通りに朝陽館を創設します。蒸気機関を動力とする最新設備を導入し従業員300人で創業を始め、徳島に粗製工場を設けるなどして精藍事業を開始しました。渋沢栄一は明治21年に蜂須賀家、関東買阿波藍商達と小笠原製藍会社を設立します。徳島でも明治20年代には藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が始まり、明治33年には徳島県出身の長井長義博士の精藍法を導入し、製藍伝習所が開設されました。しかし近代日本を飛躍させた実業家、五代と渋沢の取組みも実績が上がらず短期間で解散することになります。当時の関係者は蒅の製法とインド藍の製法は根本的に違うこと、その染色技術も全く違うことに対処せず有効な方策が見つけられなかったように思われます。

 

 

国内の紡績業や綿織物の発展により布帛の需要はますます拡大し、染料は足りない状況でしたので阿波藍もインド藍との競合のうちに、明治31年に合成藍が輸入され始めます。その後大きな近代化・工業化の流れのなか、世界のシステムは有機化学工業が主流となり、インド藍とともに日本の藍も消えていきました。

 


藍草で染めた名称 染料による青系統の名称

で染めた色の名称は唐の時代に律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱がみられますが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別は鮮明でなくなり、各々に使われ伝わる範囲で並立して普遍的な識別には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

 

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代も八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

 

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。

この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。

 

この時から青色に染まる物質藍草から作られる固形のインド藍や泥状の琉球藍と、人工物の黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称と多様な染料と染法が紹介されるようになります。


横浜港開港によって大量のインド藍の輸入が始まりました

末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

 

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

 

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)

         印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)


藍という商品作物–社会の発展とともに

盛期の明治36年(1903)には吉野川、那賀川、勝浦川流域で15099ヘクタールの藍が栽培されていました。当時の県内全耕地面積の約23%、稲作面積の約50%に当たります。藍の衰退によりあっという間に大正末期には水田までが桑畑になり、10240ヘクタールにまで拡大して養蚕農家も4万戸となりました。養蚕が活力を失ったあと沢庵漬加工と大根栽培、奈良漬加工と白瓜の栽培など時代とともに変化するどんな野菜でも栽培し、現在は人参を多く栽培しています。絶えず収益性の高いものを摸索して栽培品種が生まれましたが、変り身のはやさと勤勉さには敬意を表します。土壌の良さも‥‥

 

 

それでは藍の前の品種は何だったのでしょうか?非常に古いことなので記録もありませんが、私は荏胡麻だったと考えています。9世紀以降荏胡麻から作られる灯明油は、全国の社寺や宮廷など貴族社会に浸透し始め生産と販売の流通網がつくられます。徳島では港津「別宮」から「山崎」へと荏胡麻が運ばれている15世紀の記録が残されています。藍の商品作物としての展開は、社会の進展とともに新たな供給先が育ったことで始ったのではないかと考えます。


阿波藍商人見立一覧表から見る明治期の藍の隆盛

両 親、祖父母は徳島の出身ですので、関東で育った私でも少しは徳島のことは知っていました。だけども藍のことなど聞いたこともありませんでした。

父方の祖母はこの眉山の麓で長年暮らし、訊ねますと近くに紺屋があったのは覚えていました。明治31年(1898)に合成藍の輸入が始り、祖母の青春時代には合成藍や硫化染料の全盛期になっていました。(本人は阿波藍だと思っていましたが……)

 

明治憲法下で市制がしかれた頃の徳島は、阿波藍の隆盛がつづき大変活気のある状況だったようです。

 

藍商人の数もおよそ4000人いたと伝えられています。それぞれが格付を競っていた様子を藍商人見立一覧表で見ることができます。 →クリックで大きくなります

 


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