火打石

保2年(1645)に出版された俳論書『毛吹草』には諸国の名産品約1,800種類があげられ、阿波の名産は「材木•ヒジキ•若布•火打崎の燧石•撫養はまぐり(碁石)」と記されています。室町時代から畿内に流通し、すでに大坂問屋、江戸問屋にも移出されている阿波藍が取り上げられていなかったので、品質が他国より劣ってたのかしら? その理由を知りたいと色々調べていました。その作業のなか「火打崎の燧石」も気になって一緒に調べていました。

 

燧石は「すいせき」と云い火打石のことです。阿南市椿泊町燧崎(火打崎)は橘湾南部の半島部先端で、周辺の山地には採掘跡も残り、ヤブツバキの群生地があるかつての阿波水軍の本拠地でした。火打石とは鋼鉄片の火打金に硬い石を打合せて出る火花を、火口に点火するときに用いる硬質の石をいいます。材質は玉髄•チャート•石英•サヌカイト•燧石(フリント)などが用いられました。燧石は非常に硬質な岩石でチャートの一種であり加工もしやすく、欧州では石器時代から使われていたそうです。

 

日本列島で火打石を使う発火法が行われるようになったのは、仏教や新しい技術が大陸から伝来した頃と推測されています。都市周辺では中世から地元産各種石材が使われていましたが、江戸時代になると火打具も商品となり、山城国鞍馬山や美濃国養老の滝周辺の火打石、水戸藩から出荷される久慈川の支流域で採掘された玉髄、大和国二上山のサヌカイト製火打石など火打石の名産地は多く存在します。九州も各地から火打石が採掘され、地名に「火打」がつく場所も多くあり、宮崎県延岡市には火打崎があり石英が層状に入る千枚岩があります。

 

金鉱床や中央構造線には火打石に適した玉髄•チャート•石英などが多く産出します。徳島県は西南日本の地質を二分する中央構造線が通り、吉野川はこれに沿って西から東へ流れています。文化12年(1815)刊行の地誌『阿波志』の那賀郡「山川」「土産」の項に「火打石」「大田井及賀茂出色青如藍採」と記され江戸から明治時代まで盛んに採掘され、徳島藩が盗掘や抜け売を監視する「火打石御制道役」を設け藩の管理下で大坂の商人•沢屋徳兵衛が流通の委託販売を担ったとも云われています。

 

寛政年間(1789–1801)に書かれた『阿州奇事雑話』横井希純「所々奇石」の項に阿南市大田井産出の火打石は「火打石色青く火能く出づ、海内の火打石第一品なるべし、京師。浪花。近国。西国辺皆此石を用い価貴し、‥‥」などと記載されています。大田井産火打石の流通は大坂城下町•京都へ、和歌山城下町へ、九州各地へ、江戸城下町へと流通路が近年の発掘調査から明らかになり、銘柄商品「大田井の角石」として火打石が産出されていた消費地域にも広域に流通しました。大田井の角石は小さな破片になってもなお用いることができ、特別に品質の優れたものであったそうです。

 

 

明治13年の『日本産物誌』に「マッチヲ用イルヲ以テ、大ニ燧石ノ、声価ヲ滅ゼリ」とあり『日本帝国統計年鑑』では明治14年分を最後に火打石の項目は消える事になります。

 


阿波藍の技術移転ー佐藤信淵

品作物が盛んになると農業技術を記録•解説した『農業全書』宮崎安貞『綿圃要務』大蔵永常などの農書が成立し、写本や木版印刷によって広く普及しました。全国各地の篤農家を尋ねる農学者や農業記者も現れ、その土地で行われている農業技術が記録されるようになります。佐藤信淵は文政12年(1829)に『草木六部耕種法』の中で有名な藍の産地を紹介し、「藍葉を作るには阿波国の作法学ぶべし」「藍を作るには阿波の国法を第一とし、筑後国久留米を第二とす」として栽培法•藍玉製法について記していますが、他にも藍玉に砂を混ぜる場合の「錆砂」を阿波では選んで使用していることなども記しています。

 

佐藤信淵は明和6年(1769)出羽国雄勝郡(秋田県)に生まれ、江戸に出てから儒学•国学•神道•本草学•蘭学•天文学を学んだそうです。諸国を遍歴し見聞した事も含め著書は極めて多様で、農学から国家経営におよび、極めて実際的なものから農政•物産•海防•兵学•天文•国学など広範に及びます。「佐藤信淵の言説は虚構が多く、著書の刊行も明治になってからで、阿波に移住した事実もなく、蜂須賀家の公文書などあらゆる記録に載っていない」と森銑三は云い、詐欺師扱いをしています。真相はわかりません。江戸中期以降の徳島藩の藍栽培と製法は、他領•他国へ秘密が漏泄したときの規正制裁は厳重でした。当時の厳しい環境の阿波に佐藤信淵が藩家老集堂氏の食客として、文化5年(1808)から阿波に一年近く滞在したと云われ、実際文化6年(1809)2月に名東郡鮎喰川原で大砲の試射をしたことが記録されています。『草木六部耕種法』の著作前に藍の製造法を視察していた、そして記述され紹介されていた、という特別な扱いがあったことに驚くばかりです。

 

著書が膨大で広範囲なこともあって佐藤信淵の評価は未だ定まっていませんが、展開された理論の中に農政経済論があり思想の動機は、国内の農村の貧困にあったことは事実だったと思います。国内を見聞した信淵には徳島藩に於いて農民による藍という商品作物の展開は、商品経済が発展し流通も拡大していく状況下に、諸藩の政策の思索となったのでしょうか。全国的な規模で封建制度を維持し領主経済の改革に、殖産興業政策の成果をあげ、窮乏を救済する手段を主張することが必要でした。

 

 

『草木六部耕種法』著作後の天保3年(1832)には武蔵国足立郡鹿手袋村(さいたま市南区)に住み、農園を持ち藍作を試みていたそうです。同年に『農政本論』を刊行します。


阿波藍の技術移転ー福井•大分•山梨県

島藩の藍製造法を探るため他国からの隠密や、四国八十八箇所の巡礼者を装った間者の話しは数多く残っています。栽培•製造方法の技術漏泄には厳格な規制のありましたが、明治維新になってから他府県の要請によって藍作の指導教師として赴任も可能になり、赴任地に永住した徳島県人も多かったようです。長く守ってきた阿波の技術を、時流の変革の機会に憚ることなく享受することができたのです。

 

豊後国北海部郡下ノ江(大分県臼杵市)の井沢幸兵衛は、幕末の阿波へ藍の製造法を修業しに来ました。文久4年(1864)に幸兵衛は徳島城下の水師を養成する私立の学校で、佐藤松五郎から「藍作り方伝授書」を与えられています。臼杵に伝わる伝承によれば、四国遍路にでかけた幸兵衛がこの地の藍づくりの活気に満ちた様子を見て、わが村でも藍を栽培したいと、仮病まで装おって懇願し修得したことが『臼杵ものがたり』(臼杵市立図書館刊行)に詳しく掲載されています。事実とは少し違いそうですが、幕末の阿波で他藩の人にも藍作を伝授していた興味深い史料です。臼杵に戻った幸兵衛は土質にあった育苗や栽培を工夫し、近隣の人々に教え藍作は下ノ江から下北、江無田地方まで普及し明治から大正まで盛んに行われたようです。明治32年に井沢幸兵衛の業績をたたえ「生藍功績碑」と刻まれた石碑が、農家の人々の手で建てられています。明治30年の大分県の栽培面積は471町歩(ha)です。

 

明治8年(1875)に福井県吉田郡山東村(福井市志比口町)に移住した喜多新助は、吉田郡の人々に藍種を授け藍の栽培と製造を教えました。新助は天保14年(1843)に、麻植郡桑村(川島町)で藍製造を営む家に生まれます。新助が移住した事情はわかりませんが、地味が藍作に適していて藍作は年を追って盛大になって、明治28年の内国勧業博覧会で協賛功労賞を受けるまでになりました。明治30年には県産を興隆した功績により緑綬褒章を下賜され、吉田郡の人々から「藍業紀功碑」が長松寺の境内に建立されました。明治30年の福井県の栽培面積は317町歩(ha)です。

 

 

阿波郡勝命村谷島(阿波町)の藍師吉田屋の二男片山亀二郎は、山梨県の招聘により藍作の指導教師となって赴任しました。天保4年(1833)生まれの亀二郎は若い頃には京に出て、やはり生家が藍商であった後藤田南渓について南画を学び、勝命村の渓流•菊里谷から号を菊渓とし嘉永5、6年には長崎でも学んでいます。明治以降に家業の衰退により山梨へ移住をしますが、明治30年の山梨県の栽培面積は121町歩(ha)で、40年には1町歩と記録されています。技術移転の調査資料などはありませんが、他にも類似の事象はあったと考えられます。


阿波藍の技術移転ー筑後国

後平野を蛇行して流れる筑後川の流域は、古くから文化が発達し3世紀頃には大集落があったといわれています。久留米は筑後川の中流域に位置し、元和6年(1620)に有馬豊氏が丹波福知山より入国し有馬藩の城下町になります。ここにも「藩主が播磨姫路より藍の種をとりよせて藍栽培を始める」という阿波藩と同じような説話が残り、その後の栽培は「領内多く産出し四方に送る」と『筑後志』(1777)に書かれています。『久留米絣』(1969刊行)の中に「はじめは椿葉(丸葉)或いは藍を栽培していましたが、阿波から上香(上粉)の種を取寄せ、次いで少上香(小上粉)を取寄せ栽培地域を拡大した」との記載があります。

 

史料によれば享和3年(1803)に御井郡北野大庄屋•上瀧茂吉が玉藍を製造したといわれ、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、浮羽、竹野、八女、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。久留米絣は久留米近郊で寛政11年(1799)に始まり、絣の生産が増えるとともに藍栽培も盛んになります。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになります。

 

正保2年(1645)に筑後川の川港の瀬ノ下に久留米藩によって御米蔵が設けられ物資の集散地となり、廻船問屋•松屋は大坂をはじめ西日本各地と密接に結びつき、物産を他国に移出していました。松屋の初代三枝善次郎は甲州出身で、有馬豊氏に随従した武士であったそうです。安永2年–嘉永7年(1773–1854)から六代松屋の家業は発展し、文化8年-明治2年(1812–1869)には国産玉藍御用掛に任命され御用商人として活躍します。20ケ所(領内22ケ所)の藍手配所を支配し、文政10年(1827)には長州藩へ筑後藍を統括して移出していました。文化年間中(1804–18)には筑後藍は他国や大坂、江戸へと移出をはじめ、天保10年(1839)には2683俵(1俵50斤)が移出されています。筑後藍を国外に移出するほど藍栽培が盛んに行われてるこの地域に、文久元年(1861)に阿波藍を1795俵移入していることが記録に残っていて、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされていたと考えられています。

 

 

明治になると久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。着実に生産が増大するなか、輸入染料による粗製乱造で信用を失った久留米絣は、組合によって天然藍の保護と堅牢度を守り、品質と信用を取戻します。久留米絣の染色には地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため、徳島県に伝習生を派遣して藍製法を学びます。久留米絣の生産は明治19年46万反、明治28年85万反、大正期になると100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。明治中期以降はインド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透します。福岡県の藍の栽培面積は明治30年2,062町歩(ha)、40年352町歩、大正2年88町歩となります。厳格に管理していた久留米絣も、明治40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入され藍栽培は衰退しました。


阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。


阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。

 


阿波藍の技術移転ー尾張国

保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城•尾張•美濃が記されていることから、尾張•美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡•丹羽郡•海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

 

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村•津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡•海東郡•海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村•愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

 

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

 

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡•海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培•製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡•渥美郡•八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

 

 

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年に351町歩と激減したのは愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人•地主•機屋•染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

 


阿波藍の技術移転ー武蔵国

喜式(927完成)によれば武蔵国や関東の国々でも調として藍•藍布が納められていますので、この頃には荘園•標野などで藍の栽培が行われていたと考えられます。染織技術の高い地域は古代より開けた土地が多く、自然環境に恵まれ古くから豪族や渡来人が住んでいたことが古墳や出土遺品などで窺い知れます。

 

徳川幕府は江戸に開かれましたが当時から畿内が先進地であり、生産拠点も流通も江戸時代後半になるまで近畿地方が主流であり続けました。関東の木綿生産は18世紀後半から19世紀以降の高機の導入により、限られた地域の農閑余業として展開していた綿業が、新たな綿織物の産地として足利•佐野•蕨•川越•所沢などで興こります。こうした綿業の発展にともない、関東でも地藍生産が成長します。藍作地帯は肥沃で物流に優れた荒川流域の川島•吉見•川越•所沢や、利根川流域の本庄•深谷•妻沼にかけて集まっています。利根川中流域の藍商人、葛飾郡西大輪村(埼玉県久喜市)白石家、樺沢郡下手計村(埼玉県深谷市)粟田家の史料により文化期(1804~)以降、天保期から嘉永期にかけて約3倍増となる急成長も確認できます。『江戸時代人づくり風土記•埼玉』(1995発刊)のなかで、樺沢郡中瀬村(深谷市)河田家の史料に栗原村(久喜市)の紺屋•藤右衛門のところに、病気により逗留した阿波の人から藍の葉の「寝かせ方」を習い、その技術を「下り寝せ」と呼んでこの地方で流行したと書かれています。葉藍の寝かせ方というのは、蒅の製造技術のことで時期はおよそ天明•寛政(1781–1801)ごろだと考えられています。

 

安政元年(1854)阿波藍の他国への総移出量は236,000俵で、幕末の阿波藍の江戸への移出の内訳は48,930俵、関東地藍(武蔵•上野•下野•上総•下総•常陸)は10,000俵となっています。明治初年の藍の生産統計では、阿波についで武蔵が有数の産地とされていて、興隆させようと県の農業指導員の指導のもと、明治23年には阿波藍を試植させ適地の研究もしています。葉藍作付面積は明治16年1,078町歩(ha)、20年代になると2,000町歩に、31年には3,120町歩の最高作付面積を記録しますが、40年には410町歩と衰退していきます。明治40年代に編纂された『織物資料』に記された武州織物の染色方法の変遷をみると、当初は天然染料による染色を基調としていましたが、20年前後になると外国染料(化学染料•インド藍)の導入へと変化していきます。

 

 

明治の社会•経済を牽引した渋沢栄一は樺沢郡血洗村(深谷市)の生まれで、家は藍の栽培と農家から藍葉の買付け、藍玉を製造し紺屋に販売をしていました。藍玉は高価ではありましたが、紺屋からの代金回収には長い時間を要し、原料の藍の仕入れには大量の資金が必要でした。良い藍を育てるには肥料として干鰯•〆粕の購入も必要です。質屋•金貸•養蚕•藍商人として品質管理と才覚を学び、渋沢栄一は商業的農業経営者としての合理的精神を家業から受継ぎました。

 


藍の品種 Ⅱ

『会津農書』 貞享元年(1684)は佐瀬与次右衛門によって書かれた独創的な農業書です。稲作•畑作•農業経営を上中下に分け書いた内容を、農民にわかりやすく和歌に託して啓蒙した歌農書も含まれています。この中に「元禄11年(1698)に阿波国名東郡猪津(徳島市)の住人、仁木三右衛門尉政義、宍戸涼太夫正秀が会津幕内村(会津若松市)に来て藍畑手作したので、其業微細に見て一巻の書に綴り、其あらましを歌農書に記した」という内容が含まれています。一巻の書というのがどのようなものか分りまませんが、中巻の畑作のなかに藍作の記載もあり、藍に関する歌は43首残されています。藍の栽培製造の技術が藩外に漏れることは稀で、阿波藩によって御法度になる前のことだったのでしょうか、江戸初期の阿波藍のことがわかる貴重な資料です。

 

この歌の中に藍の品種のことが出てきます。大がらあい•小がらあい•槐藍•大藍•蓼藍•丸葉•長葉藍の品種名が見られ、会津では丸葉、槐藍、長葉藍を蓼藍といい、阿波では大がらあいを丸葉藍、小がらあいを長葉藍と呼んでいると書かれています。藍は生命力のある草ですので、栽培される環境によっても様々な変化を遂げ、文献による品種名だけで個体を特定することは困難な作業です。

 

藩政時代に栽培されていた品種として水藍 陸藍 菘藍 円葉藍 蓼藍 大藍 丸藍 山藍などが様々な文献に記されていますが、水藍 陸藍は栽培地による区別の呼名で、菘藍 蓼藍は科目の種類です。大藍 丸藍 山藍 円葉藍は蓼科であると書かれています。徳島では平地から山分まで栽培されていましたので、地質に合う良い品種を植える事や自然交配によって品種が増えた時は選別して最良の品種を奨励していたと書かれていますが、藍が商品作物として保護されていたため詳細な図も統一された呼称の説明もありません。

 

昭和25年(1950)に重要無形文化財に指定された千葉あやの氏が栽培していた藍の品種は、阿波では明治期に栽培されていた「縮葉」と呼ばれていた品種でした。宮城県栗駒山という自然環境に適応するため、随分と形態が変化したようで一見では分らなかったそうです。

 

 

*年代の記載に正誤があると思われますが、資料の年代のまま記載しました。


藍の品種 Ⅰ

島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令•賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

十世紀になると『倭名類聚抄』『延喜式』に染色処方も記されるようになります。『延喜式』主計寮には諸国へ庸として乾藍三斗三合三勺が課せられていること、中男作物として紅花•茜•黄檗などの染料も課せられている国が記されています。藍の栽培は律令国家のもと租税の調•庸として中央へ納めるため、急速に各地の荘園に広がります。

 

平安時代の辞書『倭名類聚抄』(931–938)には「多天阿井」タデアイと科目がわかる表記で書かれています。蓼藍には多くの種があり、栽培地により同種のものでも呼名が変わることもあります。律令時代に広く日本列島でも栽培され始め、その後武士の時代には貴族の力が弱り藍が中央に集まることは少なくなります。新しい有力者に保護された藍は鎌倉時代から続く戦乱にも残り、秩序が回復される時まで栽培され続けたのだと思います。『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍と記されていて、京蓼は小上粉のことかも知れませんが、高麗藍や広島藍は如何なる種のことなのか確認ができません。

 

 

和歌山県山間部で大正末に藍作を廃業した人が、大正11年から60年間絶やすこと無く栽培してきた藍が徳島では絶えた「椿葉蓼藍」だったことがあります。椿葉蓼藍は別名「赤茎中千本」徳島県では明治–大正時代まで栽培されてきた記録がありますが、収量•品質•価格において栽培されなくなった品種でした。徳島県の山間部でも小上粉と椿藍との交配品種のような藍が見つかったことがあります。和紙漉きで痛んだ手に使うため家の廻りに自然に育っていたそうです。すでに徳島で見られなくなった青茎小千本などの品種も、もしかしたら何処かで栽培されているかも知れません。


藍商人-❿ 川真田市太郎•徳三郎

政時代に盛んに栽培された阿波藍の起源については、未だにはっきりしていません。戦前までの文献はすべてのものが天正13年(1585)に徳島藩祖の蜂須賀家政が、旧領地•播州から藍の栽培技術を導入したことになっていました。近年では板野郡藍住町•勝瑞城址にある見性寺の文書から、鎌倉時代の阿波の守護小笠原長清の一族が治めていた美馬郡岩倉(脇町)で、宝治元年(1247)に宝珠寺を開山した翠桂和尚が「染葉」で染めた僧衣を着用していた、と記されていたことからこの染葉が藍だったのではないかといわれています。

 

また文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』に掲載された記録により阿波から兵庫北関(神戸港)に、大量の藍葉が荷揚げされていたことが確認できます。藍葉を積荷した湊の一つとして記されていた惣持院の被定地は麻植郡(吉野川市)川田、鴨島など諸説ありますが、何れも古代から開かれた吉野川本流とその支流の江川•飯尾川によって形成された肥沃なところです。文献は存在しませんが、麻植郡から上流の美馬郡までのしかるべき場所で藍の栽培が始まったと私は考えています。

 

麻植郡は古くから大麻•苧麻がつくられた染織技術の先進地で、記録に残る藍栽培も早くから始まり藍商も紺屋も多く輩出しました。関東売仲間には阿波屋勘三郎•藍屋五右衛門、石原六郎•須見千次郎など明治の産業転換期に活躍した藍商がいました。明治42年に阿波藍移出の第一位だった本家の川真田市太郎(2,841俵)、分家の徳三郎(6,632俵)の川真田一族は、藍商人としての進出は遅かったようです。川真田徳三郎が徳島城下の船場に進出したのは安政2年(1855)で、魚肥•阿波三盆糖と阿波藍を取扱い幕末の激動期に藍商として活躍します。五代市太郎は藍の品質向上のために製作試験場を自宅に設けたり、明治9年の名藍社設立の中心的な役割も果たしました。阿波国共同汽船、徳島電燈会社、徳島鉄道会社の設立に参加し社長などとなり多方面の実権も握り、二代徳三郎は第一回衆議院議員となりました。明治31年に大阪北堀江に阿波藍株式会社を設立し大阪へ藍を移出する中心とし、その後は藍商から化学薬品商社への転進を図ります。

 

明治末期の麻植郡では没落する藍産業に変わって生糸生産への大転換がなされ、藍商人の蓄積資本の一部が製糸業に投下されたといわれています。

 

 


藍商人-❾ 藍屋嘉蔵

村家が藍屋嘉蔵として藍商活動を始めたのは17世紀中期ごろですが、六代嘉蔵が文化•文政時代(1804–30)に大坂売場株•玉師株を取得して藍商人としての基盤を固めました。急速に発展したのは幕末維新期に特権的藍商が経営を崩壊する動乱の中、九代嘉蔵のとき筑前•肥前売場株を取得し九州に進出をします。明治5年(1872)の玉師株•売場株廃止により藍の製造も販売も自由になったことで、6年には江戸深川町に東京支店を開設し相模•武蔵•甲斐•信濃•駿河も市場とします。

 

筑前•肥前市場には持船の「若宮丸」で阿波藍を移出し、筑前米•麦•菜種油•博多帯•久留米絣など諸産物を移入します。「若宮丸廻船規則」によると堂浦(鳴門市)の米田熊之助が沖船頭を勤め、本家の権限と沖船頭の裁量権を規定していて、廻船経営の内容が示されています。明治10年(1877)の西南戦争以後、14年の松方正義デフレ財政の時期に、所有農地を10町歩ほどから35町歩に急速に増やします。12年には酒造業を始め、20年には肥料店舗を開設して経営の多角化を進めます。東京支店にも肥料部を置き、北海道産の鯡粕•米穀•大豆•満州大豆粕を関東•東北地方に販売を始めます。インド藍、続いて化学染料輸入が主流となり、大量染色の普及が始まる前に肥料商として経営転換することで、近代的な企業経営へ切り替えることができました。時代の変動の中で拡大した奥村家の経営は、豊かな情報収集と情報の活用ですばやく時代に順応する柔軟性が優れていたといわれます。

 

太平洋戦争中の幾多の困難から戦後は奥村商店として営業を再開し、昭和25年に肥料の統制が撤廃されると肥料の取扱いを再開します。営業品目に農薬を加え、三井リッチ配合肥料特約店として関東•東北•山梨•静岡地区への販売を始めます。現在は製造部門を埼玉県岩槻市に持ち有機•無機配合肥料を製造•販売し、販売部門では肥料卸業者として、物資部門では農業用肥料以外の関連商品と健康食品•家庭園芸用品とやまか糸わかめの販売を行っています。

 

 

昭和62年に大藍商の豪壮な屋敷を板野郡藍住町に寄贈し、観光施設「藍の館」として公開しています。十数万点の奥村家文書と文化5年(1808)創建の母屋•土蔵•東門•奉公人部屋•西座敷•寝床(藍製造場)など13棟の建造物があり、奉公人部屋からは当時の労働者の厳しい環境が窺えます。各建造物の創建年代と工事の詳細や建築経費が記録された資料も保存されています。


藍粉成し

「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東•名西•麻植•板野•阿波•美馬•三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。

 

「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板野の村へ 夏の土用に 藍こなし」古くから伝わる民謡からも、夏場の藍作農家は臨時の労働者を雇っていても、大変な忙しさであったことが想像できます。

 

現在でも夏の陽射しのなか一気呵成の一連の作業は、延々と続くかと思うほどの葉藍を刻むことから始まります。朝刈り取った葉を細く刻み、風によって葉と茎とに選別してから、からからに乾燥させます。かつては多くの人々の手で唐棹で縦横に打ち叩いたり、藍摺板という道具で葉を傷つけながら、その間に竹箒で上下に反転させて充分に乾燥させていました。傷つけることで汁が空気にふれ酸化したり、寝せ込みのときに水分が吸いやすい状態となり、藍草の主要な青色色素•青藍(インジゴ)を含んだ上質の藍を得ることができます。

 

 

近年は藍作人の工夫と他業種の道具類を駆使して、人手の少ないなか大量の葉藍の処理作業に最善を尽くしています。大量の葉藍が広い敷地いっぱいに広げられている景色は、藍草が染料になるために必要な時間と自然の循環過程、先人の最善周到な技能を思わずにはいられません。気温が冷える秋の彼岸の頃まで、乾燥した藍はしばらく保管されます。すでにインジゴは存在している乾藍ですが、今度は約100日間という時間のなか、繊維醗酵させることで完全な藍の染料に変化します。藍染の染液を作る方法である醗酵建てをするために必要な、藍還元菌をより多く含まれた状態にするためこの作業が生まれたのだと思います。


手板法

政時代に阿波藍を他国に移出できたことの一番の理由は、品質が優れていたからです。高価格でも染上がりが優れていたため、他藩から「移入制限」「移入禁止」政策が取られてもほぼ反古になり、紺屋から支持され阿波藍を移入することになりました。卓越した品質は藍玉製造者(玉師)の努力と工夫の積み重ねから得られたわけですが、毎年大坂、徳島で開催した「藍市」が玉師の技術向上に大きく寄与しました。いわゆる品評会であり、藍玉の等級を決めるため大坂•京都•江戸の問屋仲間など関係者が、手板法により鑑定し投票が行われました。「天上」「随一」に選ばれた生産者(藍商)には、その年の最高品質の名誉が与えられ藍玉相場の基準となり、御祝儀相場と宣伝と競売会も兼ねていました。

 

藍分などを科学的に測定する技術はまだありませんので、品質の優劣を判別するのに阿波では「手板法」といって長年の経験と勘を頼りに肉眼で鑑定する検査法を用いていました。

まず少量の藍を左の掌上に乗せ水を加え「竹べら」でよく練り合わせ、親指で力をこめて練ります。餅のような練藍になるように繰返し練り、固い餅状となる間の掌上の感触や勘の働きで、藍玉の染力を推測し醗酵のし易さを感知します。練る過程で出る灰汁の多寡で、粘着性や弾力性を判断して大体の「値頃」を踏むのです。

それから練藍を球状に揉み、掌中に水を加え練藍を研くと濃厚な藍液ができます。この液の状態と球状の練藍を紙面に押捺し日光に透かして、藍の色相・濃度などを判断します。この時使用の紙は年数の経った、薄様紙の加賀半紙が手板用紙として決められていました。 

 

 

青味のものは色は綺麗ですが質が劣るといわれ、赤味のものは色は汚いけれども、醗酵が早く、藍建てがし易いので「赤口」とも呼ばれ良質だと紺屋側では喜ばれたといいます。手板法で品質を判断できるようになることは大変重要なことで、一人前になるのに5年はかかると書かれています。この時代の藍取引では手板は製藍(玉師)・取扱(藍商)・消費(紺屋)のいづれもが、必ず身につけていなければならない鑑定法だと伝えられていました。明治になり徳島県庁で手板法と、農商務省の化学定量分析法とを競合させたところ、双方全く一致したことを官報で報じていたそうです。

 


水師学校 犬伏久助

の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。

 

初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年•1758–1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した‥‥と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。

江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培•蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。

 

『阿波藍譜』「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転しその名を不動のものとしました。


住吉大社と海上運送

島市勢見の金比羅神社は九メートル余りの石灯籠で日本一といわれるくらい立派なものですが、同じく藍玉大阪積株仲間が大阪住吉大社に寄進した石灯籠も見事な一対です。天保2年(1831)に献灯され「永代常夜燈」頼山陽:筆と書かれた石標もそえられ、北参道一の鳥居の右奥にあります。海上守護の祈願をこめるとともに、広告塔としての意味合いもあったといわれる名筆石灯籠です。住吉大社は全国約2300社の住吉神社の総本山で、藍商人や海上運送の関係者の崇敬を集めていました。石灯籠も藍商以外で撫養(鳴門)、那賀郡などの廻船業のものが見られ、当時の海運関係の繁栄が想像できます。境内には様々な地域から寄進された石灯籠の数が大小あわせて約620基以上も残されていて、元禄年間(1688–1703)以降に奉納されたのものが圧倒的に多く、各業界の石灯籠からも大坂を中心に商品が活発に流通していたことや、貨幣経済や町人階級の経済発展の様子がわかります。

 

藍商人たちは全国の売場へ海上運送で藍玉を搬入し、問屋経由で仲買が紺屋へ売りさばくのですが、売場先では相互協調のため仲買は京都在に得意先を持つ者同士が祇園講、大和売が春日講というように仲間を結成していました。そして祇園講は八坂神社、春日講は奈良春日明神へ常夜灯を寄進しています。同業組合のような株仲間が信仰を軸に展開しているようにも窺えます。

大坂販売機構は古来からの由緒•実績•慣例があり大変複雑で、幕府の保護もあることから藍商人とは紛争が尽きませんでした。大阪四天王寺勝鬘院多宝塔に安置している愛染明王の信仰を軸に、大坂問屋と徳島問屋と仲買の利害関係の協調機関に愛染講があり、阿波藍師と大坂仲買•愛染講との相互援助機関ともみれる記録も残されています。天保14年の天保改革によって株仲間解放なども経て、明治10年頃まで存続していたようです。

 

 

伊勢神宮参拝の「伊勢講」住吉大社内市戎の「信心講」讃岐金刀比羅宮の「金平講」などは、商売繁盛の祈願と同業懇親とを目的にした利害関係のないものもあったようです。


金比羅神社と海上運送

の神として信仰された松尾大社は全国の醸造家から信仰の篤い神社です。藍関係者が信仰した独自の神は特定されていませんが、愛染明王信仰が「愛染=藍染」と解釈して守護仏として信仰されています。真言密教の盛んな阿波ですが特定の寺院はなく、愛染明王を藍寝床のある建物に安置して蒅作りの成功を祈願していました。苗床作りから、種蒔き•植付け•刈取り•蒅作り•出荷に至る過程の節目には民俗信仰が見られます。紺屋が愛染明王を信仰した理由として、明王の三目六臂にあやかりたい願望があったといわれ、煩雑な仕事の多い紺屋らしい願いがこもっています。

 

藍商人は海上運送の無事と繁栄を祈願するために、全国各地の住吉神社、金比羅神社へ盛んに訪れていました。大阪住吉大社、広島厳島神社、香川琴平金刀比羅宮、徳島勢見の金比羅神社には藍関係者が奉納した巨大な石灯籠や狛犬、玉垣などが寄進されています。金刀比羅宮の登り口にある「金陵の郷」は藍商•野上屋の西野嘉右衛門が「酒造株」を取得したことから始まり、大御酒として親しまれています。野上屋が寄進した石灯籠も、旭社への途中の広場へ登ったところの石段の左側にあります。五人百姓の広場横の参道の左右には「阿波藍商人」寄進の玉垣も並んでいます。玉垣に刻まれた藍商人は、久次米兵次郎、三木與吉郎、久米曽左衛門、元木平次兵衛、手塚甚右衛門など関東売藍商の名前が多く見られます。

 

 

南神苑の近くに阿波町の名称が残るのは、阿波国の人たちとの商売のための町といわれ、阿波より大勢の人々が金刀比羅参詣で訪れていました。南神苑の前の道は阿波箸蔵寺へ続く旧阿波街道の金毘羅口で、阿波からの参詣客は金刀比羅宮奥の院と呼ばれる箸蔵寺も併せて参詣することが多かったといいます。金刀比羅宮は江戸時代、金光院金毘羅大権現と称していて神仏が同体であるとする信仰でありました。明治初年の神仏分離令で金刀比羅宮となり神社に変更します。金毘羅の語源は梵語のクンピーラでその音訳です。クンピーラはガンジス川にすむ鰐が神格化されたもので、中国では金毘羅竜王と称し、日本では金毘羅大権現となり海上守護神として信仰されることになります。空海が建立したと伝承される箸蔵寺の本尊も金毘羅大権現です。

 


藍玉と蒅

『和漢三才図絵』 正徳2年(1712)の中に藍産地の優劣が書かれています。京洛外が一番良く、次が摂州東成、阿波、淡路となっています。ここでの評価の基準は判りませんが、京蓼の浅青は美しいとの記述があります。記されている藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍、刈り取った葉を揉み藍と藍玉に加工する仕方も書かれています。三才図絵が出版される前から阿波藍は全国に販売網をつくり、大坂•江戸問屋の開設も済ませ、藍の栽培•製法の秘密は非常に厳格になり、情報が他藩に知れることは御法度でした。記載されている揉み藍も藍玉も阿波の製法より簡易な方法と思われ、醗酵の日数も形状も初期の藍の作り方のようです。江戸時代になり政治が安定して産業が盛んになってきても、藍の製造や染色の技術についての記録は極めて少なく、明治になるまでの長い間機密保持がいかに徹底していたことが分ります。

 

いつ頃から現在の蒅と呼ばれる形態の染料に、加工されるようになったのでしょうか。天文10年(1541)頃、上方から青屋四郎兵衛が阿波に来て、新たな藍染めの方法を実践して米を手に入れた。と『みよしき』に記されていることの解釈として、米蔵が建つほど栄えたのは藍瓶を加温する設備を整え、初めて藍染めの仕事を一年中行ったとする説と、米蔵とは藍を醗酵させる寝床と呼ばれる建物なのではないか?との説があります。記載されている文章を読む限りどちらとも判断できる内容ではありませんが、なんらかの発展があったことは確かだと思います。藍の葉は乾燥した状態でも長く保存していると、虫が涌くこともありますので、割と早い内からに三才図絵に書かれているような揉み藍•藍玉の状態までは、どの地域でも加工していたと思われます。阿波ではもう一歩進んだ醗酵をこの頃には始めていたと思いますが、何と言っても資料が何もありません。16世紀の阿波は三好長慶が室町幕府の実権を掌握していて、堺の港に阿波から大量の藍を運んでいました。堺は国際貿易港として多くの人たちの交流があり、武具・馬具を扱う商人が藍を必要としていたため、藍を取り巻く環境にも技術革新があったかも知れません。

 

 

資料に残る藍栽培面積は、明暦–万治期(1655–1661)には数百町歩、元文5年(1740)7郡257町村で2994町歩が栽培されています。(1町=0.99ヘクタール)栽培面積の増加の様子から、他の産地より蒅の品質が優れていたことで、商品作物として支持されが全国に広がりました。参考までですが、明治30年(1897)埼玉県における最盛期の武州藍の栽培面積が3028町歩です。

 


藍と型染

の平常服として江戸時代になると裃の需要が多くなり、型染の技術が飛躍的に精巧になりました。この頃から片面糊置きの布に、刷毛で染料を引いて染める小紋染めの技術も行われはじめます。他の染料とは違い藍の裃小紋は何度も瓶の中に浸すので、糊が藍の液の中で落ちたり、くずれたりしない配合を天候に合わせ日々変えながらつくり、図柄を表と裏の両面から型を付けます。表にだけ柄を付けて染めると、裏は藍の無地になりますので高度な技術が必要とされていました。

 

型染の発祥時期はわかりませんが平安末期の鎧の革染めに型紙を使用した例があり、革を染めたのなら多分布も染めたと思われますが、現存する布はありません。上杉景勝所用と伝えられる「紺麻地環繋ぎ矢車文鎧下着」の小紋帷子(米沢市・上杉神社所蔵)などをみていると武士に愛用され技術が発達したように思われます。

 

応仁の乱(1467–77)で京都の町が荒廃したとき、京都の型彫職人たちが移り住んだ伊勢で生産がひろまり、その後江戸、会津、越後、秋田、青森、仙台などに型紙産地ができました。京都では紺屋の多い堀川筋に型紙を彫る型彫師、生地に糊を型付けし染め上げる型付師が、染め屋に直属して隣接していました。一方伊勢では白子•寺家の型紙生産者である彫師と型売業者は江戸に進出し、紀州藩の保護をうけ全国に型紙を売り歩きました。宝暦3年(1753)白子•寺家の両村の型屋は138軒あったといわれます。木綿が庶民の間で普及した江戸時代後半には、江戸好みの粋でしゃれた江戸型紙が生まれ、紙の型と防染糊によって洗練された文様が盛んに作られました。

 

型紙は紺屋の道具でもあり 使い古した型紙でも大切にしていました。伊勢型紙が全国各地に売られている様子から、紺屋が村々まで普及して中形と呼ばれる藍の着物を染めていたのです。

 

白子•寺家の両村の行商国名に記されていないのは阿波、大和、京都だけでした。


藍商人-❽ 鹿島屋甚右衛門

伊国熊野(和歌山県)あるいは播磨国高砂(兵庫県)の出身といわれる寺沢家は、蜂須賀入国以前から小松島で流通を支配する藩政初期からの豪商でした。勝浦川•那賀川下流の番所を任され、魚屋とともに阿波藩札を任されるなど重要な御用達商人でもありました。寺沢六右衛門と井上助左衛門は縁戚となり、井上家は寺沢家の分家になります。鹿島屋初代井上甚右衛門は、寛永年間(1624–44)から自ら船に乗り廻船業を営み、4、5艘の大船を持つ成功を治めたといわれます。寛文年間(1661–73)には駿河国沼津に支店を置き染店を開き、沼津を拠点に駿河•伊豆•相模•甲斐•信濃に商圏を広げ、その後も中国•九州への販路拡大をはかります。

 

鹿島屋の商業関係の資料の多くは安政の地震にともなう火事により殆どが失われ、後の伝聞的な記録によるといわれています。家法には先祖より商業の中心は阿波ではなく沼津(静岡県)など国外で商売をすること、資金は本家に集め親類を含めた合議制で家を運営すること、質素倹約を守り先祖崇拝など細かな決め事が中心で封建的な内容でした。戦前の財閥の先駆的な形といわれるように、分家別家の資金までも勘定に細かく計算され、商業者の理念を独自につくり出すことで合理的な家内の制度や組織をつくりました。鹿島屋の勘定は、本支店間の貸借りにも利息がつくなど徹底していて、為替のやりとりも頻繁におこなわれ現在の商社のような商業組織でありました。

 

阿波で商売をしない鹿島屋は沼津本店を中心に、早い時期から藍玉•塩•米穀などを扱い、味噌•油•染店•質物•貸金などと広範囲の商業活動をしていました。他にも三島店では飛脚問屋を営んでいて、陸上流通にも関わっていたようです。地域の染店経営者に対して株を発行し、藍瓶などの道具類を貸して商売を営ませて原材料である「藍玉」を販売するという、現在のチェーン店方式のような強固な商圏を作り上げていました。鹿島屋は藩による売場株が設定された後も振り売りの自由な販売を行っていましたが、幕末には藩の体制に組み込まれることになります。

 

天保11年頃に五代甚右衛門のとき那賀川河口の三角州である辰巳新田の開発をはじめますが、苦難苦闘の開拓事業でした。すでに駿河や伊豆の出店周辺では質地地主となっていましたが、徳島藩領内でも巨大な金額を投じて123ha余りの新田地主となります。

 

幕末の激動の中で藩に忠誠を尽くした九代甚右衛門は、戦費調達の中心人物として兵糧米を上納し、輸送などにも活躍します。この功績から藩所有「戊辰丸」の徳島–東京間の運航を命じられ、藩内外の諸物産の交易事業を行います。阿波藍商人による「大規模流通組織確立」を独自で構想しましたが、明治新政府による三井組を中心とした東京通商会社によって、全国的な商品流通が組織され明治4年の廃藩置県によって実現されず海運事業は消滅しました。明治5年に蜂須賀家から戊辰丸を3万両で購入し「鵬翔丸」と改名し阿波藍•静岡茶•鯡粕の輸送をはじめますが、明治14年陸奥国三戸で激浪により沈没しました。幕末の全国版•長者番付の前頭にも名を載せた、藍商•鹿島屋甚右衛門はこれが引き金となり没落します。


藍商人-❺ 遠藤宇治右衛門/阿波屋吉右衛門

商人の中には全国の売場へ出かけることも多いことから、遊里での「大尽遊び」で有名になった人たちもいたり、浄瑠璃『伊勢音頭恋寝刃』のモデルにされたこともありました。徳島の芸事好きはこの時代の影響があったかも知れません。天明期(1781–88)ごろ大流行した狂歌の門人として遠藤宇治右衛門が藍商人の経済力を背景に狂言師として活躍しました。

 

遠藤家は阿波藍商としては初期の寛文期(1661–73)ごろから活動をしていました。関東売藍商として阿波屋吉右衛門と名乗り、享保4年(1719)の関東売36人の中にも指定されています。本八丁堀三丁目に出店を持ち江戸•武蔵を売場にしていました。文政7年(1824)刊行の『江戸買物独案内』に藍玉問屋として掲載されていますが、文政12年(1829)江戸の大火で八丁堀の店が類焼したあと、天保15年(1844)の株仲間解放令後の史料の中には阿波屋吉右衛門の名は見られなくなり、関東売廃業以降の藍商としての経歴はほとんど伝わっていません。

 

遠藤宇治右衛門は20歳のころから古典に親しみ和歌を詠むことをはじめ、文化7年(1810)29歳のとき六樹園宿屋飯盛(石川雅望)に入門します。石川雅望の居宅と江戸店が近隣であったともいわれていますが、本格的に文学活動をはじめ、当時一流だった六樹園宿屋飯盛と共に活動ができるほどになりました。六樹園の師でもある四方赤良(太田蜀山人)と面識ができて、平田篤胤•式亭三馬•十返舎一九•滝沢馬琴•菊池五山などとも交流し交遊を広げていきます。

宇治右衛門は六々園春足の名で『白痴物語』という見聞集や全国から募集した狂歌『猿蟹物語』を出版しています。阿波に六樹園を呼び阿波狂歌壇の指導をするなど、阿波の名所を巡歴した記録が軸物として残されています。

 

 

六々園春足の晩年期は阿波国内の豪商農の間で俳諧•狂歌を趣味、道楽とすることが流行しました。藍の生産量も拡大した文政•天保期は狂歌の全盛期で、阿波藍の隆盛は商人たちの諸国への巡回の旅でもあり、他藩の人たちとの交流による文化的現象が盛んに行われていたのでした。


藍商人-❹ 三木与吉郎 

木家の祖は播州三木城の別所長治の叔父の子別所規治で、秀吉軍によって三木城が落城した後、中喜来浦(徳島市松茂町)で帰農し三木与吉郎となったといわれます。蜂須賀家政の阿波入国後、大坂冬の陣に蜂須賀至鎮が出陣した時の阿波水軍として規治らも従軍し、その時の功績で中喜来浦は三木規治一族によって開拓がなされたとの史料が残ります。

 

二代与吉郎が阿波藍の取扱いを始めますが、漁具•米穀などの一部としての販売で、藍専業となるのは七代目になってからです。藍屋与吉郎と名乗り寛政9年(1789)江戸本材木町に支店を置き、次いで淡路洲本•播磨姫路•龍野に支店を開き、享和2年(1802)に関東売場株が設定されたときには株仲間となります。阿波藍商としての基盤ができ、八代目は売場先を武蔵•相模•下総•常陸•下野に拡大し関東売に集中します。嘉永5年(1852)三木家が江戸へ移入した藍玉は5,080俵で江戸積仲間で一番多く、多角的な経営と廻船を保有する大藍商になりました。

 

三木家は維新期になると飛躍的に活躍します。明治3年(1870)に開拓使より北海道産物会所御用達、徳島藩の商法方御用掛•為替方御用掛頭取を命じられ、8年には精藍社を組織し、9年には関東売場出店28店で栄藍社を発足します。十一代与吉郎は明治23年(1890)第一回帝国議会貴族院議員に選出され、久次米銀行が休業した際の整理を西野嘉右衛門と共に行い、関西部を継承して阿波銀行が設立されると頭取に就任します。

 

インド藍が開国後横浜港に輸入され始め、明治27年(1894)ごろから急増します。第一次産業革命の進行による機械染色に対応する条件はインド藍が優れ、関東売藍商の危機意識は高くなります。阿波藍純血主義との対立のなか、時代の流れに即しインド藍の取扱いをはじめ、次第に化学染料=合成藍の輸入販売も開始します。明治43年にはドイツのカレー染料会社の硫化染料の独占販売権も獲得し、新しい技術によって生産される輸入染料の営業活動に進出します。阿波藍の販売から始まり化学染料と工業薬品へ、現在は三木産業株式会社と改名し染料•色化部門•化成品部門•合成樹脂部門•国際事業部門と技術部門を置き、常に時代の流れに対応し変革しています。延宝2年(1674)創業以来「染料」とともに、300年以上に渡っての歴史を築きました。

 

 

十三代与吉郎と後藤捷一両氏の編集により『阿波藍譜•栽培製造篇』『阿波藍譜•精藍事業篇』『阿波藍譜•史話図説篇』『阿波藍譜•史料篇(上中下)』を刊行し、阿波藍に関する諸統計や三木文庫所蔵の史料目録の刊行など、藍の研究に欠かすことができない貴重な史料を残しました。三木家の文化事業は、近代化学技術史を考察するための資料として大きな貢献をしています。

 


藍商人-❸ 志摩利右衛門

摩家の祖は河野氏の一族、越智氏といわれ藩政初期のころ東覚円村(石井町覚円)で藍作をはじめました。三代の間に田畑を大きく増やし、4代目から伊勢と尾張に売場を設け、藍を移出した帰りには他国の商品を仕入れ国内で販売も行いました。

 

六代目の志摩利右衛門は幼少期に父母を失い、15歳になると藍商の家業を継ぎ驚くべき商才を発揮したといわれます。文政7年(1824)に信州松本の城下に支店を置き、9年には出羽米沢にも支店を開設して秋田まで販路を拡大、10年には越後から東北一帯にまで販売網を拡張しています。文政11年、京都三本木町に支店を開き京都の藍市場の足場を固めます。翌年には四条通りの御旅町にも支店を置き阿波名産「煙草」の専門店をはじめます。このとき20歳の志摩利右衛門の積極的な経営戦略は、類稀な情報収集能力であったといわれています。

 

米沢藩では上杉鷹山による藩政改革で、養蚕•製糸•機織りが盛んになり米沢織が軌道にのると、紺屋の技術水準が低いことを聞きつけ城下で藍玉を販売します。さらに紺屋を併設し城下の紺屋にも藍染技術を伝授したそうです。米沢で経営基盤が盤石になると会津若松•仙台•庄内•本庄•山形と売場を拡大したのです。

 

商才だけではなく、天保期の徳島藩の財政改革を成功させ経済官僚としても活躍しています。藩債整理が軌道に乗り始めると次は斎田塩をめぐる制度改革を行い、藩の統制下で専売制を完成させます。塩の次は阿波三盆糖、半田漆器の販路開拓を依頼されたことより地場産業の江戸進出を実現します。

 

 

全国31ケ所の売場を持ち、京都•越後高田•信州松本•会津米沢の支店を経営する、その商業活動は驚異的であり、当時の販売体制の中でも独創的でありました。そして京都での頼山陽や当時の知識人たちとの文化交流によって見識を深め、卓越した経営手腕と自由主義的な経営思想をもった経済人でした。俳諧•書画を好み、尊王攘夷運動、自由民権運動に関わる人々を支援し、明治維新を切り開く若い才能を育てた人でもありました。大政奉還後は藍師株の制度を廃止して自由な営業を勧め、冥加銀も廃止するなど商業活動の近代化を目指し大改革を進めます。廃藩置県後の商法方改革後に職を辞し明治17年76歳の偉大な生涯を終えます。

 


藍商人-❷ 島屋六兵衛

屋六兵衛の祖は慶長年間(1596–1614)に土佐から小松島に移住した森庄左衛門で、その後阿波藩札の座元人で豪商寺沢六右衛門と縁戚となり、藍商の手塚分右衛門とも縁戚をつくり寛文年間(1661–1672)に初代島屋六兵衛となります。

 

元禄期(1688–1704)には城下にも進出して支店を置き、自前の廻船を使い「直売」「振売」商法によって阿波藍と肥料を取扱い活躍します。享保16年(1731)には播磨売場にも藍を移出販売し、寛政11年(1799)には徳島藩より干鰯平問屋に指定されました。

天保2年(1831)には板野郡で藍の製造部門も開設します。そして東播磨•丹波•丹後にも売場を拡張し、嘉永6年(1853)には江戸に出店を持ち関東売場株を6千両で譲り受け江戸•武蔵•上総•相模も売場とします。幕末•維新期の関東売藍商では「野上屋」西野嘉右衛門に次ぐ阿波藍取扱い量となりますが、開国後はインド藍の取扱いもはじめます。阿波では依然「他国藍」「外藍」は取扱わない状態でしたので激しい対立を招くことになります。

 

明治3年(1870)には大量の藍玉を出荷するため、1000石積みの船4艘を買入れ撫養(鳴門)を母港として瀬戸内から下関を経由する北前航路によって、各地との交易を拡大し北海道から鯡粕を大量に輸送することになります。明治20年には肥料売買業を開始し、満州大豆粕•チリ硝石•インド骨粉などを直輸入し、その後は化学肥料の生産も行うなど肥料の変化に積極的に対応します。藍作農民のことを十分知抜いた「島屋=森六」の商法は幾多の困難も乗り切り、明治–大正–昭和と肥料商としても経営を拡大しました。

 

 

森六の事業は藍だけに留まらず、時運と共に多彩で転換も早く、絶えず時代を先取りする精神を持ち発展させてきました。肥料•醤油醸造業•豆粕製造業•木材、日露戦争後には朝鮮農場の経営と朝鮮•満州•天津の事業にまで及びました。昭和20年(1945)の敗戦後、それまでの経営体系は全て崩壊しましたが、22年に徳島機械製作所、23年に森六食品工業株式会社、三井化学工業と塩化ビニール、ポリエチレン•ハイゼックスを製造し本田技研工業へ納入します。61年にはホンダとアメリカ進出も同行し、化学部門•精密化学部門•合成樹脂部門•生産部門と研究開発部門をもつ複合企業となりました。現在は森六株式会社と改名し、寛文3年創業の阿波藍(天然染料)から合成染料へ、石炭化学•石油化学へと日本の化学工業近代史そのものの長い歴史を貫き通しています。


藍商人-❶ 久次米兵次郎 

波藍商の栄枯盛衰を象徴する存在として語られることの多い久次米兵次郎ですが、久次米家の祖は大江広元といわれ、関ヶ原の役で毛利家敗軍によって蜂須賀家政の阿波入国の際、家臣益田氏の下移住したと伝えられています。撫養塩田の開発を勤めた後、海部城へ入りましたが益田氏失脚で帰農しました。

 

名東郡新居村に移住し藍商人として江戸では大坂屋庄三郎、大坂では米津屋庄三郎として活躍します。現在は吉野川の河川敷となっている北新居村(徳島市不動北町)で、約4ヘクタールの敷地に分家九軒と共に豪壮な屋敷群を構え阿波藍商の財力を示す威厳を誇っていたと伝えられます。元禄期(1688–1704)には江戸にも基盤を固め、その後享保4年(1719)には関東売藍商36人の中に指定されます。江戸店(京橋八丁堀)550坪に隣接する紀国屋文左衛門の遺宅を買取り、木材業に進出したとの伝承も残りますが、元文年間(1736–1740)には藍商だけでなく木材商としても大坂屋庄三郎の名が残っています。かつて益田氏失脚の原因にもなった海部郡の木材を江戸に流入したことや、その後の深川木場に大きな勢力を持つ徳島木材業者の先駆となったことからも、林業地帯の情報と技術にも熟知し木材の産業化にも大いに貢献しました。

 

阿波藍商としての久次米家の活躍はめざましく、大坂では河内木綿や和泉木綿などの染料として広範な得意先を持って経営をしていました。米津屋の傘下として藍玉を出荷する藍商と運命共同体を形成し、大坂市場の情報発信基地を兼ねるなど、藍商たちの経営にとっても巨大な存在でした。

 

五代兵次郎が組頭庄屋だった宝暦13年(1763)に、藩の問い合せに返答するための文書で「藍は毎年生産高およそ14、5万俵を諸国に販売し、1俵2両ほどで取引されていて、大坂売は銀3~4貫で売却し総額は金30万両ほどになる」と商況を伝えるなど、藩からも信頼され藍行政の指導的な立場と待遇が与えられていました。

 

 

明治12年には久次米家の経済力と阿波藍商人の蓄積した資本を背景に、阿波藍流通•材木取引などの金融機能の合理化のため久次米銀行が設立されます。隆盛時には東京、大阪、郡山、新宮など広範囲な顧客をもつ、全国で活用される銀行として経営近代化を果たしました。私立銀行としては三井銀行200万円に次いで全国第二位の資本金50万円を有しましたが、明治24年(1891)に前年から始まった日本最初の恐慌とともに休業に追い込まれてしまいました。銀行破綻によって全国組織が分解され地域銀行となり、久次米兵次郎の影響も急速に減退しました。


藍商人-⓿ 阿波商人は藍の生産直売を全国で展開ー商業活動の軌跡ー 

戸時代になると実生活に有用な草や木が広く栽培されるようになり、三草四木とも呼ばれ商品作物として流通します。三草とは木綿•麻•苧麻•藍•紅花など、四木は桑•茶•楮•漆をいいます。元禄10年(1697)『農業全書』宮崎安貞の中にもこれらの栽培の方法が詳細に記述されています。長い間日本の庶民の衣料はほとんど全て麻•苧麻などの靭皮繊維でしたが、この頃から木綿も用いられるようになりました。棉作が全国的に普及され、近畿地方での大量生産システムが整うと、紺屋も全国津々浦々に出現し藍も各地で栽培されるようになります。

 

多くの庶民によって木綿の需要が増えると、阿波藍の生産も多くなり大坂•江戸の市場だけではなく、全国各地に藍商人が活発に商業活動を始めます。近江商人や伊勢商人などと同時代に活躍している阿波商人の存在は、歴史的な研究も少なくあまり知られていません。阿波商人は藍を問屋に委託販売することはせず、各地に自らが設けた出店から紺屋に直売する形態を取っていました。出店が持てない場合は荷受問屋に藍玉を送り、藍商または従業員が問屋へ出向き紺屋へ販売していました。藍の栽培(農家)+藍玉加工(工業)+藍玉販売(商業)を兼ねた生産直売型の藍商人だからできた販売戦略ともいえます。藍商人の活動の軌跡の多くは埋もれたままですが、全国にその存在の跡は残っています。

 

元禄期(1688–1704)以降は商品流通、貨幣経済が急速に発展したことで、商人たちは商業資本の蓄積が進み豪商が生まれます。阿波商人も特権と特異な商業活動で、大藍商と呼ばれる人たちも出現しました。奥州や九州などにも自らの廻船を使い、藍を移出した帰りには米や各地の産物を移入していました。宝暦4年(1754)「玉師株制度」が藩によって施行されたことで、藩の統制によって全国の売場は30以上の売場に区分され株組織が成立します。その後の発展と幕末までの藩と阿波商人の結びつきは、経済学者によって研究がされています。

 

 

藍商人たちの経済動向は研究者には知られていますが、各々の藍商人たちが全国各地で活動した記録や、郷土史家が抜粋した資料から独創的な開拓精神を紹介をしたいと思います。


襤褸藍-ぼろあい-

褸藍-ぼろあい-と聴くと近年は、破れたら当て布をしてまた使い、何枚も重なる擦り切れた布と縫い目の、継ぎはぎだらけの布を想像する人が多いかと思います。明治初期でも布類は庶民の暮らしには高価な貴重品でしたので、襤褸(ぼろ/らんる)と呼ばれ日本各地で人々の手で創意ある布が、慈しみ使われていました。江戸時代のリサイクル生活様式に感銘を受けていたとき、多くのことを知りました。藍の布が着物-布団地-おしめ-雑巾など様々な形に変わり、最後を向かえるときまで充分活用される知恵などです。

 

大事に使われてもやがて使われなくなった藍の布を、また買い集めて一ケ所に集め、集められた襤褸から藍の微粒子を集めるのです。驚きました。布から染料をまた回収できるなんて、誰が思いついたのでしょうか。藍の襤褸を集め、灰汁に石灰、水飴を混ぜ煮沸させ浮き出てきた藍の泡を集めます。臼で布を搗いたりもしていました。青い微粒子を集めて乾燥させて固形状にしたもの、膠を混ぜて固めて顔料にしたものなどを画料•染料として使っています。これが江戸時代の襤褸藍です。

 

藍を化学的に理解していれば可能なことは解りますが、江戸の素晴らしい人々は青い微粒子を見つけ出し、色の抜かれた残りの木綿•麻の襤褸は、屑屋の紙くずと混ぜて漉き返され、浅草紙にリサイクルしていたということです。     

 

 

明治12年の「藍鑞卸売商営業鑑札」が残る浅草・藍熊染料店の創業は文政元年(1818)で、初代は漢方薬店を商い、その後藍鑞を製造•販売していました。「紺肖切(藍布裂)・蛎灰・飴を釜の中にいれ、水煮し浮き出す藍泡を掬い藍鑞を製造。藍鑞は紺屋へ売却、残った襤褸も売却。」との内容が記された文書が残っています。これは襤褸藍の製造と同じと思われますが、できあがったものは藍鑞と呼ばれています。本来の藍鑞とは藍瓶の縁に付着した藍分や、藍の華と呼ばれる染液に浮かぶ青色の泡を精製して造った純度の高い固形物です。不純物が少なくて光沢があったので藍鑞と呼ばれていました。藍花•青黛•青代•藍澱•靛花などとも呼ばれ江戸初期からの利用がありました。


藍草で染めた名称 染料による青系統の名称

で染めた色の名称は唐の時代に律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱がみられますが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別は鮮明でなくなり、各々に使われ伝わる範囲で並立して普遍的な識別には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

 

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代も八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

 

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。

この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。

 

この時から青色に染まる物質藍草から作られる固形のインド藍や泥状の琉球藍と、人工物の黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称と多様な染料と染法が紹介されるようになります。


平安時代は銘柄絹物「阿波絹」のブランド産地でした

覧会で各地に伺うと、阿波(徳島県)は藍の産地だけど藍の織物の産地ではないのでしょ?といわれます。答えるのはなかなか難しく、説明しようとすると長くなります。といってもわたしの説明は何でも長いのです。たった150年ほど前のこともきちんと伝わっていない衣類の染織の移り変わり、それらの取りまく事柄を千年以上も前のことまで辿って、変遷していく道筋から想像していくのですからわかり難い説明です。

 

律令政府の租税の中には調として絹織物や絹糸がありました。正倉院に残っていて国印がわかる中では播磨、越前、伊豆、阿波の品質が良いと分類され、天平4年(732)の銘文がある阿波で織られた実物が保存されています。延喜式の中でも絹織物、上糸国として綾織物、白絹、絹糸などを調として献上しています。そして藤原明衛『新猿楽記』(1053–1058頃)には諸国の物産の中「阿波絹」の名があげられているように、養蚕・製糸・織物の技術の優れた地域だったことが想像できます。

 

棉が初めて日本に伝えられたときも、栽培を試みた7カ国に阿波も選ばれています。品種が適応しなかったのと知識不足とでこの時は育ちませんでしたが、進歩的な情報は入りやすい土地だったようです。鎌倉、室町、桃山と時代の権力者は宋、明からの舶来織物を好みましたので、日本では一部の地域で銘柄織物を産し他地域ではあまり発達していません。

 

 

江戸時代になって少しずつ地域色のある織物が流通するようになり、染織技術も広まったのではないでしょうか。『阿波誌』(1815年)など郷土史によると麻植郡が染織業は盛んで、紬・絹・繭綿・麻布・草綿布・間道草綿布を産しています。他にも藍纐纈・褐布・穀布・麁布などが土産として記載されています。明治になると阿波しじら・鳴門絣・木綿絞布などが全国各地の物産を紹介した「内国勧業博覧会」の報告書で確認できます。文久元年(1861)阿波藍玉取引図で各地の使用量と比べると、藍の織物が阿波で多く生産していたことがわかると思います。各地の情報に接していた阿波は、藍だけではなく織物の水準も高かったと思います。


横浜港開港によって大量のインド藍の輸入が始まりました

末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

 

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

 

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)

         印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)


藍と吉野川

島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。


青の歴史ー多くの民族によって創られた青色の文化

世 界各地にさまざまな青色を染める植物があって、遥か遠い昔から人類に利用されてきました。

地球上のそれぞれの地域で、青の歴史は創られてきました。

染料の化学、染織技術、交易活動、イデオロギーの表現、美学的追求など2000年以上にも渡って多くの民族が独自の文化を創り出しました。

15世紀後期インド洋航路が発見されてから、ヨーロッパの列強国によってそれまでの多文化が大きく壊滅されていきます。

 

 

ヨーロッパにおける藍をめぐる各国の係争を知ったとき、日本ではなぜ阿波(徳島県)だけが長い間独占し続けられたのか、とても疑問に思いました。「青い金」といわれた藍の産出国ドイツ、フランスはインド藍が大量に輸入されるまで莫大な富を築いています。文献資料「兵庫北関入舩納帳」によって、文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、阿波から最大消費地京都へ藍を輸出していた記載が残されています。多くの人は阿波一国が、藍栽培と青色染料貿易を明治時代までおよそ500年独占してきたことを知りません。