藍と型染

の平常服として江戸時代になると裃の需要が多くなり、型染の技術が飛躍的に精巧になりました。この頃から片面糊置きの布に、刷毛で染料を引いて染める小紋染めの技術も行われはじめます。他の染料とは違い藍の裃小紋は何度も瓶の中に浸すので、糊が藍の液の中で落ちたり、くずれたりしない配合を天候に合わせ日々変えながらつくり、図柄を表と裏の両面から型を付けます。表にだけ柄を付けて染めると、裏は藍の無地になりますので高度な技術が必要とされていました。

 

型染の発祥時期はわかりませんが平安末期の鎧の革染めに型紙を使用した例があり、革を染めたのなら多分布も染めたと思われますが、現存する布はありません。上杉景勝所用と伝えられる「紺麻地環繋ぎ矢車文鎧下着」の小紋帷子(米沢市・上杉神社所蔵)などをみていると武士に愛用され技術が発達したように思われます。

 

応仁の乱(1467–77)で京都の町が荒廃したとき、京都の型彫職人たちが移り住んだ伊勢で生産がひろまり、その後江戸、会津、越後、秋田、青森、仙台などに型紙産地ができました。京都では紺屋の多い堀川筋に型紙を彫る型彫師、生地に糊を型付けし染め上げる型付師が、染め屋に直属して隣接していました。一方伊勢では白子•寺家の型紙生産者である彫師と型売業者は江戸に進出し、紀州藩の保護をうけ全国に型紙を売り歩きました。宝暦3年(1753)白子•寺家の両村の型屋は138軒あったといわれます。木綿が庶民の間で普及した江戸時代後半には、江戸好みの粋でしゃれた江戸型紙が生まれ、紙の型と防染糊によって洗練された文様が盛んに作られました。

 

型紙は紺屋の道具でもあり 使い古した型紙でも大切にしていました。伊勢型紙が全国各地に売られている様子から、紺屋が村々まで普及して中形と呼ばれる藍の着物を染めていたのです。

 

白子•寺家の両村の行商国名に記されていないのは阿波、大和、京都だけでした。


韓藍

葉集では「韓藍」は「辛藍」「鶏冠草」などとも書かれていて4首詠われています。「古くは色を染める材料、即ち染料はすべて「あゐ」であり、「韓あゐ」「山あゐ」「呉あゐ」或いは「紅草」ができるから「阿為山」と名付けたという古い記録(筆者補足:播磨国風土記)などすべてこれを物語っている」と上村六郎氏は書いていますが、藍のことになると解釈が少し強引な印象があります。茜の染料の説明は理学博士として、成分の分析もして西洋茜と日本茜の染色方法の違いを説明しているのに、藍/あゐに関しての解釈は安易な結論に終止していて、その後50年以上のあいだ異義もなく、多くの人がこの解釈を踏襲しています。

 

吾屋戸尓 韓藍<種>生之雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念(巻3-384)山部赤人

秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟(巻7-1362)

戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来(巻10-2278)

隠庭 戀而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八方(巻11-2784)

 

韓藍はケイトウ(鶏頭)であるといわれ、原産地のインドから中国、朝鮮半島を経由して天平時代に伝わったといわれています。平安時代に書かれた『本草和名』鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあい)とされていることからです。歌の内容から見て韓藍の花は、秋に咲く染まりやすい植物だと考えられます。

 

平安時代の和歌には「韓藍」の名は見えなくなり、再び中世になって取り上げられるようになります。奇妙なことに韓藍の色を青色としている歌も見えるようになります。

わが恋はやまとにはあらぬ韓藍のやしほの衣ふかくそめてき(続古今集 九条良経)

竜田川やまとにはあれど韓藍の色そめわたる春の青柳(壬二集 藤原家隆)

 

 

現在見られるケイトウは、江戸時代になってからの花弁を鑑賞する園芸植物です。花軸が鶏の鶏冠状になっているから、鶏冠草と呼ばれていたことが文字からも確認できます。韓藍という名前は摺染めに用いられたことに由来するともいい、赤い花を絞って染料にしたと思われますが、赤い色水はつくれますが染まることはありません。一晩で色は無くなり、茶色い染みが残るだけです。原種が現在のケイトウと違うとしても、薬用の記載はその後もありますが、平安時代には染料としての実用は廃れています。中世以降は紅色、青色を染める花として詠まれていますが、万葉集で詠まれた韓藍はやはりケイトウだったのでしょうか。

 


呉藍 紅花藍

藍は和名を「久礼乃阿為」くれのあい、やがて漢名の紅藍・紅花を用いるようになります。飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て渡来したといわれています。呉国(中国)から伝えられた藍(当時は染料の総称)という意味で、「くれのあい」が「くれあい」と約されやがて「紅」の字を当てるようになったといわれています。万葉集では29首が詠まれていますが「くれのあい」から「くれない」に変わっていて、末摘花を併用しているものも1首あります。赤の色素を持つ植物は少なく、古代染色の中でも紫とともに貴重な染料で、茜に比べて鮮やかな色は貴族の憧れの色でした。

 

藍のことを調べていて「呉藍」の文字を初めて見たのは『和漢三才図絵』に掲載されている藍・藍澱・青黛の説明文のなかです。正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)で、中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて解説をしています。藍の項目に藍の種類として「蓼藍」「菘藍」「馬藍」「呉藍」「木藍」が記載されています。蓼藍の和名が付け加えられただけで、説明文は本草綱目の引用と国内での藍の説明があります。1596年の薬物書『本草綱目』李時珍には「藍凡五種‥‥」からはじまり蓼藍、菘藍、馬藍、呉藍、木藍の五種類の藍草の葉の形や花の色などの説明がされています。私が確認できた『本草綱目訳説』小野蘭山(1729–1810)は書写年が不明ですが、日本には最初の出版の数年後には輸入され、その後中国で版を重ねることに和版を出版して、和刻本は3系統14種類に及ぶそうです。

 

中国においては、古くから数多くの本草書が編纂されており、梁の陶弘景により480年頃改訂復原した『神農本草経』別録に初めて「大青」の名が挙がっています。その後の本草書、医薬の書物などにも藍は掲載され、時代が経つと馬藍、木藍などの科の違う品種の藍草の分類や、その薬効についても追加されるようになります。

 

万葉集の原文に1首だけ呉藍の表記がありますが、他との意味の差異はありません。

 

呉藍之 八塩乃衣 朝旦 穢者雖為 益希将見裳

くれなゐのやしほの衣朝な朝ななるとはすれどいやめづらしも(巻11–2623)

 

 

如何なる草を想像して詠まれたのでしょうか。

 


紅花 紅藍花

物書『本草綱目』(1596)李時珍に「べにばな」はどう説明されているのでしょうか。漢名は「紅藍花」『釈名』では「紅花」「黄藍」その花は紅色、葉は藍に似ているので名に藍がある。と書かれています。薬物書『経史証類備急本草』(1061年)唐慎微では「紅藍花」産業技術書『天工開物』(1637年)宋應星には「紅花」紅花餅の造方法も記されています。

 

日本での呉藍→クレノアイ→紅藍→紅花と名称の移変りを説明する文献は『本草和名』『和名類聚抄』『和漢三才図絵』を引用して論ずる場合が多く見られます

『本草和名』は醍醐天皇に仕えた侍医•深根輔仁が延喜年間(901–923)に編纂した薬物辞典です。長く不明になっていた上下2巻全18編の写本が発見され、寛政3年(1796)に校訂を行って刊行されました。下巻の第20巻有名無用193種に「紅藍花」久礼乃阿為と記されています。上巻の第6巻-第11巻草上中下の中に藍実•茜根•紫草の記載があり、第19、20巻は後年の付け加えかも知れません。

『和名類聚抄』は平安時代の承平年間(931–938)に源順が編纂した辞書です。私が確認できたものは那波道円校注の元和3年(1617)刊の元和古活字本です。第184染色具の中に「紅藍」はあり『辨色立成』では久礼乃阿井「呉藍」と同じ。と記され「紅花」俗用之。とも記されています。辨色立成は現在存在していなくて、和名類聚抄の中にしか書物の名は見つけられないようです。中国の書といわれていたこともあったようですが、中国でも文献は見つかっていません。

『和漢三才図絵』は正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)です。「紅花」紅藍花 黄藍 俗云 久礼奈伊 呉藍クレノアイ、「藍」の解説と同じく中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて説明をしていますが、ここでは『釈名』の説明は記されていません。文政7年(1824)の秋田屋発刊で確認していますが薬効としての説明より、国内での栽培産地や染色の仕方などの記載がされ、口紅のことも記されています。

 

本草綱目』釈名で記されていた葉が藍に似ているというのを推測できる文献は、『経史証類備急本草』で「呉藍」と「紅藍花」の図がそれぞれ確認できます。簡素な図なのではっきりと断言できませんが、呉藍の葉は茎が長く蒿(よもぎ)に似ていると書かれているので正確な記述のように思えます。

 

 

「従来わが邦で用いられている漢名には、その適用を誤っているものがすこぶる多い」植物分類学者•牧野富太郎が随筆の中で語られているのを考慮しながら、遠い昔の標野を思うのです。

 


山藍 韓藍 呉藍

 のことを調べ出した切っ掛けのひとつは、万葉集に詠まれている藍の表記からでした。古代日本の記録は和語にあてた漢字で表記されているため、理解が進まないものが多くあります。山藍、韓藍、呉藍の解釈に何故かしっくりこないまま、40年もの月日が過ぎてしまいました。青色を染める藍草は万葉集では詠まれていないことにも、なにも説明ができずに資料ばかりが増えてしまいました。興味のある方、詳細な方は一緒に考えてみませんか。

 

山藍(やまあい)の表記が見られるのは、呉藍(くれない)も一緒に詠まれている一首です。(巻9-1742)高橋虫麻呂 「‥山藍もち 摺れる衣着て‥‥」というように山藍が使われるときには、「染め」という表記ではなく青摺りとも記されたりするように「摺り染める」と使われています。古事記や平安時代の法律である令義解延喜式のなかに見られる神事祭司の記述の中、紀貫之の詩歌にも記されています。この山藍は「トウダイグサ科の多年草。暖地に自生し高さ40cmほどに成長する。藍色を含んだ野性の藍草。この葉の液汁を用いて青摺衣をそめた。」(染色辞典 中江克己編 1981)とあるように、山藍はタデ科の藍草とは違う植物だと推定されています。

 

「大和民族が発見したのは山藍で、藍の含有量が少なく、従って大陸から蓼藍が伝えられると、まず出雲族あたりからこれが用いられはじめ、やがて全く山藍が実用されなくなったものと考えられる。御即位式の際の小忌衣のように、特別の儀式にのみ、古来から今日に到るまで、この山藍摺の衣服を用いるのは、恐らくはこうした事情のためだろう。」(生活と染色 上村六郎 1970)京都帝国大学で繊維•染色を学び、理学博士である上村六郎氏の他の書籍でもこの理論は説かれ「山藍は天皇部族の発見した独自性の藍である。と(自分は)結論をだしている訳である」とまで云っているのです。

 

従来から山藍にも藍の含有があると記されていることに、疑義をもった後藤捷一氏が化学分析をしてみた結果、藍(インジゴ)は含有していないことが確認されました。これにより万葉時代以前から使用されていた山藍は、生葉を搗いて出る汁から青磁色の染め、もしくは葉緑素染の緑色だとの考えが有力になってきました。葉緑素染ですと一晩での変色は免れませんし、水洗いには到底耐えられないと考えますが、現在も京都石清水八幡宮で採れる山藍を用いて、京都の葵祭、奈良の春日大社の衣装に使われているようです。

 

 

そうすると紀貫之が数首読んでいる、山藍を含む和歌の意味が解らなくなります。神事の長さを詠うことで、その神に守られている天皇を賀茂祭で慶祝する意味を籠めた「ゆうだすき ちとせをかけて あしびきの 山藍の色は かはらざりけり」(新古今和歌集 賀歌 712番) 山藍の色はどう説明したらよいのでしょうか。

 


藍草で染めた名称 染料による青系統の名称

で染めた色の名称は唐の時代に律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱がみられますが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別は鮮明でなくなり、各々に使われ伝わる範囲で並立して普遍的な識別には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

 

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代も八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

 

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。

この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。

 

この時から青色に染まる物質藍草から作られる固形のインド藍や泥状の琉球藍と、人工物の黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称と多様な染料と染法が紹介されるようになります。


平安時代は銘柄絹物「阿波絹」のブランド産地でした

覧会で各地に伺うと、阿波(徳島県)は藍の産地だけど藍の織物の産地ではないのでしょ?といわれます。答えるのはなかなか難しく、説明しようとすると長くなります。といってもわたしの説明は何でも長いのです。たった150年ほど前のこともきちんと伝わっていない衣類の染織の移り変わり、それらの取りまく事柄を千年以上も前のことまで辿って、変遷していく道筋から想像していくのですからわかり難い説明です。

 

律令政府の租税の中には調として絹織物や絹糸がありました。正倉院に残っていて国印がわかる中では播磨、越前、伊豆、阿波の品質が良いと分類され、天平4年(732)の銘文がある阿波で織られた実物が保存されています。延喜式の中でも絹織物、上糸国として綾織物、白絹、絹糸などを調として献上しています。そして藤原明衛『新猿楽記』(1053–1058頃)には諸国の物産の中「阿波絹」の名があげられているように、養蚕・製糸・織物の技術の優れた地域だったことが想像できます。

 

棉が初めて日本に伝えられたときも、栽培を試みた7カ国に阿波も選ばれています。品種が適応しなかったのと知識不足とでこの時は育ちませんでしたが、進歩的な情報は入りやすい土地だったようです。鎌倉、室町、桃山と時代の権力者は宋、明からの舶来織物を好みましたので、日本では一部の地域で銘柄織物を産し他地域ではあまり発達していません。

 

 

江戸時代になって少しずつ地域色のある織物が流通するようになり、染織技術も広まったのではないでしょうか。『阿波誌』(1815年)など郷土史によると麻植郡が染織業は盛んで、紬・絹・繭綿・麻布・草綿布・間道草綿布を産しています。他にも藍纐纈・褐布・穀布・麁布などが土産として記載されています。明治になると阿波しじら・鳴門絣・木綿絞布などが全国各地の物産を紹介した「内国勧業博覧会」の報告書で確認できます。文久元年(1861)阿波藍玉取引図で各地の使用量と比べると、藍の織物が阿波で多く生産していたことがわかると思います。各地の情報に接していた阿波は、藍だけではなく織物の水準も高かったと思います。


横浜港開港によって大量のインド藍の輸入が始まりました

末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。

ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。

 

日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。

 

(注)印度マドラス(現:チェンナイ)

         印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)


藍という商品作物–社会の発展とともに

盛期の明治36年(1903)には吉野川、那賀川、勝浦川流域で15099ヘクタールの藍が栽培されていました。当時の県内全耕地面積の約23%、稲作面積の約50%に当たります。藍の衰退によりあっという間に大正末期には水田までが桑畑になり、10240ヘクタールにまで拡大して養蚕農家も4万戸となりました。養蚕が活力を失ったあと沢庵漬加工と大根栽培、奈良漬加工と白瓜の栽培など時代とともに変化するどんな野菜でも栽培し、現在は人参を多く栽培しています。絶えず収益性の高いものを摸索して栽培品種が生まれましたが、変り身のはやさと勤勉さには敬意を表します。土壌の良さも‥‥

 

 

それでは藍の前の品種は何だったのでしょうか?非常に古いことなので記録もありませんが、私は荏胡麻だったと考えています。9世紀以降荏胡麻から作られる灯明油は、全国の社寺や宮廷など貴族社会に浸透し始め生産と販売の流通網がつくられます。徳島では港津「別宮」から「山崎」へと荏胡麻が運ばれている15世紀の記録が残されています。藍の商品作物としての展開は、社会の進展とともに新たな供給先が育ったことで始ったのではないかと考えます。


藍と吉野川

島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。


青の歴史ー多くの民族によって創られた青色の文化

世 界各地にさまざまな青色を染める植物があって、遥か遠い昔から人類に利用されてきました。

地球上のそれぞれの地域で、青の歴史は創られてきました。

染料の化学、染織技術、交易活動、イデオロギーの表現、美学的追求など2000年以上にも渡って多くの民族が独自の文化を創り出しました。

15世紀後期インド洋航路が発見されてから、ヨーロッパの列強国によってそれまでの多文化が大きく壊滅されていきます。

 

 

ヨーロッパにおける藍をめぐる各国の係争を知ったとき、日本ではなぜ阿波(徳島県)だけが長い間独占し続けられたのか、とても疑問に思いました。「青い金」といわれた藍の産出国ドイツ、フランスはインド藍が大量に輸入されるまで莫大な富を築いています。文献資料「兵庫北関入舩納帳」によって、文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、阿波から最大消費地京都へ藍を輸出していた記載が残されています。多くの人は阿波一国が、藍栽培と青色染料貿易を明治時代までおよそ500年独占してきたことを知りません。


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