火打石

保2年(1645)に出版された俳論書『毛吹草』には諸国の名産品約1,800種類があげられ、阿波の名産は「材木•ヒジキ•若布•火打崎の燧石•撫養はまぐり(碁石)」と記されています。室町時代から畿内に流通し、すでに大坂問屋、江戸問屋にも移出されている阿波藍が取り上げられていなかったので、品質が他国より劣ってたのかしら? その理由を知りたいと色々調べていました。その作業のなか「火打崎の燧石」も気になって一緒に調べていました。

 

燧石は「すいせき」と云い火打石のことです。阿南市椿泊町燧崎(火打崎)は橘湾南部の半島部先端で、周辺の山地には採掘跡も残り、ヤブツバキの群生地があるかつての阿波水軍の本拠地でした。火打石とは鋼鉄片の火打金に硬い石を打合せて出る火花を、火口に点火するときに用いる硬質の石をいいます。材質は玉髄•チャート•石英•サヌカイト•燧石(フリント)などが用いられました。燧石は非常に硬質な岩石でチャートの一種であり加工もしやすく、欧州では石器時代から使われていたそうです。

 

日本列島で火打石を使う発火法が行われるようになったのは、仏教や新しい技術が大陸から伝来した頃と推測されています。都市周辺では中世から地元産各種石材が使われていましたが、江戸時代になると火打具も商品となり、山城国鞍馬山や美濃国養老の滝周辺の火打石、水戸藩から出荷される久慈川の支流域で採掘された玉髄、大和国二上山のサヌカイト製火打石など火打石の名産地は多く存在します。九州も各地から火打石が採掘され、地名に「火打」がつく場所も多くあり、宮崎県延岡市には火打崎があり石英が層状に入る千枚岩があります。

 

金鉱床や中央構造線には火打石に適した玉髄•チャート•石英などが多く産出します。徳島県は西南日本の地質を二分する中央構造線が通り、吉野川はこれに沿って西から東へ流れています。文化12年(1815)刊行の地誌『阿波志』の那賀郡「山川」「土産」の項に「火打石」「大田井及賀茂出色青如藍採」と記され江戸から明治時代まで盛んに採掘され、徳島藩が盗掘や抜け売を監視する「火打石御制道役」を設け藩の管理下で大坂の商人•沢屋徳兵衛が流通の委託販売を担ったとも云われています。

 

寛政年間(1789–1801)に書かれた『阿州奇事雑話』横井希純「所々奇石」の項に阿南市大田井産出の火打石は「火打石色青く火能く出づ、海内の火打石第一品なるべし、京師。浪花。近国。西国辺皆此石を用い価貴し、‥‥」などと記載されています。大田井産火打石の流通は大坂城下町•京都へ、和歌山城下町へ、九州各地へ、江戸城下町へと流通路が近年の発掘調査から明らかになり、銘柄商品「大田井の角石」として火打石が産出されていた消費地域にも広域に流通しました。大田井の角石は小さな破片になってもなお用いることができ、特別に品質の優れたものであったそうです。

 

 

明治13年の『日本産物誌』に「マッチヲ用イルヲ以テ、大ニ燧石ノ、声価ヲ滅ゼリ」とあり『日本帝国統計年鑑』では明治14年分を最後に火打石の項目は消える事になります。

 


藍と絞り

事のないまま徳島へ来て、突然、藍染制作で生活をすることになったとき、「絞り」に助けられて30年間住み続けられました。織物が好きでしたが技術習得の時間も余裕もなく、尊敬していた片野元彦氏の絞りの本が先生でした。針痕を見れば大体どのように絞ってあるのかわかりますし、何といっても針と糸だけで始められました。絞りは自由で、すなおな魅力があると古い作品を見ていて感じます。

 

正倉院や法隆寺に「纐纈」と称した見事な絞りが残されています。古くから「くくり」と呼ばれて万葉集にも詠まれているように、布を糸で巻いて文様を染め出す手法は一番手短なことだったからでしょう。絞りの歴史は辿れないほど古く、有史以前から南米ペルーやインド、アフリカ、中国など世界のいろいろな場所で思い思いの絞りが誕生していました。

 

原始的な絞りは宮廷では衰退して姿を消していましたが、庶民の間で細々とつなぎ続けていました。武士の台頭から再び「目結(めゆい)」として糸で括った絞りがさまざまな文様になって発展していきます。藍とも相性のよい絞りは地域のなかで新しい技術が生まれ、交易に適した地域の中から大分の豊後絞り、愛知の有松絞り、京都の鹿の子絞り、福岡の博多絞り、岩手の南部茜・紫根絞り、秋田の浅舞絞り、新潟の白根絞りなど多くの産地が生まれました。これらの地域から発信されたものが、また多くの人の手で展開させながら、百種以上の絞り加工の多様性、技術の精巧さを競っていたことだろうと想像ができます。

 

 

明治10年の絞染産地の分布は福岡20万反、愛知16万反、長野2万6千反、大阪2万5千反、秋田、山形、東京、新潟、愛媛、徳島も5500反の生産があったことが「第一回内国勧業博覧会」の報告書からわかります。その後各地で長板中形(木綿型染)の生産が増え流行するようになると、有松の嵐絞りが明治27、8年ころ年産100万反で人気を得ますが、絞藍染木綿の国内需要は減ることになります。有松でも合成藍の使用を認め、明治33年~40年には多くの紺屋で合成藍の使用が始まります。

 


後藤捷一 三木文庫設立に尽力

格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも必ず読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。私ごときが紹介するのはおこがましいのですが、語らせてください。

 

明治25年(1892)徳島市国府町の藩政時代から続く藍師の家で生まれました。後藤家は組頭庄屋を勤めた旧家で、後藤家文書は組頭庄屋関係史料を中心に経営史•農政史•藩制史•商業史•文化史と多様な内容で村落史研究に活用されています。戸谷敏之『近世農業経営史論』(日本評論社 1949)の中で阿波と摂津の農業が特殊な経営であると、後藤家文書の経営史料を使い論証しています。

 

徳島工業学校染織科卒業後、大阪で社団法人染料協会書記長を勤め内外染料の研究や『染織』の編集、近畿民俗学会にも参加し、藍の民俗的研究も始めていました。戦争によって染料会館が爆撃され、昭和19年染料会社・三木産業に勤務、退職後は民俗学研究家の渋沢敬三のすすめで徳島の三木家の古文書、藍関係資料の整理を行い三木文庫設立に尽力しました。

 

三木文庫は全部が祖先以来歴代の事業からの史料なので、門外不出として公開されていなかった史料でした。昭和29年(1954)当主の決断で創業280年記念事業として開館しました。阿波藍関係文書2,000点、藍関係緒用具類150点、藍染布類200点、天然色素とその標本の染布類300点、一般庶民資料12,000点が展示されています。他にも阿波の桍布(あらたえ•太布)、和三盆糖、人形芝居の関係資料、その内容は木綿普及以前の織布や機具類、和三盆糖製造用具類一切を収め、県、国の重要民俗資料に指定されています。

 

後藤捷一氏の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻書、染織見本帳、錦絵など671点からなる目録と解題『日本染織文献総覧』をまとめました。『阿波藍譜』全6冊 三木文庫『染料植物譜』(1937)はくおう社『絵具染料商工史』(1938)『江戸時代染織技術に関する文献解題』日本植物染研究所1940.1『日本染織譜』(1964)東峰出版『古書に見る近世日本の染織』(1963)大阪史談会『日本染織文献総覧』染織と生活者(1980)などの著作は約100点に及びます。

 

なによりも尊敬することは、博識と多方面にわたる教養を併せ持った後藤捷一氏が『あるくみるきく』近畿日本ツーリスト 1976.11の特集の中で、藍染に関わる誰よりも正確に藍の醗酵建を記され、青の生まれるメカニズム―醗酵によって生じる化学変化の様子を独自の説明で教えてくれたことです。


藍と吉野川

島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。


HANADA倶楽部ー徳島市眉山の麓にある藍染工房です

藍 と人との関わりが始った古い時代から現在までの情報を整理、発信します。

HANADA倶楽部は徳島市内の東西に細長く山裾を広げた「眉山」の麓にあります。

 

吉野川の河口に位置するこの辺りは古代では海の中です。

小島であった「眉山」は聖なる山とされ、一切の民を住まわすことが禁じられていました。

標高290mの山頂に続く登り口には必ず神社寺院があり、その境内から登るように登山道がつくられていました。

名前の由来は、天平6年(734)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕したときの歌として、「眉(まゆ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも」船王:ふねのおおきみ 万葉集に詠まれています。

何時のころから「眉山」と呼ばれるようになったのか分りませんが、古くは風光明媚な吉野川の三角洲が、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭津、渭山(いのやま)と呼ばれていました。室町時代に室町幕府の管領、細川頼之が渭津城(徳島城)を築きました。

 

 

眉山山頂からは徳島平野を一望でき、天気のよい日には淡路島や対岸の紀伊半島まで見ることができます。

 

1992年に設立しましたが、展覧会中心の活動でした。これからは藍講座を開催したり、オープンアトリエを設けるなどの活動も考えています。アトリエでの藍の仕事にほとんどの時間をとられていますが、ご要望などありましたら連絡下さい。

 


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