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太布 Ⅰ -麁妙・木綿・大麻・苧麻

勢神宮の神事に楮の繊維「木綿(ゆう)」が用いられなくなったのは何故なのでしょうか。江戸時代に麁妙服(阿良多倍)の原料が、楮/穀(かじ)なのか麻なのか二つに説が分かれての論争があり、麻ということになったからでしょうか。

 

江戸末期の阿波の国学者野口年長は、本居宣長が『玉勝間』で木綿=太布と推定していることを評価して、『粟の落穂』のなかで麁妙は穀の繊維で織られた布と断定しています。一方、麁妙は麻であるとする万葉学者賀茂真淵は、『祝詞考』のなかで「古は栲麻(たえあさ)の布を細きを和栲(にぎたえ)、麁きを麁妙といひしを、今の京となりて𥿻(きぬ)を和栲、麻を荒妙と云へり、式即ち是也」(式とは延喜式を指すと思われる)と記しています。賀茂真淵が唱えた古代では織布の粗密によってその名を呼び分け、平安時代以降は原料によって名称が付され、麻布が「荒妙」と呼ばれたとの説が固定しているようです。次第に論点が「木綿」の解明から「麁妙」の解釈になっています。

 

原本が存在していない『日本書紀』の伝本は写本、版本が多く現存していて、古本系統と卜部家本系統の本に分類されています。『日本書紀』の成立の経緯は詳らかでなく、書名も『日本書紀』『日本紀』なのか確定できずに論説が続き、本文に添えられた注の形で異伝•異説が「一書に曰く」として記述されている歴史書です。本文には白和幣(しらにぎて)•青和幣(あおにぎて)と記され、「一書に曰く」として「粟国の忌部の遠祖天日鷲が作ける、木綿を懸でて‥‥」と木綿が記されています。『古事記』では天岩屋戸の前で太玉命が、真栄木(榊)の枝に鏡と玉を懸け、白和幣青和幣を取り垂でて‥‥と記され、白和幣は楮/穀から、青和幣は大麻から作られた繊維と解釈されています。

 

『延喜式』の阿波忌部麁妙服の分註に「神語に謂ふ所の阿良多倍是なり」と見えることから、「神語のあらたえ」として固有名詞化して麁妙=神衣の解釈になったのでしょうか。国学者で阿波忌部神社の宮司を務めた斎藤普春は『践祚大嘗祭御贄考』のなかで、麁妙の原料は穀としています。明治41年に東宮殿下(大正天皇)の徳島行啓に際し、穀で織られた麁妙を古式にのっとり調整して献上したといわれています。大正4年の大嘗祭の麁妙貢進には、文学博士喜田貞吉などが考証し麁妙の原料が「麻」とされて、斎藤普春などの考証した「穀」は覆えされることになりました。平成2年の大嘗祭の際も大正、昭和に引き続き大麻が栽培され、麁妙が貢進されました。

 

阿波の民族史料『阿波誌』『阿波国祖谷土俗調査』(明治30年)『祖谷太布の聞書』(昭和初期)などの記載によれば、楮、穀、麻、藤、葛などを原料として織った布の名称は、すべて太布とも麁服とも呼んでいたようです。今日でも楮による太布が織られている木頭村では、織布の粗密によって荒妙、白妙と呼ぶ習わしが残っているといいます。賀茂真淵の唱える古い時代の呼称の名残なのでしょうが、最後まで残った地域で語り継がれた一般名称でなく、神道史•宗教学•考古学などの文献から木綿と太布、麁服の関係を知りたいものです。

                

平成二年十一月「大嘗祭」の麁妙を造るため阿波忌部の裔孫三木信夫氏によって大麻が栽培された「斎麻畑」