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藍染と手拭 Ⅰ

良時代の神仏の飾り付けや清掃するために使われた布が、神祭具として祭礼を司る一部の人の身に纏う装身具として使われる布になります。手拭として生活に使われ始めたのは鎌倉時代からといわれ、麻や絹でできた平織物です。室町時代になると湯浴みの体を拭うためにも使われるようになります。

 

木綿が日本で栽培されると、東海道の有松•鳴海から絞りの藍染手拭が特産品として全国に広まっていきました。慶長年間(1596–1615)に名古屋築城のころ、木綿の先進地である高田荘(大分市鶴崎)から豊後絞りが伝わったといわれます。絞りの手拭とともに藍染も各地へ広まっていきます。江戸時代の多くの書画に手拭は登場し、多彩な染色と多様な図柄が繰り広げられます。浮世絵の中にも手拭は多く登場するようになり、粋な小道具として生活用品になって浸透していきます。入浴時に使用するだけでなく汗を拭うとき、顔や手を洗った後の水を拭うとき、帽子やストールのように寒暑避けや塵除けなどの用途として、身に纏う装身具としても使われ欠かせないものになりました。手拭の柄は時代の文化や流行を生み出し、時節や節句の縁起物としての贈答や、餞別•心付け•祝儀など用途を広げながら生活に定着し深く溶け込んでいきました。

 

明治時代を迎えると、化学染料が登場し「注染」という染色技術が考案され、複雑な図柄や多色染めにも対応できるようになります。繊維産業の隆盛とともに染色技術も向上し、電動コンプレッサーを利用した染料の吸入方式も開発され、効率よく生産が出来るようになりました。そして大正~昭和初期にかけて新しい技術とともに化学染料が主流になり、藍染のような浸染で染める染色方法も天然藍も廃れていきました。

 

 

かつて、阿波藍をたずね徳島へ訪れた『染絵てぬぐい』の著者•川上桂司が「阿波藍の急速な衰退がこれほどひどいものであることは、やはり現地を訪れなければ実感として湧いてこない。」と衰退ぶりを嘆いたのは昭和49年です。昭和16年の全国の藍栽培面積は62ヘクタールで、その内徳島県が40ヘクタールを担っていました。自身の仕事で江戸時代に活躍した山東京伝の手拭を復元されたり、昭和の時代を過ごしていたと思われる川上氏でも、自分のいる世の中からどのように藍が衰退していったのかは関心が及ばないのが現実でした。因みに昭和49年徳島県の栽培面積は10ヘクタールで、江戸時代以来最低の昭和40年4ヘクタールから漸く最悪の状態を脱した頃でした。「それにしても阿州びとの大半が藍に深い愛着をもっていないのは、藍が単に商品として繁栄した歴史が永かったためであろうか」と川上氏は嘆きますが、阿波藍の製造が高度成長期の40年代を持ち堪えて、伝来の製造工程を残せたことを誇りに想いその歴史を記録したいと思います。