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浮世絵の中の藍染-中形

藤(歌川)広重(1797-1858)の名所江戸百景『神田紺屋町』で描かれている風景は、藍で染めた浴衣地が高い櫓の上から干されひるがえっている様子が窺えます。染物の町•神田紺屋町には中形の藍染をする紺屋も軒を連ねていて、同じ職種の職人が一ケ所に住むことでその職種が町名になっていました。明治になると神田の紺屋は隅田川の方へ移転し、町名だけが残りました。職業別集住制が城下町に導入されていたことで紺屋町は日本各地にあり、城下町徳島にも紺屋町の名は残りますが、城下町以外の町にも多くあることからも藍染の普及が偲ばれます。

 

浴衣の由来は平安時代の湯帷子(ゆかたびら•由加太比良)から転じたといわれ、僧侶が身を清める入浴時に着けた「内衣」から始まり、貴族たちも入浴(蒸風呂)の際に着用し、バスローブやバスタオルの役目を果し定着します。その後木綿の普及から、江戸中期末になり浴衣として庶民の夏の常着として広まりです。その浴衣を染めた主な型染技法が中形で、木綿に藍で紺と白に染め上げられ中形と呼ばれることになりました。中形とは大紋、中形、小紋と文様の柄ゆきからきた名称だと考えられています。ただ時代を追って見ると、そう単純な区別だけでなく、小紋でも大柄な物もあり中形といっても小紋のようなものもあります。小紋は室町時代の武士の裃に家紋を染めたことから始まったといわれ、江戸時代になると武士は小紋柄で妍を競い、大名たちは「御留柄」を作りだすほど精緻な美を誕生させました。それがやがて女性の小袖にまで染められるようになり、型紙を用いて木綿に染めた小紋や中形が盛んに染められるようになりました。「大きな図柄でも突き彫で彫れば中形だし、錐彫や道具彫で刻めば小紋になる」錐彫は裃の小紋を彫る技術で、もっとも古くから行われていました。小紋と中形の区別は型紙を彫る技法で明確にされていて、模様の大小ではないようです。

 

 

明治末頃になって新しい染色技術や染料が使われ、注染中形という型紙で防染し折り重ねた反物に染料を注ぎ染色する方法が起こりました。注染中形や捺染中形の技術が現れることで、古くからの技術である中形を長板中形と区別するようになりました。長い板に生地を張り糊を両面に型付けし、藍瓶に浸染して仕上げる技法からの名称です。江戸で発達した中形は七宝•網目•分銅つなぎなど江戸好みの粋な柄が、浮世絵の中の女性の浴衣姿からも想像することができます。