徳島県の紺屋 -昭和

 和30年頃から復元された阿波しじら織と、それに伴う藍の需要も期待したほど伸びをみせず、藍の県内消費量は依然として低迷していました。昭和40年から43年にかけての藍の栽培面積は平均でも4ヘクタールで、県内外の需要の後退のなかで、藍作だけでは生計のたたない苦しい時代を過していました。栽培と蒅作りを続けていた藍製造業者(藍師)は五軒のみで、藍師を支えていたのも悪条件のなかで、蒅を使い続けてた数少ない織業者と紺屋でした。昭和25年の文化財保護法に制定された織物産地も、阿波藍=蒅を使った織物は久留米絣のみでした。

 

昭和40年代後半から経済成長を背景に、伝統工芸や伝承行事への関心がたかまりを見せ始め、阿波藍の名もようやく注目されるようになります。昭和50年には栽培面積が10ヘクタールまで上昇し、生産量35トン(約500俵)になりました。文化財保護法で制定された織物は、工芸技術が機械化される前の作業や手仕事が当り前だった時代の技術で、採算が合わない行程で作られたものです。手間に費やされた時間が代金に加算され、材料の入手も困難であり、対価の還元は藍製造の現場や染織従事者が共に直面した難題でした。阿波藍の名は高まりテレビ•雑誌などで紹介され、伝統工芸として特集されることも多くなりました。しかし知名度が高くなっても、意外なほど生産量は増えず消費量も依然として低迷したままでした。一つひとつの行程は詳しく説明され、多くの人の関心と理解を得ることは出来ても、ひとつの作品を作るためには多くの行程と見えない手間が存在します。

 

明治末期化学染料の進出に直面して阿波藍による藍染の良さ、藍の色の美しさを主張して抵抗すことは難しかったことと思います。抵抗しても経済上の利益という重い現実の前に、打ちのめされたと考えられます。だけど戦後日本の社会は大きく発展し、民主主義も導入され志を具現化する環境は整いました。しかし阿波藍の製造工程の説明をしても、生産量が少ないことを話しても、ほとんどの織物産地で導入される藍染は合成染料であり、結びつくことのない両者が言葉の成せる業で混同されているのが現状でした。

 

 

文化財保護法で制定された織物は、全行程を指定されたとおり作ることで高価な作品となります。昭和49年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする。」などという曖昧な言葉で、物の本質を見えなくする提案をしています。法的にも逃げ道ができて、藍染などは染料の指定も表示する規定もありませんので、合成藍も天然藍も区別する必要がなく、天然藍は関係者たちの良心のみの仕事として曖昧なまま継続しました。