阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。