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藍の品種 Ⅰ

島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令•賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

十世紀になると『倭名類聚抄』『延喜式』に染色処方も記されるようになります。『延喜式』主計寮には諸国へ庸として乾藍三斗三合三勺が課せられていること、中男作物として紅花•茜•黄檗などの染料も課せられている国が記されています。藍の栽培は律令国家のもと租税の調•庸として中央へ納めるため、急速に各地の荘園に広がります。

 

平安時代の辞書『倭名類聚抄』(931–938)には「多天阿井」タデアイと科目がわかる表記で書かれています。蓼藍には多くの種があり、栽培地により同種のものでも呼名が変わることもあります。律令時代に広く日本列島でも栽培され始め、その後武士の時代には貴族の力が弱り藍が中央に集まることは少なくなります。新しい有力者に保護された藍は鎌倉時代から続く戦乱にも残り、秩序が回復される時まで栽培され続けたのだと思います。『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍と記されていて、京蓼は小上粉のことかも知れませんが、高麗藍や広島藍は如何なる種のことなのか確認ができません。

 

 

和歌山県山間部で大正末に藍作を廃業した人が、大正11年から60年間絶やすこと無く栽培してきた藍が徳島では絶えた「椿葉蓼藍」だったことがあります。椿葉蓼藍は別名「赤茎中千本」徳島県では明治–大正時代まで栽培されてきた記録がありますが、収量•品質•価格において栽培されなくなった品種でした。徳島県の山間部でも小上粉と椿藍との交配品種のような藍が見つかったことがあります。和紙漉きで痛んだ手に使うため家の廻りに自然に育っていたそうです。すでに徳島で見られなくなった青茎小千本などの品種も、もしかしたら何処かで栽培されているかも知れません。