藍と絞り

事のないまま徳島へ来て、突然、藍染制作で生活をすることになったとき、「絞り」に助けられて30年間住み続けられました。織物が好きでしたが技術習得の時間も余裕もなく、尊敬していた片野元彦氏の絞りの本が先生でした。針痕を見れば大体どのように絞ってあるのかわかりますし、何といっても針と糸だけで始められました。絞りは自由で、すなおな魅力があると古い作品を見ていて感じます。

 

正倉院や法隆寺に「纐纈」と称した見事な絞りが残されています。古くから「くくり」と呼ばれて万葉集にも詠まれているように、布を糸で巻いて文様を染め出す手法は一番手短なことだったからでしょう。絞りの歴史は辿れないほど古く、有史以前から南米ペルーやインド、アフリカ、中国など世界のいろいろな場所で思い思いの絞りが誕生していました。

 

原始的な絞りは宮廷では衰退して姿を消していましたが、庶民の間で細々とつなぎ続けていました。武士の台頭から再び「目結(めゆい)」として糸で括った絞りがさまざまな文様になって発展していきます。藍とも相性のよい絞りは地域のなかで新しい技術が生まれ、交易に適した地域の中から大分の豊後絞り、愛知の有松絞り、京都の鹿の子絞り、福岡の博多絞り、岩手の南部茜・紫根絞り、秋田の浅舞絞り、新潟の白根絞りなど多くの産地が生まれました。これらの地域から発信されたものが、また多くの人の手で展開させながら、百種以上の絞り加工の多様性、技術の精巧さを競っていたことだろうと想像ができます。

 

 

明治10年の絞染産地の分布は福岡20万反、愛知16万反、長野2万6千反、大阪2万5千反、秋田、山形、東京、新潟、愛媛、徳島も5500反の生産があったことが「第一回内国勧業博覧会」の報告書からわかります。その後各地で長板中形(木綿型染)の生産が増え流行するようになると、有松の嵐絞りが明治27、8年ころ年産100万反で人気を得ますが、絞藍染木綿の国内需要は減ることになります。有松でも合成藍の使用を認め、明治33年~40年には多くの紺屋で合成藍の使用が始まります。