藍商人-❸ 志摩利右衛門

摩家の祖は河野氏の一族、越智氏といわれ藩政初期のころ東覚円村(石井町覚円)で藍作をはじめました。三代の間に田畑を大きく増やし、4代目から伊勢と尾張に売場を設け、藍を移出した帰りには他国の商品を仕入れ国内で販売も行いました。

 

六代目の志摩利右衛門は幼少期に父母を失い、15歳になると藍商の家業を継ぎ驚くべき商才を発揮したといわれます。文政7年(1824)に信州松本の城下に支店を置き、9年には出羽米沢にも支店を開設して秋田まで販路を拡大、10年には越後から東北一帯にまで販売網を拡張しています。文政11年、京都三本木町に支店を開き京都の藍市場の足場を固めます。翌年には四条通りの御旅町にも支店を置き阿波名産「煙草」の専門店をはじめます。このとき20歳の志摩利右衛門の積極的な経営戦略は、類稀な情報収集能力であったといわれています。

 

米沢藩では上杉鷹山による藩政改革で、養蚕•製糸•機織りが盛んになり米沢織が軌道にのると、紺屋の技術水準が低いことを聞きつけ城下で藍玉を販売します。さらに紺屋を併設し城下の紺屋にも藍染技術を伝授したそうです。米沢で経営基盤が盤石になると会津若松•仙台•庄内•本庄•山形と売場を拡大したのです。

 

商才だけではなく、天保期の徳島藩の財政改革を成功させ経済官僚としても活躍しています。藩債整理が軌道に乗り始めると次は斎田塩をめぐる制度改革を行い、藩の統制下で専売制を完成させます。塩の次は阿波三盆糖、半田漆器の販路開拓を依頼されたことより地場産業の江戸進出を実現します。

 

 

全国31ケ所の売場を持ち、京都•越後高田•信州松本•会津米沢の支店を経営する、その商業活動は驚異的であり、当時の販売体制の中でも独創的でありました。そして京都での頼山陽や当時の知識人たちとの文化交流によって見識を深め、卓越した経営手腕と自由主義的な経営思想をもった経済人でした。俳諧•書画を好み、尊王攘夷運動、自由民権運動に関わる人々を支援し、明治維新を切り開く若い才能を育てた人でもありました。大政奉還後は藍師株の制度を廃止して自由な営業を勧め、冥加銀も廃止するなど商業活動の近代化を目指し大改革を進めます。廃藩置県後の商法方改革後に職を辞し明治17年76歳の偉大な生涯を終えます。