平安時代は銘柄絹物「阿波絹」のブランド産地でした

覧会で各地に伺うと、阿波(徳島県)は藍の産地だけど藍の織物の産地ではないのでしょ?といわれます。答えるのはなかなか難しく、説明しようとすると長くなります。といってもわたしの説明は何でも長いのです。たった150年ほど前のこともきちんと伝わっていない衣類の染織の移り変わり、それらの取りまく事柄を千年以上も前のことまで辿って、変遷していく道筋から想像していくのですからわかり難い説明です。

 

律令政府の租税の中には調として絹織物や絹糸がありました。正倉院に残っていて国印がわかる中では播磨、越前、伊豆、阿波の品質が良いと分類され、天平4年(732)の銘文がある阿波で織られた実物が保存されています。延喜式の中でも絹織物、上糸国として綾織物、白絹、絹糸などを調として献上しています。そして藤原明衛『新猿楽記』(1053–1058頃)には諸国の物産の中「阿波絹」の名があげられているように、養蚕・製糸・織物の技術の優れた地域だったことが想像できます。

 

棉が初めて日本に伝えられたときも、栽培を試みた7カ国に阿波も選ばれています。品種が適応しなかったのと知識不足とでこの時は育ちませんでしたが、進歩的な情報は入りやすい土地だったようです。鎌倉、室町、桃山と時代の権力者は宋、明からの舶来織物を好みましたので、日本では一部の地域で銘柄織物を産し他地域ではあまり発達していません。

 

 

江戸時代になって少しずつ地域色のある織物が流通するようになり、染織技術も広まったのではないでしょうか。『阿波誌』(1815年)など郷土史によると麻植郡が染織業は盛んで、紬・絹・繭綿・麻布・草綿布・間道草綿布を産しています。他にも藍纐纈・褐布・穀布・麁布などが土産として記載されています。明治になると阿波しじら・鳴門絣・木綿絞布などが全国各地の物産を紹介した「内国勧業博覧会」の報告書で確認できます。文久元年(1861)阿波藍玉取引図で各地の使用量と比べると、藍の織物が阿波で多く生産していたことがわかると思います。各地の情報に接していた阿波は、藍だけではなく織物の水準も高かったと思います。