藍という商品作物–社会の発展とともに

盛期の明治36年(1903)には吉野川、那賀川、勝浦川流域で15099ヘクタールの藍が栽培されていました。当時の県内全耕地面積の約23%、稲作面積の約50%に当たります。藍の衰退によりあっという間に大正末期には水田までが桑畑になり、10240ヘクタールにまで拡大して養蚕農家も4万戸となりました。養蚕が活力を失ったあと沢庵漬加工と大根栽培、奈良漬加工と白瓜の栽培など時代とともに変化するどんな野菜でも栽培し、現在は人参を多く栽培しています。絶えず収益性の高いものを摸索して栽培品種が生まれましたが、変り身のはやさと勤勉さには敬意を表します。土壌の良さも‥‥

 

 

それでは藍の前の品種は何だったのでしょうか?非常に古いことなので記録もありませんが、私は荏胡麻だったと考えています。9世紀以降荏胡麻から作られる灯明油は、全国の社寺や宮廷など貴族社会に浸透し始め生産と販売の流通網がつくられます。徳島では港津「別宮」から「山崎」へと荏胡麻が運ばれている15世紀の記録が残されています。藍の商品作物としての展開は、社会の進展とともに新たな供給先が育ったことで始ったのではないかと考えます。