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藍と吉野川

島平野を流れる吉野川は古来一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。藩政時代にも治水対策として一部堤防を築いていましたが、両岸に連なる竹林が洪水の勢いをおさえることで毎年のように見舞われる洪水に対峙していました。

阿波藍の始まりは蜂須賀家が洪水によって稲作が困難な農地に、旧領の播磨国から種子と技術を導入し藍を奨励したという説がひろく伝唱されてきました。しかし文献資料などから室町時代には藍の商品化が確認されるので、近年は蜂須賀家が藍の保護政策により吉野川流域に広めたとの記載に変わっています。

 

徳島は吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土によって、藍の栽培に適しているから独占し続けられたともいわれてますが、このような条件の川は国内にはいくつもあると思えます。例えば淀川や紀ノ川などとどのような違いがあるのでしょうか? 近世になって棉栽培が盛んになったとき、どちらも肥沃な土地を活用し栽培面積を誇っていました。そして明治になりイギリスからの輸入綿に押されると、全国の棉作地帯は一斉に藍作地帯になりました。

 

吉野川河口で八十川(やそかわ)、矢三(やそ)などの人名や地名が生まれ、天平宝字2年(758)に作成された正倉院所蔵の荘園図から、極めて海に近い低湿地上に荘園が作られてきたことが分ります。康治3年(1144)には吉野川の河口に石清水八幡宮領の萱島荘が成立し、港津「別宮」を経営拠点にし広大な荘園が吉野川の水運と深い関わりを持っていました。   

 

明治以降の治水で堰や連続堤防もでき、いまの吉野川になりました。八十川とも呼ばれた河口部の多くの支流は優良な農地へと変わります。