眉山麓から藍のはなし

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藍染のこと

藍でつくられた色

藍−公的機関での状況 

藍と阿波


藍でつくられた色ー⑮ 青

と青の表記は『古事記』天岩屋戸の神話に見えます。天岩屋戸の前で太玉命が、真栄木(榊)の枝に鏡と玉を懸け、白和幣(しらにぎて)青和幣(あおにぎて)を取り垂でて‥‥と上古に行われた祭祀の行事に使われる、樹皮の繊維で作られたものの名称に使われています。白和幣は楮/穀(かじのき)から、青和幣は大麻から作られた繊維だといわれていて、白と青はそれぞれの繊維の色を表しています。白と青の色彩シンボリズムは祭祀•王権の中心の色として、祈年祭の祝詞に青雲•白雲が慣用句に用いられ、「青雲」「青馬」の青は霊的な象徴性を表しています。

 

宇津保物語や源氏物語に青き白橡、赤き白橡と記されていますが、この「橡(つるばみ)色」は今も不明なことが多く、諸説の中で橡が櫟の古名であることから櫟で染めた薄い茶色を「橡色」と呼び、それを「白橡」と称したと考えられています。『延喜式縫殿寮』には「青白橡」「赤白橡」と記載があり、いずれも太上天皇•天皇着用の袍の色とされ、禁色とされています。綾一疋の染料は「青白橡」刈安草大96斤、紫草6斤「赤白橡」黄櫨大90斤、茜大7斤を用いることになっていて、何れも橡(つるばみ)の使用はありません。

 

青き白橡は平安文学の中で、青色とも書かれていて室町時代の『桃花蘂葉』に「青色。又麹塵ト号ス。又山鳩色ト号ス」記されています。麹塵(きくじん)は中国の色名で麹黴の色に因んだもので、山鳩とはアオバトと呼ばれた日本在来の鳩の色に因んだものといわれています。当時は青色といえば青白橡の浅い灰色がかった黄緑色、青といえば緑の濃く青味を帯びた色を指していたようです。

 

古代王権は祭祀によって部族集団を統治していました。祭祀•王権の象徴性は青•白で表し、赤•黒•白•青は宇宙観を象徴していましたが、大陸から律令体制を導入したことで、新しい色彩のシンボリズムと儀礼国家の体制が敷かれました。長く続いた古代王権との兼合いは困難が生じ、色彩のシンボリズムも体制の不満や衝突から安易な変更を重ねます。推古11年(604)に冠位12階制で初めて位階によって冠の色を定め、紫•青•赤•黄•白•黒としました。陰陽五行説の五色と紫を加えたものです。孝徳天皇大化3年(647)に7色13階制に変更され、その後天智3年(664)、天武14年(685)、持統4年(690)と変遷します。『大宝律令』大宝元年(701)で1世紀におよんだ冠位制は廃止され、『養老律令』天平宝字元年(757)で「衣服令」として復元します。秩序全体において厳格に決定した色彩に、絶対的な象徴性を感じることができなかったともいえます。体制の限界を暗示しているようで、現在まで青と緑が分岐できないまま続くのは、事象への認識や認識の枠組みが古代部族社会の「曖昧さ」を残存しているようにも思えます。

 

大化3年頃まで紺は鴨頭草(ツユクサ)の花の汁、緑は刈安草と鴨頭草で染めたとされ、天智3年の7色26階制に変更されたときから紺と緑に藍が使用されるようになった、といわれます。装束の青色を考える観点では染料の「藍」が導入された時点が重要なのですが、5世紀の応神天皇から雄略天皇の頃という説と、8世紀の聖武天皇の頃という説などがあり、今でも解釈の進展はなく主観的な想像での解釈ばかりです。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


藍でつくられた色ー⑭ 緑

代の固有の色は「明-あか」「暗-くろ」「顕-しろ」「漠-あお」の4色で表されることから、色名や色彩の認識は分り難く多くの解釈が存在することも当然で、古の藍で染めた色も青なのか緑なのか確定されていません。洋の東西を問わず古代の青色はぼんやりしてはっきりしない色を包括していて、古代社会での赤•黒•白の基本色に対して象徴的意味も弱く、日常と異なった異世界の色ともされていました。そして古代のみならず、現代日本語の形容詞として使える色も、古代4色と黄色、茶色だけで表わすことから青と緑の範疇が重なったままです。

 

現在でも「緑」には生まれたばかりの新しいものを「みどり」と称し、海や空などの寒色系統の深い色や黒く艶のある色である「緑の黒髪」までの色感を持ちます。古代青色と黄色との間色は、色名と現実の色が特定できない色ではあるのですが『延喜式縫殿寮』に残された色名と染色する材料から、古代の色を推定することが考えられます。

 

『万葉集』10巻2177「春は萌え夏は緑に紅の綵色(まだら)に見ゆる秋の山かも」奈良時代末期の歌学書『歌経標式』宝亀3年(772)「わが柳美止利(みどり)の糸になるまで‥‥」と奈良時代になると緑はおしなべて草木の葉の色を指すようになりますが、平安時代になっても緑は「あお」と呼ばれています。青とは微かに青色を帯びた色で、1.染色は 薄い青色 2.織色は 経糸は白 緯糸は青 3.重色は 表は青 裏は白といわれています。当時は青色といえば浅い灰色がかった黄緑色、青といえば緑の濃く青味を帯びた色を指していたようです。青と緑が分岐するのは室町時代になってからともいわれますが、一般名•通俗的に「青」と、公式名として「緑」と後世まで呼ばれていると書かれている状態では、分類の難しさが現在まで続きます。

 

冠位12階の色制が孝徳天皇大化3年(647)に、7色13階制に変更されたとき「緑」の漢名が見られるようになり、『延喜式縫殿寮』には「深緑」「中緑」「浅緑」の3段階の染め方と用度が記載されています。綾一疋の染料は「深緑」藍10囲、刈安草大3斤「中緑」藍6囲、黄檗大2斤「浅緑」藍半囲、黄檗2斤8両となっています。染料の分量から推定して深緑は常磐の松の緑のようだとされ、江戸時代は濃く暗い緑色の千歳緑の色名を指しています。中緑は松や柳の若葉の緑で鮮やか緑とされ、浅緑は浅い緑色で薄青の色名も使われます。染色する材料の加減で多くの色彩を得ることができるので、宇津保物語・枕草子・源氏物語・寝覚物語など平安文学には柳色、青朽葉、松の葉、萌黄、苗色と時代とともに多くの名称が見られます。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


徳島県の紺屋 -昭和

 和30年頃から復元された阿波しじら織と、それに伴う藍の需要も期待したほど伸びをみせず、藍の県内消費量は依然として低迷していました。昭和40年から43年にかけての藍の栽培面積は平均でも4ヘクタールで、県内外の需要の後退のなかで、藍作だけでは生計のたたない苦しい時代を過していました。栽培と蒅作りを続けていた藍製造業者(藍師)は五軒のみで、藍師を支えていたのも悪条件のなかで、蒅を使い続けてた数少ない織業者と紺屋でした。昭和25年の文化財保護法に制定された織物産地も、阿波藍=蒅を使った織物は久留米絣のみでした。

 

昭和40年代後半から経済成長を背景に、伝統工芸や伝承行事への関心がたかまりを見せ始め、阿波藍の名もようやく注目されるようになります。昭和50年には栽培面積が10ヘクタールまで上昇し、生産量35トン(約500俵)になりました。文化財保護法で制定された織物は、工芸技術が機械化される前の作業や手仕事が当り前だった時代の技術で、採算が合わない行程で作られたものです。手間に費やされた時間が代金に加算され、材料の入手も困難であり、対価の還元は藍製造の現場や染織従事者が共に直面した難題でした。阿波藍の名は高まりテレビ•雑誌などで紹介され、伝統工芸として特集されることも多くなりました。しかし知名度が高くなっても、意外なほど生産量は増えず消費量も依然として低迷したままでした。一つひとつの行程は詳しく説明され、多くの人の関心と理解を得ることは出来ても、ひとつの作品を作るためには多くの行程と見えない手間が存在します。

 

明治末期化学染料の進出に直面して阿波藍による藍染の良さ、藍の色の美しさを主張して抵抗すことは難しかったことと思います。抵抗しても経済上の利益という重い現実の前に、打ちのめされたと考えられます。だけど戦後日本の社会は大きく発展し、民主主義も導入され志を具現化する環境は整いました。しかし阿波藍の製造工程の説明をしても、生産量が少ないことを話しても、ほとんどの織物産地で導入される藍染は合成染料であり、結びつくことのない両者が言葉の成せる業で混同されているのが現状でした。

 

 

文化財保護法で制定された織物は、全行程を指定されたとおり作ることで高価な作品となります。昭和49年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする。」などという曖昧な言葉で、物の本質を見えなくする提案をしています。法的にも逃げ道ができて、藍染などは染料の指定も表示する規定もありませんので、合成藍も天然藍も区別する必要がなく、天然藍は関係者たちの良心のみの仕事として曖昧なまま継続しました。


徳島県の紺屋 -明治 -大正 -昭和

治末期の阿波藍最盛期には、市中には少なくとも300軒の紺屋があったといわれています。しかし全国各地でインド藍、合成藍、化学染料が導入される大正10年には、紺屋の数は57軒になったと伝えられます。大正4年の徳島県の藍作面積は3,884町歩(ha)で藍作農家は836軒(大正6年)です。埼玉県での最盛期の栽培面積は維持していますが、市中の紺屋には化学染料が混在され、織業者300軒余りがしじら織と共に、阿波紺絣やその他の織物•服地などを相当量生産していました。化学染料の導入で刺激された染織業界は、近代産業へと脱皮を目指し藍製造業者を顧みなかったのは、すべての産業と名付けられるものに負わされた選択であったと思います。全国に販路を持つ藍製造業者と違って、徳島の織業者と紺屋は織物生産を産地として展開する機会をつくれず、昭和に入って紺屋は次第に市中から姿を消しました。

 

紺屋は戦中•戦後にわたる綿糸の不足や経済統制によってさらに転•廃業をよぎなくされ、終戦後の一時期には唯一軒を残すのみとなりました。そしてそれも天然染料の藍染ではなく、すべて化学染料によるもので市中の紺屋からは本来の藍染は全く姿を消してしまいました。全国藍作面積は昭和5年は523町歩、昭和16年は62町歩で、その内訳徳島県は255町歩、40町歩です。徳島で作られた藍は県外へ搬出されていました。

 

藍染の復活は、26年から30年にかけての阿波しじら織の復元を契機として、しじら織の復元に欠かせない藍染も共に復活しました。当時民芸運動の中心的存在であった柳宗悦をはじめ、芹沢銈介、バーナード•リーチ、外村吉之介といった人達を徳島に招聘し、しじら織の復元について意見を仰いだと伝えられています。しかしその試みも、徳島における藍染の復活に活力を与えるほどの進展をみせることはありませんでした。

 

 

染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として、昭和25年に文化財保護法によって制定され保護されることになりました。徳島県でのしじら織の復元や藍染の復活の試みも、国の政策に動向したものだったのでしょうか、創造性のある活動や現実を打破する提案は残されていません。藍の栽培面積は30年の37町歩(ha)から、40年には最盛期以後史上最低の4町歩となります。徳島県だけの問題ではなく、藍を使用していた全国の織業者•藍染業者の殆どがその現状を語ることはありませんでした。

 


藍でつくられた色ー⑬ 藍海松茶

海松茶の染色方法の記載が『女重寶記』元禄5年(1692)にあることから、この頃には染色が行われていました。藍海松茶は青味を帯びた海松茶ということで、暗い茶味の緑色です。海松茶の染色方法も『紺屋茶染口伝書』寛文6年(1666)に見られ、寛文小袖の地色にも広く愛用された色です。藍海松茶が江戸中期になり小袖や麻裃にも流行して、『愚雜俎』文政8年(1825)に「今あいみる茶といふものは、素みる茶に藍をかけし色なればなり‥‥」と記されているように、混乱を避けるためなのか海松茶の色名を「素海松茶」と言替えたものが見られるようになりました。

 

「海松」とは平安時代から食用にも観賞用にも利用された海藻で、浅海の岩の上に生え『万葉集』に詠まれています。平安貴族たちは「見る目」との連想から歌に詠まれ、重ねの色目には表が萌黄、裏は青の「海松色」があり、海松の文様もみられます。平安時代に生まれた暗い黄緑色の海松色は、室町時代の軍記物語『太平記』に「海松色の水干著(き)タル‥」と見られ色名は貴族から武家へ愛用され続けます。

 

藍海松茶の染色法は濃い浅葱の下染に楊梅で染め、媒染には明礬、鉄を使っていたようです。江戸中期以降はこのような染め色が多くなり、染見本帳や雛形本などの小袖地色に藍を用いた暗い緑褐色の色名が見られます。藍媚茶•藍鉄色•藍錆色•藍ねず•藍墨茶などです。類似した暗い緑褐色の藍媚茶は浅葱に下染し、渋木を染めてから鉄媒染です。染色法は一つの方法ではなく、藍を使わない染めもありましたが、下地を浅葱で染めれば生地が強くなり色もよいと書かれています。藍ねずの色調は平安時代に「青鈍」と云われていた色に類似していて、鈍色に藍を淡く重ねたものをいいます。鈍色の染色は奈良時代から行われた「橡(つるばみ)」に類似していて、平安時代になっても青鈍や鈍色は凶事の服色とされていました。江戸時代になると鈍色系統の色が何々鼠と呼ばれ、凶色としての観念は無くなり流行色になりました。藍味を含んだ墨色の藍墨茶も享保の頃に流行し、質実剛健を尊んだ時代の風潮にも合致して広く親しまれます。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院