眉山麓から藍のはなし

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      阿波藍商  

 

藍染のこと

藍でつくられた色

藍−公的機関での状況 

藍と阿波


青石/緑泥石片岩

HANADA倶楽部の南前方には東西に細長く山裾を広げた「眉山」が見えます。眉山は藩政時代には「渭山(いのやま)」そして佐古地区から見える山は「佐古山」と呼ばれていました。阿波踊りのはやし詞に「大谷通れば石ばかり、笹山(佐古山ではないかと云われています)通れば笹ばかり‥‥」と読み込まれたように、佐古山、佐古大谷は隣接し藩政時代から大正時代まで青石を採掘していました。眉山を水源とする佐古川は山裾に沿って流れ、佐古石、大谷石を高瀬舟によって運び出し、徳島城の表御殿•千秋閣庭園や石垣、佐古川の護岸にも使われました。

 

青石とは結晶片岩中の緑泥石を多く含むもので、緑泥片岩または緑色片岩といいます。四国山地、紀伊山地を通る日本最大の活断層「中央構造線」の断層から多く出土し、緑泥石は地中深くで地殻変動により出来ることから、地殻変動の顕著な所に産出します。徳島県は徳島城のある城山、眉山などは全山青石で出来ているともいわれるほど青石は身近な石です。四国山地の剣山山系、山間部では露頭がみられ、吉野川中流域では川底が総て青石の場所もあります。

 

県内に産地は数多くありますが、大谷石•佐古石•森藤石•下浦石•片解石が特に良質でした。百度石、道標石、まいご石、支柱石、板碑、石垣、庭石、石段、敷石、便所•井戸廻り、灯籠などに使われています。吉野川流域の藍作地帯では藍師の屋敷の特徴として、吉野川の氾濫から守るため路面より敷地を高くし、青石で基礎•腰積•石垣を築いているのを多く見ることができます。資力のある藍師たちは腰積を青石積みで高く築造し「城構え」と呼ばれる家を作り上げました。濡れると青味を帯び板状に割れることから、古墳の石室•石棺や中世に流行した板碑にも使われました。佐古の縄文晩期末の「三谷遺跡」からは祭祀用の結晶片岩製石棒が出土しています。

 

日本庭園の石材としても使われ、大徳寺大仙院書院の枯山水庭園や庭園作家•重森三玲の松尾大社庭園などに青石の数々が配置されています。フランス•パリのユネスコ本部に昭和33年(1958)に開園した日本庭園にも、イサム•ノグチによって日本から桜•梅などの樹木とともに神山町産出の青石が用いられました。日本庭園の制作には重森三玲と共に、徳島の造園家鈴江基倫も従事しました。

 

 

吉野川の洪水によって運ばれた肥沃な客土は、剣山系の主体地質である結晶片岩で保水力や排水性が良く、葉菜類•根菜類•果菜類•穀物類など多種多様な農作物の生産が可能でした。玄武岩由来の結晶片岩が風化した赤土も、鉄分やミネラル分を多く含み豊かな土壌を作りました。


火打石

保2年(1645)に出版された俳論書『毛吹草』には諸国の名産品約1,800種類があげられ、阿波の名産は「材木•ヒジキ•若布•火打崎の燧石•撫養はまぐり(碁石)」と記されています。室町時代から畿内に流通し、すでに大坂問屋、江戸問屋にも移出されている阿波藍が取り上げられていなかったので、品質が他国より劣ってたのかしら? その理由を知りたいと色々調べていました。その作業のなか「火打崎の燧石」も気になって一緒に調べていました。

 

燧石は「すいせき」と云い火打石のことです。阿南市椿泊町燧崎(火打崎)は橘湾南部の半島部先端で、周辺の山地には採掘跡も残り、ヤブツバキの群生地があるかつての阿波水軍の本拠地でした。火打石とは鋼鉄片の火打金に硬い石を打合せて出る火花を、火口に点火するときに用いる硬質の石をいいます。材質は玉髄•チャート•石英•サヌカイト•燧石(フリント)などが用いられました。燧石は非常に硬質な岩石でチャートの一種であり加工もしやすく、欧州では石器時代から使われていたそうです。

 

日本列島で火打石を使う発火法が行われるようになったのは、仏教や新しい技術が大陸から伝来した頃と推測されています。都市周辺では中世から地元産各種石材が使われていましたが、江戸時代になると火打具も商品となり、山城国鞍馬山や美濃国養老の滝周辺の火打石、水戸藩から出荷される久慈川の支流域で採掘された玉髄、大和国二上山のサヌカイト製火打石など火打石の名産地は多く存在します。九州も各地から火打石が採掘され、地名に「火打」がつく場所も多くあり、宮崎県延岡市には火打崎があり石英が層状に入る千枚岩があります。

 

金鉱床や中央構造線には火打石に適した玉髄•チャート•石英などが多く産出します。徳島県は西南日本の地質を二分する中央構造線が通り、吉野川はこれに沿って西から東へ流れています。文化12年(1815)刊行の地誌『阿波志』の那賀郡「山川」「土産」の項に「火打石」「大田井及賀茂出色青如藍採」と記され江戸から明治時代まで盛んに採掘され、徳島藩が盗掘や抜け売を監視する「火打石御制道役」を設け藩の管理下で大坂の商人•沢屋徳兵衛が流通の委託販売を担ったとも云われています。

 

寛政年間(1789–1801)に書かれた『阿州奇事雑話』横井希純「所々奇石」の項に阿南市大田井産出の火打石は「火打石色青く火能く出づ、海内の火打石第一品なるべし、京師。浪花。近国。西国辺皆此石を用い価貴し、‥‥」などと記載されています。大田井産火打石の流通は大坂城下町•京都へ、和歌山城下町へ、九州各地へ、江戸城下町へと流通路が近年の発掘調査から明らかになり、銘柄商品「大田井の角石」として火打石が産出されていた消費地域にも広域に流通しました。大田井の角石は小さな破片になってもなお用いることができ、特別に品質の優れたものであったそうです。

 

 

明治13年の『日本産物誌』に「マッチヲ用イルヲ以テ、大ニ燧石ノ、声価ヲ滅ゼリ」とあり『日本帝国統計年鑑』では明治14年分を最後に火打石の項目は消える事になります。

 


阿波藍の技術移転ー佐藤信淵

品作物が盛んになると農業技術を記録•解説した『農業全書』宮崎安貞『綿圃要務』大蔵永常などの農書が成立し、写本や木版印刷によって広く普及しました。全国各地の篤農家を尋ねる農学者や農業記者も現れ、その土地で行われている農業技術が記録されるようになります。佐藤信淵は文政12年(1829)に『草木六部耕種法』の中で有名な藍の産地を紹介し、「藍葉を作るには阿波国の作法学ぶべし」「藍を作るには阿波の国法を第一とし、筑後国久留米を第二とす」として栽培法•藍玉製法について記していますが、他にも藍玉に砂を混ぜる場合の「錆砂」を阿波では選んで使用していることなども記しています。

 

佐藤信淵は明和6年(1769)出羽国雄勝郡(秋田県)に生まれ、江戸に出てから儒学•国学•神道•本草学•蘭学•天文学を学んだそうです。諸国を遍歴し見聞した事も含め著書は極めて多様で、農学から国家経営におよび、極めて実際的なものから農政•物産•海防•兵学•天文•国学など広範に及びます。「佐藤信淵の言説は虚構が多く、著書の刊行も明治になってからで、阿波に移住した事実もなく、蜂須賀家の公文書などあらゆる記録に載っていない」と森銑三は云い、詐欺師扱いをしています。真相はわかりません。江戸中期以降の徳島藩の藍栽培と製法は、他領•他国へ秘密が漏泄したときの規正制裁は厳重でした。当時の厳しい環境の阿波に佐藤信淵が藩家老集堂氏の食客として、文化5年(1808)から阿波に一年近く滞在したと云われ、実際文化6年(1809)2月に名東郡鮎喰川原で大砲の試射をしたことが記録されています。『草木六部耕種法』の著作前に藍の製造法を視察していた、そして記述され紹介されていた、という特別な扱いがあったことに驚くばかりです。

 

著書が膨大で広範囲なこともあって佐藤信淵の評価は未だ定まっていませんが、展開された理論の中に農政経済論があり思想の動機は、国内の農村の貧困にあったことは事実だったと思います。国内を見聞した信淵には徳島藩に於いて農民による藍という商品作物の展開は、商品経済が発展し流通も拡大していく状況下に、諸藩の政策の思索となったのでしょうか。全国的な規模で封建制度を維持し領主経済の改革に、殖産興業政策の成果をあげ、窮乏を救済する手段を主張することが必要でした。

 

 

『草木六部耕種法』著作後の天保3年(1832)には武蔵国足立郡鹿手袋村(さいたま市南区)に住み、農園を持ち藍作を試みていたそうです。同年に『農政本論』を刊行します。


阿波藍の技術移転ー福井•大分•山梨県

島藩の藍製造法を探るため他国からの隠密や、四国八十八箇所の巡礼者を装った間者の話しは数多く残っています。栽培•製造方法の技術漏泄には厳格な規制のありましたが、明治維新になってから他府県の要請によって藍作の指導教師として赴任も可能になり、赴任地に永住した徳島県人も多かったようです。長く守ってきた阿波の技術を、時流の変革の機会に憚ることなく享受することができたのです。

 

豊後国北海部郡下ノ江(大分県臼杵市)の井沢幸兵衛は、幕末の阿波へ藍の製造法を修業しに来ました。文久4年(1864)に幸兵衛は徳島城下の水師を養成する私立の学校で、佐藤松五郎から「藍作り方伝授書」を与えられています。臼杵に伝わる伝承によれば、四国遍路にでかけた幸兵衛がこの地の藍づくりの活気に満ちた様子を見て、わが村でも藍を栽培したいと、仮病まで装おって懇願し修得したことが『臼杵ものがたり』(臼杵市立図書館刊行)に詳しく掲載されています。事実とは少し違いそうですが、幕末の阿波で他藩の人にも藍作を伝授していた興味深い史料です。臼杵に戻った幸兵衛は土質にあった育苗や栽培を工夫し、近隣の人々に教え藍作は下ノ江から下北、江無田地方まで普及し明治から大正まで盛んに行われたようです。明治32年に井沢幸兵衛の業績をたたえ「生藍功績碑」と刻まれた石碑が、農家の人々の手で建てられています。明治30年の大分県の栽培面積は471町歩(ha)です。

 

明治8年(1875)に福井県吉田郡山東村(福井市志比口町)に移住した喜多新助は、吉田郡の人々に藍種を授け藍の栽培と製造を教えました。新助は天保14年(1843)に、麻植郡桑村(川島町)で藍製造を営む家に生まれます。新助が移住した事情はわかりませんが、地味が藍作に適していて藍作は年を追って盛大になって、明治28年の内国勧業博覧会で協賛功労賞を受けるまでになりました。明治30年には県産を興隆した功績により緑綬褒章を下賜され、吉田郡の人々から「藍業紀功碑」が長松寺の境内に建立されました。明治30年の福井県の栽培面積は317町歩(ha)です。

 

 

阿波郡勝命村谷島(阿波町)の藍師吉田屋の二男片山亀二郎は、山梨県の招聘により藍作の指導教師となって赴任しました。天保4年(1833)生まれの亀二郎は若い頃には京に出て、やはり生家が藍商であった後藤田南渓について南画を学び、勝命村の渓流•菊里谷から号を菊渓とし嘉永5、6年には長崎でも学んでいます。明治以降に家業の衰退により山梨へ移住をしますが、明治30年の山梨県の栽培面積は121町歩(ha)で、40年には1町歩と記録されています。技術移転の調査資料などはありませんが、他にも類似の事象はあったと考えられます。


阿波藍の技術移転ー筑後国

後平野を蛇行して流れる筑後川の流域は、古くから文化が発達し3世紀頃には大集落があったといわれています。久留米は筑後川の中流域に位置し、元和6年(1620)に有馬豊氏が丹波福知山より入国し有馬藩の城下町になります。ここにも「藩主が播磨姫路より藍の種をとりよせて藍栽培を始める」という阿波藩と同じような説話が残り、その後の栽培は「領内多く産出し四方に送る」と『筑後志』(1777)に書かれています。『久留米絣』(1969刊行)の中に「はじめは椿葉(丸葉)或いは藍を栽培していましたが、阿波から上香(上粉)の種を取寄せ、次いで少上香(小上粉)を取寄せ栽培地域を拡大した」との記載があります。

 

史料によれば享和3年(1803)に御井郡北野大庄屋•上瀧茂吉が玉藍を製造したといわれ、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、浮羽、竹野、八女、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。久留米絣は久留米近郊で寛政11年(1799)に始まり、絣の生産が増えるとともに藍栽培も盛んになります。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになります。

 

正保2年(1645)に筑後川の川港の瀬ノ下に久留米藩によって御米蔵が設けられ物資の集散地となり、廻船問屋•松屋は大坂をはじめ西日本各地と密接に結びつき、物産を他国に移出していました。松屋の初代三枝善次郎は甲州出身で、有馬豊氏に随従した武士であったそうです。安永2年–嘉永7年(1773–1854)から六代松屋の家業は発展し、文化8年-明治2年(1812–1869)には国産玉藍御用掛に任命され御用商人として活躍します。20ケ所(領内22ケ所)の藍手配所を支配し、文政10年(1827)には長州藩へ筑後藍を統括して移出していました。文化年間中(1804–18)には筑後藍は他国や大坂、江戸へと移出をはじめ、天保10年(1839)には2683俵(1俵50斤)が移出されています。筑後藍を国外に移出するほど藍栽培が盛んに行われてるこの地域に、文久元年(1861)に阿波藍を1795俵移入していることが記録に残っていて、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされていたと考えられています。

 

 

明治になると久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。着実に生産が増大するなか、輸入染料による粗製乱造で信用を失った久留米絣は、組合によって天然藍の保護と堅牢度を守り、品質と信用を取戻します。久留米絣の染色には地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため、徳島県に伝習生を派遣して藍製法を学びます。久留米絣の生産は明治19年46万反、明治28年85万反、大正期になると100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。明治中期以降はインド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透します。福岡県の藍の栽培面積は明治30年2,062町歩(ha)、40年352町歩、大正2年88町歩となります。厳格に管理していた久留米絣も、明治40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入され藍栽培は衰退しました。


阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。


阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。

 


阿波藍の技術移転ー尾張国

保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城•尾張•美濃が記されていることから、尾張•美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡•丹羽郡•海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

 

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村•津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡•海東郡•海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村•愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

 

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

 

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡•海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培•製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡•渥美郡•八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

 

 

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年に351町歩と激減したのは愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人•地主•機屋•染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

 


阿波藍の技術移転ー武蔵国

喜式(927完成)によれば武蔵国や関東の国々でも調として藍•藍布が納められていますので、この頃には荘園•標野などで藍の栽培が行われていたと考えられます。染織技術の高い地域は古代より開けた土地が多く、自然環境に恵まれ古くから豪族や渡来人が住んでいたことが古墳や出土遺品などで窺い知れます。

 

徳川幕府は江戸に開かれましたが当時から畿内が先進地であり、生産拠点も流通も江戸時代後半になるまで近畿地方が主流であり続けました。関東の木綿生産は18世紀後半から19世紀以降の高機の導入により、限られた地域の農閑余業として展開していた綿業が、新たな綿織物の産地として足利•佐野•蕨•川越•所沢などで興こります。こうした綿業の発展にともない、関東でも地藍生産が成長します。藍作地帯は肥沃で物流に優れた荒川流域の川島•吉見•川越•所沢や、利根川流域の本庄•深谷•妻沼にかけて集まっています。利根川中流域の藍商人、葛飾郡西大輪村(埼玉県久喜市)白石家、樺沢郡下手計村(埼玉県深谷市)粟田家の史料により文化期(1804~)以降、天保期から嘉永期にかけて約3倍増となる急成長も確認できます。『江戸時代人づくり風土記•埼玉』(1995発刊)のなかで、樺沢郡中瀬村(深谷市)河田家の史料に栗原村(久喜市)の紺屋•藤右衛門のところに、病気により逗留した阿波の人から藍の葉の「寝かせ方」を習い、その技術を「下り寝せ」と呼んでこの地方で流行したと書かれています。葉藍の寝かせ方というのは、蒅の製造技術のことで時期はおよそ天明•寛政(1781–1801)ごろだと考えられています。

 

安政元年(1854)阿波藍の他国への総移出量は236,000俵で、幕末の阿波藍の江戸への移出の内訳は48,930俵、関東地藍(武蔵•上野•下野•上総•下総•常陸)は10,000俵となっています。明治初年の藍の生産統計では、阿波についで武蔵が有数の産地とされていて、興隆させようと県の農業指導員の指導のもと、明治23年には阿波藍を試植させ適地の研究もしています。葉藍作付面積は明治16年1,078町歩(ha)、20年代になると2,000町歩に、31年には3,120町歩の最高作付面積を記録しますが、40年には410町歩と衰退していきます。明治40年代に編纂された『織物資料』に記された武州織物の染色方法の変遷をみると、当初は天然染料による染色を基調としていましたが、20年前後になると外国染料(化学染料•インド藍)の導入へと変化していきます。

 

 

明治の社会•経済を牽引した渋沢栄一は樺沢郡血洗村(深谷市)の生まれで、家は藍の栽培と農家から藍葉の買付け、藍玉を製造し紺屋に販売をしていました。藍玉は高価ではありましたが、紺屋からの代金回収には長い時間を要し、原料の藍の仕入れには大量の資金が必要でした。良い藍を育てるには肥料として干鰯•〆粕の購入も必要です。質屋•金貸•養蚕•藍商人として品質管理と才覚を学び、渋沢栄一は商業的農業経営者としての合理的精神を家業から受継ぎました。

 


阿波藍の技術移転ー北海道藍 

波藍の栽培にとって干鰯•鯡粕などの魚肥を移入することが、長い歴史の中で大きな経営戦略の一つでした。江戸時代後期には蝦夷地(北海道)から北前船航路で、大量の鯡粕を交易していました。徳島藩の洲本城代であった稲田家は幕末に起した庚午事変の処分として、明治3年日高国静内郡に強制移動が命じられます。稲田家臣団の開拓事業は、およそ環境の違う土地での開墾に苦戦を重ねましたが、藍作を取り入れたことで大きな成果をあげました。

 

明治25年に徳島県知事が、県民20万人を北海道に移住させる計画案を発表しました。基幹産業だった藍の衰退が始まった頃で、当時の人口約70万人のうち過剰な県民を移住させようと画策したものでした。知事の辞職により実現はしませんでしたが、停滞する経済や産業の打開策として県内の有力者による団体が組織され、多数の農場が道内各地に開設されることになります。

 

明治12年仁木竹吉は麻植•美馬•三好の農民360余人を、後志国余市郡の原野に入植させ藍作を始めます。胆振国有珠郡紋別に移住した鎌田新三郎も藍作と藍の加工を始め、蒅の製造に成功しています。板野郡長江村(鳴門市大津)出身の滝本五郎は大農経営による農場開拓を目指し、安い鯡粕が大量に入手できると移住を決めました。明治14年に実弟阿部興人と徳島興産社を設立し、石狩国札幌郡篠路村で農場と藍栽培を始めます。始めは出来た葉藍を乾燥させ徳島へ送り蒅に加工しました。徳島県の藍取締り規則で他県からの買入を禁止したことより、北海道庁と徳島県の「経済摩擦」にまで発展して、滝本らは地元で葉藍から蒅に加工することになりました。18年に徳島から技術者を雇い入れ、寒い土地での藍の醗酵に不安はあったものの良質な蒅ができました。

 

 

北海道庁の支援も受け製藍事業を進め、製造所2棟を新築し藍の作付面積も増やします。藍は反当たりの収入が多いだけではなく、種子や肥料、機械まで貸付て買入代金で精算することで急速に広まりました。20年頃には阿波藍商を動揺させるほど、北海道藍が関東へも進出していたそうです。29年には道内の藍作面積は1,418町歩(ha)に達しましたが、天然染料から化学染料への転換が始まり、30年には徳島興産社は事業の中止に追い込まれました。37年には化学藍が全国的に大量に使用されはじめ、30年には889町歩、40年には386町歩、大正4年201町歩となります。明治26年に徳島県から移住した篠原家は、現在でも伊達市で藍製造をしています。


書籍『阿波藍のはなし』-藍を通して見る日本史- 2018.10 刊行 〈メールにてお申込ください〉

私が藍との関わりの機会を得たのは、両親が徳島県出身で祖母の家へ訪れたおり、藍染工場の見学に行ったことから始まりました。思春期の1970年代は伝統的な工芸や郷愁を感じる日本の地域が注目を集めていました。藍染のことは書物や雑誌、メディアによって知ってはいましたが、徳島で聞いた話は藍の染料と染色液をつくる過程と藍栽培量の少なさでした。全国で一番栽培されている徳島で藍作農地が4~10ヘクタール程で、北海道など他地域の栽培も僅かだと知りました。編集者や記者たちは全国で藍染をしている人々の話を伝えていましたが、使われている染料が作られている農地面積や栽培量は気に掛けず、農林水産省の統計で調べることは行わなかったようです。

 

1988年1月29日-2月10日に池袋の西武アート・フォーラムにて「藍染の展望:江戸–現代/阿波藍誕生600年記念」協力:京都無名舎/大阪日本民藝館 と銘打った展覧会が開催されました。本展の副題が阿波藍誕生600年記念となった典拠は、「兵庫北関入舩納帳」の発見によって文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、年間約500石(1石=150キロ 約75トン)の葉藍が、阿波から東大寺領北関に荷揚げされていたことの記載があったことに依ります。

 

阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたい、と考えるようになって徳島へ移住することを決心しました。藍が渡来した時期•経過も知りたい、奈良時代のことは比較的書物でわかるけど古代から現代までの事情が知りたい、蓼藍の原産地は温暖な東南アジアや中国南部といわれているけど、温帯地域の日本で染法が根付く筋道など、調べたいことが尽きることはありませんでした。気が付くと40年が過ぎてしまいました。染織の教育も歴史も専門家ではないので、知識も筆力も満足できるものではありません。優れた人に資料提供を願っていたのですが、機会に恵まれず人生の先も少なくなり暫定的に纏めました。そしてようやく1冊の本が出来ました。『阿波藍のはなし』-藍を通して見る日本史- として10月8日に自費出版します。今まで集めてきた資料の纏め集ですので厳密性に不安はありますが、興味を持って読んでくださった方に十分な検証をしていただきたいと希っています。多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと思います。皆様のご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。

 

阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ー

文:森くみ子 写真:伊藤洋一郎 森くみ子

発行所:自由工房

サイズ B5 132頁 左綴じ

価格 3,300円(税込)

表紙 あさぎ版 or しろ版(内容は同じです)

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藍の品種 Ⅲ

治31年に徳島県農事試験場の技師吉川祐輝が調査した藍の品種は、青茎小千本 赤茎小千本 百貫 上粉百貫 上精百貫 両面平張 じゃんぎり(散切) るりこん千本 青小千本播磨青 おりき千本 赤茎大柄 大葉百貫 椿葉 縮緬 縮葉 越後 青茎中千本 赤茎中千本 赤茎大千本 大柄百貫と20種の記載があります。他にも赤茎百貫 青千本 赤千本 紺葉 丸葉藍など明治になってからは栽培種の名称は数多く記載され、これら品種名の中にはほとんど同じものも含まれていて、今日では判別することは不可能です。

 

明治6年(1873)に発行された『あゐ作手引艸』は備後福山の藤井行磨によって藍作から藍粉成しまでの行程が書かれています。藍の品種も獅子葉 知々美葉 丸葉 剣先葉 大葉 木瓜葉 出雲葉 小千本青 小千本赤軸 小千本両面と10種が記載されています。後藤捷一氏によると阿波の手法の紹介と、記載されている品種は全て阿波での栽培種であると云われています。

 

合成藍の輸入によって栽培面積が急速に減った大正9年に、従来から栽培されている品種が雑多であったため、整理して優良な品種を試験場で選出しました。最も収量•価格の良い小上粉は明治初期には栽培されていなかった品種で、京都九条の水田で栽培されていたため水藍とも呼ばれていた一種でした。百貫 両面平張 赤茎小千本 上粉百貫 るりこん千本 じゃんぎり 青茎小千本が上位に選ばれ、指導奨励されたことでその後は栽培される品種が少なくなっていきます。

 

 

現在(2007年)農業試験場で栽培されているのは、小上粉の白花種と赤花種 赤茎小千本 百貫 宮城 松江 広島神辺 大千本 千本 紺葉 那賀椿の11品種です。最近になって藍の研究は急速に進み、青藍(インジゴ)の含有量の測定は乾燥方法によっても違うことが判明したり、これからいろいろと解明されると思われます。品種別の含有量の比較はまだ決定されたわけではありませんが、大千本 紺葉 百貫 那賀椿の順になっていて、現在主力品種とされ栽培している小上粉白花は中間くらいです。


藍の品種 Ⅱ

『会津農書』 貞享元年(1684)は佐瀬与次右衛門によって書かれた独創的な農業書です。稲作•畑作•農業経営を上中下に分け書いた内容を、農民にわかりやすく和歌に託して啓蒙した歌農書も含まれています。この中に「元禄11年(1698)に阿波国名東郡猪津(徳島市)の住人、仁木三右衛門尉政義、宍戸涼太夫正秀が会津幕内村(会津若松市)に来て藍畑手作したので、其業微細に見て一巻の書に綴り、其あらましを歌農書に記した」という内容が含まれています。一巻の書というのがどのようなものか分りまませんが、中巻の畑作のなかに藍作の記載もあり、藍に関する歌は43首残されています。藍の栽培製造の技術が藩外に漏れることは稀で、阿波藩によって御法度になる前のことだったのでしょうか、江戸初期の阿波藍のことがわかる貴重な資料です。

 

この歌の中に藍の品種のことが出てきます。大がらあい•小がらあい•槐藍•大藍•蓼藍•丸葉•長葉藍の品種名が見られ、会津では丸葉、槐藍、長葉藍を蓼藍といい、阿波では大がらあいを丸葉藍、小がらあいを長葉藍と呼んでいると書かれています。藍は生命力のある草ですので、栽培される環境によっても様々な変化を遂げ、文献による品種名だけで個体を特定することは困難な作業です。

 

藩政時代に栽培されていた品種として水藍 陸藍 菘藍 円葉藍 蓼藍 大藍 丸藍 山藍などが様々な文献に記されていますが、水藍 陸藍は栽培地による区別の呼名で、菘藍 蓼藍は科目の種類です。大藍 丸藍 山藍 円葉藍は蓼科であると書かれています。徳島では平地から山分まで栽培されていましたので、地質に合う良い品種を植える事や自然交配によって品種が増えた時は選別して最良の品種を奨励していたと書かれていますが、藍が商品作物として保護されていたため詳細な図も統一された呼称の説明もありません。

 

昭和25年(1950)に重要無形文化財に指定された千葉あやの氏が栽培していた藍の品種は、阿波では明治期に栽培されていた「縮葉」と呼ばれていた品種でした。宮城県栗駒山という自然環境に適応するため、随分と形態が変化したようで一見では分らなかったそうです。

 

 

*年代の記載に正誤があると思われますが、資料の年代のまま記載しました。


藍の品種 Ⅰ

島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令•賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

十世紀になると『倭名類聚抄』『延喜式』に染色処方も記されるようになります。『延喜式』主計寮には諸国へ庸として乾藍三斗三合三勺が課せられていること、中男作物として紅花•茜•黄檗などの染料も課せられている国が記されています。藍の栽培は律令国家のもと租税の調•庸として中央へ納めるため、急速に各地の荘園に広がります。

 

平安時代の辞書『倭名類聚抄』(931–938)には「多天阿井」タデアイと科目がわかる表記で書かれています。蓼藍には多くの種があり、栽培地により同種のものでも呼名が変わることもあります。律令時代に広く日本列島でも栽培され始め、その後武士の時代には貴族の力が弱り藍が中央に集まることは少なくなります。新しい有力者に保護された藍は鎌倉時代から続く戦乱にも残り、秩序が回復される時まで栽培され続けたのだと思います。『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍と記されていて、京蓼は小上粉のことかも知れませんが、高麗藍や広島藍は如何なる種のことなのか確認ができません。

 

 

和歌山県山間部で大正末に藍作を廃業した人が、大正11年から60年間絶やすこと無く栽培してきた藍が徳島では絶えた「椿葉蓼藍」だったことがあります。椿葉蓼藍は別名「赤茎中千本」徳島県では明治–大正時代まで栽培されてきた記録がありますが、収量•品質•価格において栽培されなくなった品種でした。徳島県の山間部でも小上粉と椿藍との交配品種のような藍が見つかったことがあります。和紙漉きで痛んだ手に使うため家の廻りに自然に育っていたそうです。すでに徳島で見られなくなった青茎小千本などの品種も、もしかしたら何処かで栽培されているかも知れません。


藍商人-❿ 川真田市太郎•徳三郎

政時代に盛んに栽培された阿波藍の起源については、未だにはっきりしていません。戦前までの文献はすべてのものが天正13年(1585)に徳島藩祖の蜂須賀家政が、旧領地•播州から藍の栽培技術を導入したことになっていました。近年では板野郡藍住町•勝瑞城址にある見性寺の文書から、鎌倉時代の阿波の守護小笠原長清の一族が治めていた美馬郡岩倉(脇町)で、宝治元年(1247)に宝珠寺を開山した翠桂和尚が「染葉」で染めた僧衣を着用していた、と記されていたことからこの染葉が藍だったのではないかといわれています。

 

また文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』に掲載された記録により阿波から兵庫北関(神戸港)に、大量の藍葉が荷揚げされていたことが確認できます。藍葉を積荷した湊の一つとして記されていた惣持院の被定地は麻植郡(吉野川市)川田、鴨島など諸説ありますが、何れも古代から開かれた吉野川本流とその支流の江川•飯尾川によって形成された肥沃なところです。文献は存在しませんが、麻植郡から上流の美馬郡までのしかるべき場所で藍の栽培が始まったと私は考えています。

 

麻植郡は古くから大麻•苧麻がつくられた染織技術の先進地で、記録に残る藍栽培も早くから始まり藍商も紺屋も多く輩出しました。関東売仲間には阿波屋勘三郎•藍屋五右衛門、石原六郎•須見千次郎など明治の産業転換期に活躍した藍商がいました。明治42年に阿波藍移出の第一位だった本家の川真田市太郎(2,841俵)、分家の徳三郎(6,632俵)の川真田一族は、藍商人としての進出は遅かったようです。川真田徳三郎が徳島城下の船場に進出したのは安政2年(1855)で、魚肥•阿波三盆糖と阿波藍を取扱い幕末の激動期に藍商として活躍します。五代市太郎は藍の品質向上のために製作試験場を自宅に設けたり、明治9年の名藍社設立の中心的な役割も果たしました。阿波国共同汽船、徳島電燈会社、徳島鉄道会社の設立に参加し社長などとなり多方面の実権も握り、二代徳三郎は第一回衆議院議員となりました。明治31年に大阪北堀江に阿波藍株式会社を設立し大阪へ藍を移出する中心とし、その後は藍商から化学薬品商社への転進を図ります。

 

明治末期の麻植郡では没落する藍産業に変わって生糸生産への大転換がなされ、藍商人の蓄積資本の一部が製糸業に投下されたといわれています。

 

 


藍でつくられた色ー⑫ 萌黄

黄の冴えた黄緑色は、若葉が萌え出るような色というところからで「もえぎ」は萌木とも書かれます。随筆『貞丈雑記』(~1784執筆1843刊行)の中では「もえぎ色と云は春の頃木の葉のもえ出る時の色なり。されば萌木色と書也。萌黄色と書はあやまり也。木の字を用べし」といわれ、萌黄が用いられるのは「黄が緑に立つ」ことを意味するともいわれています。『万葉集』で「浅緑染めかけたりと見るまでに春の楊(やなぎ)はもえにけるかも」と詠まれていることから、萌黄色=浅緑ともいわれます。

 

萌黄色は平安時代の『宇津保物語』『夜の寝覚』『今昔物語』『栄花物語』『紫式部日記』では小袿や小衫などの衣装や重色に、鎌倉時代の『名後記』『平家物語』などにも多くの記載があります。萌黄色が若者の初々しさの象徴として表現され、18歳の平敦盛や20歳の那須与一が物語の中で萌黄縅の鎧を身に纏っています。

 

その後も御伽草子『酒呑童子』(室町末)「もえぎの腹巻に同毛の甲を添へ」や、浮世草子『世間胸算用』(1692)「もえぎ色に染かのこの洲崎、うらはうす紅にして」や、浄瑠璃『伽羅先代萩』(1785)「何声色とは聞かない染色だな。ヱヱかば色の事であろう。但しは萌黄か花色か」と時代が経過して庶民である町人•農民に用いられる色になります。紺屋での染めも『萬染物張物相伝』元禄6年(1693)に「下地そらいろのそめさせ、かり屋す四へんひき、みょうはんゆにてまへのとおりかげんして一へんそめ、又かり屋す四へんひき、まへのことくみやうはんをひき、水にてよくすすき申候」と詳しく書かれています。

 

奈良時代に唐から伝わり貴族や武家など特権階級のものであった蚊帳も、江戸時代になると庶民にも普及が始まります。山形屋•西川仁右衛門は永禄9年(1566)に近江国で蚊帳•生活用品の販売を始め、元和元年(1615)江戸日本橋に支店を開設します。二代目は蚊帳の麻生地を萌黄色に染め、紅布の縁をつけた「近江蚊帳」を販売し、人気を集め銘柄商品となります。萌黄色の蚊帳は喜多川歌麿など浮世絵にも見られ、文政2年(1819)に刊行された『八番日記』小林一茶の句に「馬までも 、萌黄の蚊帳に 寝たりけり」と萌黄色の蚊帳は人々に支持され大流行しました。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院


藍粉成し

「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東•名西•麻植•板野•阿波•美馬•三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。

 

「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板野の村へ 夏の土用に 藍こなし」古くから伝わる民謡からも、夏場の藍作農家は臨時の労働者を雇っていても、大変な忙しさであったことが想像できます。

 

現在でも夏の陽射しのなか一気呵成の一連の作業は、延々と続くかと思うほどの葉藍を刻むことから始まります。朝刈り取った葉を細く刻み、風によって葉と茎とに選別してから、からからに乾燥させます。かつては多くの人々の手で唐棹で縦横に打ち叩いたり、藍摺板という道具で葉を傷つけながら、その間に竹箒で上下に反転させて充分に乾燥させていました。傷つけることで汁が空気にふれ酸化したり、寝せ込みのときに水分が吸いやすい状態となり、藍草の主要な青色色素•青藍(インジゴ)を含んだ上質の藍を得ることができます。

 

 

近年は藍作人の工夫と他業種の道具類を駆使して、人手の少ないなか大量の葉藍の処理作業に最善を尽くしています。大量の葉藍が広い敷地いっぱいに広げられている景色は、藍草が染料になるために必要な時間と自然の循環過程、先人の最善周到な技能を思わずにはいられません。気温が冷える秋の彼岸の頃まで、乾燥した藍はしばらく保管されます。すでにインジゴは存在している乾藍ですが、今度は約100日間という時間のなか、繊維醗酵させることで完全な藍の染料に変化します。藍染の染液を作る方法である醗酵建てをするために必要な、藍還元菌をより多く含まれた状態にするためこの作業が生まれたのだと思います。


手板法

政時代に阿波藍を他国に移出できたことの一番の理由は、品質が優れていたからです。高価格でも染上がりが優れていたため、他藩から「移入制限」「移入禁止」政策が取られてもほぼ反古になり、紺屋から支持され阿波藍を移入することになりました。卓越した品質は藍玉製造者(玉師)の努力と工夫の積み重ねから得られたわけですが、毎年大坂、徳島で開催した「藍市」が玉師の技術向上に大きく寄与しました。いわゆる品評会であり、藍玉の等級を決めるため大坂•京都•江戸の問屋仲間など関係者が、手板法により鑑定し投票が行われました。「天上」「随一」に選ばれた生産者(藍商)には、その年の最高品質の名誉が与えられ藍玉相場の基準となり、御祝儀相場と宣伝と競売会も兼ねていました。

 

藍分などを科学的に測定する技術はまだありませんので、品質の優劣を判別するのに阿波では「手板法」といって長年の経験と勘を頼りに肉眼で鑑定する検査法を用いていました。

まず少量の藍を左の掌上に乗せ水を加え「竹べら」でよく練り合わせ、親指で力をこめて練ります。餅のような練藍になるように繰返し練り、固い餅状となる間の掌上の感触や勘の働きで、藍玉の染力を推測し醗酵のし易さを感知します。練る過程で出る灰汁の多寡で、粘着性や弾力性を判断して大体の「値頃」を踏むのです。

それから練藍を球状に揉み、掌中に水を加え練藍を研くと濃厚な藍液ができます。この液の状態と球状の練藍を紙面に押捺し日光に透かして、藍の色相・濃度などを判断します。この時使用の紙は年数の経った、薄様紙の加賀半紙が手板用紙として決められていました。 

 

 

青味のものは色は綺麗ですが質が劣るといわれ、赤味のものは色は汚いけれども、醗酵が早く、藍建てがし易いので「赤口」とも呼ばれ良質だと紺屋側では喜ばれたといいます。手板法で品質を判断できるようになることは大変重要なことで、一人前になるのに5年はかかると書かれています。この時代の藍取引では手板は製藍(玉師)・取扱(藍商)・消費(紺屋)のいづれもが、必ず身につけていなければならない鑑定法だと伝えられていました。明治になり徳島県庁で手板法と、農商務省の化学定量分析法とを競合させたところ、双方全く一致したことを官報で報じていたそうです。

 


水師学校 犬伏久助

の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。

 

初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年•1758–1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した‥‥と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。

江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培•蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。

 

『阿波藍譜』「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転しその名を不動のものとしました。


藍でつくられた色ー⑪ 藍色ⅱ

色とは緑味の青色で、藍と黄檗•刈安などで染めたものです。『延喜式縫殿寮』には濃度によって深•中•浅•白の4段階の染め方と用度が記載されています。得たい色は材質が綾•帛•糸の違いによって染料の量が異なりますので、記されている内容で全てを比べることはできません。しかし藍色の色相を考えるにはこの資料が重要だと思いますので、一部で比べてみたいと思います。比べる色は糸1絇(すが)の色名と材料です。1圍は両手を伸ばして抱えるぐらいの量で、1両は41~2gです。深藍色 藍一圍小半黄檗十四両」「深縹 藍四圍」「深緑 藍三圍苅安草大九両」これから推測すると深藍色でも、現在用いられている藍色よりも薄く黄味が強いようです。

 

次は「浅藍色 藍小半圍黄檗八両」「黄浅緑 青浅緑 藍小半圍黄檗八両」浅藍色と黄浅緑の材料が同じなことから大体想像できます。黄浅緑は鮮やかな黄緑色で「きのあさみどり」と読み、黄味が強い黄緑だといわれています。青浅緑が並列して記されていて、同じ色とする説もありますが、同じ染材を用いても染める順番や他の要素で色合いは変わります。藍で先に染めた場合と黄檗を先に染めた場合とでは、色相はずいぶん違います。どちらの色にしても相当黄味が強い青色なのではないかと考えますが、藍色を多くの書籍や色名帳では青味の強い色に想定しています。藍色は藍草が成長する過程の葉の色相を、真似たような色ではないでしょうか。

 

 

初め黄味のある色として用いられていた藍色が「純粋な深い青色を藍色と呼ぶようになったのは、江戸時代以降になってからです。」と多くの方や書物で云われていますが、用例が見つかりません。能因本『枕草子』(10世紀後)「あゐときはだと」や、連歌論書『筑波問答』(14世紀後)「あゐより出てあゐよりあをく、水より出て水より寒し」など藍草の「あゐ」を記したものは見つかりますが、「藍色」が衣装などに使われている書物を殆ど見ることがありません。浮世草子『好色万金丹』(1694)の中に「かかる家の女郎は、白縮緬に縫紋の小袖を浅葱に染め直し、其次を空色、其跡をあゐみるちゃに焼き返す事お定まり也」使用しながら藍で染め重ね、布帛が大切に扱われている様子がわかります。江戸時代の藍はあくまでも染料で、濃淡を表す色名は浅葱•千草•はなだ色•御納戸色•瑠璃色•瑠璃紺などが登場しますが、所説の藍色が使われていた例言を知りたいです。


住吉大社と海上運送

島市勢見の金比羅神社は九メートル余りの石灯籠で日本一といわれるくらい立派なものですが、同じく藍玉大阪積株仲間が大阪住吉大社に寄進した石灯籠も見事な一対です。天保2年(1831)に献灯され「永代常夜燈」頼山陽:筆と書かれた石標もそえられ、北参道一の鳥居の右奥にあります。海上守護の祈願をこめるとともに、広告塔としての意味合いもあったといわれる名筆石灯籠です。住吉大社は全国約2300社の住吉神社の総本山で、藍商人や海上運送の関係者の崇敬を集めていました。石灯籠も藍商以外で撫養(鳴門)、那賀郡などの廻船業のものが見られ、当時の海運関係の繁栄が想像できます。境内には様々な地域から寄進された石灯籠の数が大小あわせて約620基以上も残されていて、元禄年間(1688–1703)以降に奉納されたのものが圧倒的に多く、各業界の石灯籠からも大坂を中心に商品が活発に流通していたことや、貨幣経済や町人階級の経済発展の様子がわかります。

 

藍商人たちは全国の売場へ海上運送で藍玉を搬入し、問屋経由で仲買が紺屋へ売りさばくのですが、売場先では相互協調のため仲買は京都在に得意先を持つ者同士が祇園講、大和売が春日講というように仲間を結成していました。そして祇園講は八坂神社、春日講は奈良春日明神へ常夜灯を寄進しています。同業組合のような株仲間が信仰を軸に展開しているようにも窺えます。

大坂販売機構は古来からの由緒•実績•慣例があり大変複雑で、幕府の保護もあることから藍商人とは紛争が尽きませんでした。大阪四天王寺勝鬘院多宝塔に安置している愛染明王の信仰を軸に、大坂問屋と徳島問屋と仲買の利害関係の協調機関に愛染講があり、阿波藍師と大坂仲買•愛染講との相互援助機関ともみれる記録も残されています。天保14年の天保改革によって株仲間解放なども経て、明治10年頃まで存続していたようです。

 

 

伊勢神宮参拝の「伊勢講」住吉大社内市戎の「信心講」讃岐金刀比羅宮の「金平講」などは、商売繁盛の祈願と同業懇親とを目的にした利害関係のないものもあったようです。