眉山麓から藍のはなし

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阿波藍の技術移転ー佐藤信淵

品作物が盛んになると農業技術を記録•解説した『農業全書』宮崎安貞『綿圃要務』大蔵永常などの農書が成立し、写本や木版印刷によって広く普及しました。全国各地の篤農家を尋ねる農学者や農業記者も現れ、その土地で行われている農業技術が記録されるようになります。佐藤信淵は文政12年(1829)に『草木六部耕種法』の中で有名な藍の産地を紹介し、「藍葉を作るには阿波国の作法学ぶべし」「藍を作るには阿波の国法を第一とし、筑後国久留米を第二とす」として栽培法•藍玉製法について記していますが、他にも藍玉に砂を混ぜる場合の「錆砂」を阿波では選んで使用していることなども記しています。

 

佐藤信淵は明和6年(1769)出羽国雄勝郡(秋田県)に生まれ、江戸に出てから儒学•国学•神道•本草学•蘭学•天文学を学んだそうです。諸国を遍歴し見聞した事も含め著書は極めて多様で、農学から国家経営におよび、極めて実際的なものから農政•物産•海防•兵学•天文•国学など広範に及びます。「佐藤信淵の言説は虚構が多く、著書の刊行も明治になってからで、阿波に移住した事実もなく、蜂須賀家の公文書などあらゆる記録に載っていない」と森銑三は云い、詐欺師扱いをしています。真相はわかりません。江戸中期以降の徳島藩の藍栽培と製法は、他領•他国へ秘密が漏泄したときの規正制裁は厳重でした。当時の厳しい環境の阿波に佐藤信淵が藩家老集堂氏の食客として、文化5年(1808)から阿波に一年近く滞在したと云われ、実際文化6年(1809)2月に名東郡鮎喰川原で大砲の試射をしたことが記録されています。『草木六部耕種法』の著作前に藍の製造法を視察していた、そして記述され紹介されていた、という特別な扱いがあったことに驚くばかりです。

 

著書が膨大で広範囲なこともあって佐藤信淵の評価は未だ定まっていませんが、展開された理論の中に農政経済論があり思想の動機は、国内の農村の貧困にあったことは事実だったと思います。国内を見聞した信淵には徳島藩に於いて農民による藍という商品作物の展開は、商品経済が発展し流通も拡大していく状況下に、諸藩の政策の思索となったのでしょうか。全国的な規模で封建制度を維持し領主経済の改革に、殖産興業政策の成果をあげ、窮乏を救済する手段を主張することが必要でした。

 

 

『草木六部耕種法』著作後の天保3年(1832)には武蔵国足立郡鹿手袋村(さいたま市南区)に住み、農園を持ち藍作を試みていたそうです。同年に『農政本論』を刊行します。


阿波藍の技術移転ー福井•大分•山梨県

島藩の藍製造法を探るため他国からの隠密や、四国八十八箇所の巡礼者を装った間者の話しは数多く残っています。栽培•製造方法の技術漏泄には厳格な規制のありましたが、明治維新になってから他府県の要請によって藍作の指導教師として赴任も可能になり、赴任地に永住した徳島県人も多かったようです。長く守ってきた阿波の技術を、時流の変革の機会に憚ることなく享受することができたのです。

 

豊後国北海部郡下ノ江(大分県臼杵市)の井沢幸兵衛は、幕末の阿波へ藍の製造法を修業しに来ました。文久4年(1864)に幸兵衛は徳島城下の水師を養成する私立の学校で、佐藤松五郎から「藍作り方伝授書」を与えられています。臼杵に伝わる伝承によれば、四国遍路にでかけた幸兵衛がこの地の藍づくりの活気に満ちた様子を見て、わが村でも藍を栽培したいと、仮病まで装おって懇願し修得したことが『臼杵ものがたり』(臼杵市立図書館刊行)に詳しく掲載されています。事実とは少し違いそうですが、幕末の阿波で他藩の人にも藍作を伝授していた興味深い史料です。臼杵に戻った幸兵衛は土質にあった育苗や栽培を工夫し、近隣の人々に教え藍作は下ノ江から下北、江無田地方まで普及し明治から大正まで盛んに行われたようです。明治32年に井沢幸兵衛の業績をたたえ「生藍功績碑」と刻まれた石碑が、農家の人々の手で建てられています。明治30年の大分県の栽培面積は471町歩(ha)です。

 

明治8年(1875)に福井県吉田郡山東村(福井市志比口町)に移住した喜多新助は、吉田郡の人々に藍種を授け藍の栽培と製造を教えました。新助は天保14年(1843)に、麻植郡桑村(川島町)で藍製造を営む家に生まれます。新助が移住した事情はわかりませんが、地味が藍作に適していて藍作は年を追って盛大になって、明治28年の内国勧業博覧会で協賛功労賞を受けるまでになりました。明治30年には県産を興隆した功績により緑綬褒章を下賜され、吉田郡の人々から「藍業紀功碑」が長松寺の境内に建立されました。明治30年の福井県の栽培面積は317町歩(ha)です。

 

 

阿波郡勝命村谷島(阿波町)の藍師吉田屋の二男片山亀二郎は、山梨県の招聘により藍作の指導教師となって赴任しました。天保4年(1833)生まれの亀二郎は若い頃には京に出て、やはり生家が藍商であった後藤田南渓について南画を学び、勝命村の渓流•菊里谷から号を菊渓とし嘉永5、6年には長崎でも学んでいます。明治以降に家業の衰退により山梨へ移住をしますが、明治30年の山梨県の栽培面積は121町歩(ha)で、40年には1町歩と記録されています。技術移転の調査資料などはありませんが、他にも類似の事象はあったと考えられます。


阿波藍の技術移転ー筑後国

後平野を蛇行して流れる筑後川の流域は、古くから文化が発達し3世紀頃には大集落があったといわれています。久留米は筑後川の中流域に位置し、元和6年(1620)に有馬豊氏が丹波福知山より入国し有馬藩の城下町になります。ここにも「藩主が播磨姫路より藍の種をとりよせて藍栽培を始める」という阿波藩と同じような説話が残り、その後の栽培は「領内多く産出し四方に送る」と『筑後志』(1777)に書かれています。『久留米絣』(1969刊行)の中に「はじめは椿葉(丸葉)或いは藍を栽培していましたが、阿波から上香(上粉)の種を取寄せ、次いで少上香(小上粉)を取寄せ栽培地域を拡大した」との記載があります。

 

史料によれば享和3年(1803)に御井郡北野大庄屋•上瀧茂吉が玉藍を製造したといわれ、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、浮羽、竹野、八女、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。久留米絣は久留米近郊で寛政11年(1799)に始まり、絣の生産が増えるとともに藍栽培も盛んになります。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになります。

 

正保2年(1645)に筑後川の川港の瀬ノ下に久留米藩によって御米蔵が設けられ物資の集散地となり、廻船問屋•松屋は大坂をはじめ西日本各地と密接に結びつき、物産を他国に移出していました。松屋の初代三枝善次郎は甲州出身で、有馬豊氏に随従した武士であったそうです。安永2年–嘉永7年(1773–1854)から六代松屋の家業は発展し、文化8年-明治2年(1812–1869)には国産玉藍御用掛に任命され御用商人として活躍します。20ケ所(領内22ケ所)の藍手配所を支配し、文政10年(1827)には長州藩へ筑後藍を統括して移出していました。文化年間中(1804–18)には筑後藍は他国や大坂、江戸へと移出をはじめ、天保10年(1839)には2683俵(1俵50斤)が移出されています。筑後藍を国外に移出するほど藍栽培が盛んに行われてるこの地域に、文久元年(1861)に阿波藍を1795俵移入していることが記録に残っていて、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされていたと考えられています。

 

 

明治になると久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。着実に生産が増大するなか、輸入染料による粗製乱造で信用を失った久留米絣は、組合によって天然藍の保護と堅牢度を守り、品質と信用を取戻します。久留米絣の染色には地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため、徳島県に伝習生を派遣して藍製法を学びます。久留米絣の生産は明治19年46万反、明治28年85万反、大正期になると100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。明治中期以降はインド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透します。福岡県の藍の栽培面積は明治30年2,062町歩(ha)、40年352町歩、大正2年88町歩となります。厳格に管理していた久留米絣も、明治40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入され藍栽培は衰退しました。


阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。


阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。