眉山麓から藍のはなし

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阿波藍の技術移転ー北海道藍 

波藍の栽培にとって干鰯•鯡粕などの魚肥を移入することが、長い歴史の中で大きな経営戦略の一つでした。江戸時代後期には蝦夷地(北海道)から北前船航路で、大量の鯡粕を交易していました。徳島藩の洲本城代であった稲田家は幕末に起した庚午事変の処分として、明治3年日高国静内郡に強制移動が命じられます。稲田家臣団の開拓事業は、およそ環境の違う土地での開墾に苦戦を重ねましたが、藍作を取り入れたことで大きな成果をあげました。

 

明治25年に徳島県知事が、県民20万人を北海道に移住させる計画案を発表しました。基幹産業だった藍の衰退が始まった頃で、当時の人口約70万人のうち過剰な県民を移住させようと画策したものでした。知事の辞職により実現はしませんでしたが、停滞する経済や産業の打開策として県内の有力者による団体が組織され、多数の農場が道内各地に開設されることになります。

 

明治12年仁木竹吉は麻植•美馬•三好の農民360余人を、後志国余市郡の原野に入植させ藍作を始めます。胆振国有珠郡紋別に移住した鎌田新三郎も藍作と藍の加工を始め、蒅の製造に成功しています。板野郡長江村(鳴門市大津)出身の滝本五郎は大農経営による農場開拓を目指し、安い鯡粕が大量に入手できると移住を決めました。明治14年に実弟阿部興人と徳島興産社を設立し、石狩国札幌郡篠路村で農場と藍栽培を始めます。始めは出来た葉藍を乾燥させ徳島へ送り蒅に加工しました。徳島県の藍取締り規則で他県からの買入を禁止したことより、北海道庁と徳島県の「経済摩擦」にまで発展して、滝本らは地元で葉藍から蒅に加工することになりました。18年に徳島から技術者を雇い入れ、寒い土地での藍の醗酵に不安はあったものの良質な蒅ができました。

 

 

北海道庁の支援も受け製藍事業を進め、製造所2棟を新築し藍の作付面積も増やします。藍は反当たりの収入が多いだけではなく、種子や肥料、機械まで貸付て買入代金で精算することで急速に広まりました。20年頃には阿波藍商を動揺させるほど、北海道藍が関東へも進出していたそうです。29年には道内の藍作面積は1,418町歩(ha)に達しましたが、天然染料から化学染料への転換が始まり、30年には徳島興産社は事業の中止に追い込まれました。37年には化学藍が全国的に大量に使用されはじめ、30年には889町歩、40年には386町歩、大正4年201町歩となります。明治26年に徳島県から移住した篠原家は、現在でも伊達市で藍製造をしています。


『阿波藍のはなし』-藍を通して見る日本史- 2018.10 刊行 〈メールにてお申込ください〉

私が藍との関わりの機会を得たのは、両親が徳島県出身で祖母の家へ訪れたおり、藍染工場の見学に行ったことから始まりました。思春期の1970年代は伝統的な工芸や郷愁を感じる日本の地域が注目を集めていました。藍染のことは書物や雑誌、メディアによって知ってはいましたが、徳島で聞いた話は藍の染料と染色液をつくる過程と藍栽培量の少なさでした。全国で一番栽培されている徳島で藍作農地が4~10ヘクタール程で、北海道など他地域の栽培も僅かだと知りました。編集者や記者たちは全国で藍染をしている人々の話を伝えていましたが、使われている染料が作られている農地面積や栽培量は気に掛けず、農林水産省の統計で調べることは行わなかったようです。

 

1988年1月29日-2月10日に池袋の西武アート・フォーラムにて「藍染の展望:江戸–現代/阿波藍誕生600年記念」協力:京都無名舎/大阪日本民藝館 と銘打った展覧会が開催されました。本展の副題が阿波藍誕生600年記念となった典拠は、「兵庫北関入舩納帳」の発見によって文安2年(1445)正月から文安3年正月までの関銭徴収台帳のなかに、年間約500石(1石=150キロ 約75トン)の葉藍が、阿波から東大寺領北関に荷揚げされていたことの記載があったことに依ります。

 

阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたい、と考えるようになって徳島へ移住することを決心しました。藍が渡来した時期•経過も知りたい、奈良時代のことは比較的書物でわかるけど古代から現代までの事情が知りたい、蓼藍の原産地は温暖な東南アジアや中国南部といわれているけど、温帯地域の日本で染法が根付く筋道など、調べたいことが尽きることはありませんでした。気が付くと40年が過ぎてしまいました。染織の教育も歴史も専門家ではないので、知識も筆力も満足できるものではありません。優れた人に資料提供を願っていたのですが、機会に恵まれず人生の先も少なくなり暫定的に纏めました。そしてようやく1冊の本が出来ました。『阿波藍のはなし』-藍を通して見る日本史- として10月8日に自費出版します。今まで集めてきた資料の纏め集ですので厳密性に不安はありますが、興味を持って読んでくださった方に十分な検証をしていただきたいと希っています。多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと思います。皆様のご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。

 

阿波藍のはなしー藍を通して見る日本史ー

文:森くみ子 写真:伊藤洋一郎 森くみ子

発行所:自由工房

サイズ B5 132頁 左綴じ

価格 3,240円(税込)

表紙 あさぎ版 or しろ版(内容は同じです)

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 ★ 表紙の色はあさぎ版としろ版がありますが、本文の内容は同じです。表紙の色を決めかねたことより2色で展開しています。指定の色が書かれていない場合こちらで決めさせていただきます。まぎらわしくて申し訳ございません。


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藍の品種 Ⅲ

治31年に徳島県農事試験場の技師吉川祐輝が調査した藍の品種は、青茎小千本 赤茎小千本 百貫 上粉百貫 上精百貫 両面平張 じゃんぎり(散切) るりこん千本 青小千本播磨青 おりき千本 赤茎大柄 大葉百貫 椿葉 縮緬 縮葉 越後 青茎中千本 赤茎中千本 赤茎大千本 大柄百貫と20種の記載があります。他にも赤茎百貫 青千本 赤千本 紺葉 丸葉藍など明治になってからは栽培種の名称は数多く記載され、これら品種名の中にはほとんど同じものも含まれていて、今日では判別することは不可能です。

 

明治6年(1873)に発行された『あゐ作手引艸』は備後福山の藤井行磨によって藍作から藍粉成しまでの行程が書かれています。藍の品種も獅子葉 知々美葉 丸葉 剣先葉 大葉 木瓜葉 出雲葉 小千本青 小千本赤軸 小千本両面と10種が記載されています。後藤捷一氏によると阿波の手法の紹介と、記載されている品種は全て阿波での栽培種であると云われています。

 

合成藍の輸入によって栽培面積が急速に減った大正9年に、従来から栽培されている品種が雑多であったため、整理して優良な品種を試験場で選出しました。最も収量•価格の良い小上粉は明治初期には栽培されていなかった品種で、京都九条の水田で栽培されていたため水藍とも呼ばれていた一種でした。百貫 両面平張 赤茎小千本 上粉百貫 るりこん千本 じゃんぎり 青茎小千本が上位に選ばれ、指導奨励されたことでその後は栽培される品種が少なくなっていきます。

 

 

現在(2007年)農業試験場で栽培されているのは、小上粉の白花種と赤花種 赤茎小千本 百貫 宮城 松江 広島神辺 大千本 千本 紺葉 那賀椿の11品種です。最近になって藍の研究は急速に進み、青藍(インジゴ)の含有量の測定は乾燥方法によっても違うことが判明したり、これからいろいろと解明されると思われます。品種別の含有量の比較はまだ決定されたわけではありませんが、大千本 紺葉 百貫 那賀椿の順になっていて、現在主力品種とされ栽培している小上粉白花は中間くらいです。


藍の品種 Ⅱ

『会津農書』 貞享元年(1684)は佐瀬与次右衛門によって書かれた独創的な農業書です。稲作•畑作•農業経営を上中下に分け書いた内容を、農民にわかりやすく和歌に託して啓蒙した歌農書も含まれています。この中に「元禄11年(1698)に阿波国名東郡猪津(徳島市)の住人、仁木三右衛門尉政義、宍戸涼太夫正秀が会津幕内村(会津若松市)に来て藍畑手作したので、其業微細に見て一巻の書に綴り、其あらましを歌農書に記した」という内容が含まれています。一巻の書というのがどのようなものか分りまませんが、中巻の畑作のなかに藍作の記載もあり、藍に関する歌は43首残されています。藍の栽培製造の技術が藩外に漏れることは稀で、阿波藩によって御法度になる前のことだったのでしょうか、江戸初期の阿波藍のことがわかる貴重な資料です。

 

この歌の中に藍の品種のことが出てきます。大がらあい•小がらあい•槐藍•大藍•蓼藍•丸葉•長葉藍の品種名が見られ、会津では丸葉、槐藍、長葉藍を蓼藍といい、阿波では大がらあいを丸葉藍、小がらあいを長葉藍と呼んでいると書かれています。藍は生命力のある草ですので、栽培される環境によっても様々な変化を遂げ、文献による品種名だけで個体を特定することは困難な作業です。

 

藩政時代に栽培されていた品種として水藍 陸藍 菘藍 円葉藍 蓼藍 大藍 丸藍 山藍などが様々な文献に記されていますが、水藍 陸藍は栽培地による区別の呼名で、菘藍 蓼藍は科目の種類です。大藍 丸藍 山藍 円葉藍は蓼科であると書かれています。徳島では平地から山分まで栽培されていましたので、地質に合う良い品種を植える事や自然交配によって品種が増えた時は選別して最良の品種を奨励していたと書かれていますが、藍が商品作物として保護されていたため詳細な図も統一された呼称の説明もありません。

 

昭和25年(1950)に重要無形文化財に指定された千葉あやの氏が栽培していた藍の品種は、阿波では明治期に栽培されていた「縮葉」と呼ばれていた品種でした。宮城県栗駒山という自然環境に適応するため、随分と形態が変化したようで一見では分らなかったそうです。

 

 

*年代の記載に正誤があると思われますが、資料の年代のまま記載しました。


藍の品種 Ⅰ

島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令•賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

十世紀になると『倭名類聚抄』『延喜式』に染色処方も記されるようになります。『延喜式』主計寮には諸国へ庸として乾藍三斗三合三勺が課せられていること、中男作物として紅花•茜•黄檗などの染料も課せられている国が記されています。藍の栽培は律令国家のもと租税の調•庸として中央へ納めるため、急速に各地の荘園に広がります。

 

平安時代の辞書『倭名類聚抄』(931–938)には「多天阿井」タデアイと科目がわかる表記で書かれています。蓼藍には多くの種があり、栽培地により同種のものでも呼名が変わることもあります。律令時代に広く日本列島でも栽培され始め、その後武士の時代には貴族の力が弱り藍が中央に集まることは少なくなります。新しい有力者に保護された藍は鎌倉時代から続く戦乱にも残り、秩序が回復される時まで栽培され続けたのだと思います。『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍と記されていて、京蓼は小上粉のことかも知れませんが、高麗藍や広島藍は如何なる種のことなのか確認ができません。

 

 

和歌山県山間部で大正末に藍作を廃業した人が、大正11年から60年間絶やすこと無く栽培してきた藍が徳島では絶えた「椿葉蓼藍」だったことがあります。椿葉蓼藍は別名「赤茎中千本」徳島県では明治–大正時代まで栽培されてきた記録がありますが、収量•品質•価格において栽培されなくなった品種でした。徳島県の山間部でも小上粉と椿藍との交配品種のような藍が見つかったことがあります。和紙漉きで痛んだ手に使うため家の廻りに自然に育っていたそうです。すでに徳島で見られなくなった青茎小千本などの品種も、もしかしたら何処かで栽培されているかも知れません。