眉山麓から藍のはなし

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藍と阿波


藍粉成し

「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東•名西•麻植•板野•阿波•美馬•三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。

 

「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板野の村へ 夏の土用に 藍こなし」古くから伝わる民謡からも、夏場の藍作農家は臨時の労働者を雇っていても、大変な忙しさであったことが想像できます。

 

現在でも夏の陽射しのなか一気呵成の一連の作業は、延々と続くかと思うほどの葉藍を刻むことから始まります。朝刈り取った葉を細く刻み、風によって葉と茎とに選別してから、からからに乾燥させます。かつては多くの人々の手で唐棹で縦横に打ち叩いたり、藍摺板という道具で葉を傷つけながら、その間に竹箒で上下に反転させて充分に乾燥させていました。傷つけることで汁が空気にふれ酸化したり、寝せ込みのときに水分が吸いやすい状態となり、藍草の主要な青色色素•青藍(インジゴ)を含んだ上質の藍を得ることができます。

 

 

近年は藍作人の工夫と他業種の道具類を駆使して、人手の少ないなか大量の葉藍の処理作業に最善を尽くしています。大量の葉藍が広い敷地いっぱいに広げられている景色は、藍草が染料になるために必要な時間と自然の循環過程、先人の最善周到な技能を思わずにはいられません。気温が冷える秋の彼岸の頃まで、乾燥した藍はしばらく保管されます。すでにインジゴは存在している乾藍ですが、今度は約100日間という時間のなか、繊維醗酵させることで完全な藍の染料に変化します。藍染の染液を作る方法である醗酵建てをするために必要な、藍還元菌をより多く含まれた状態にするためこの作業が生まれたのだと思います。


手板法

政時代に阿波藍を他国に移出できたことの一番の理由は、品質が優れていたからです。高価格でも染上がりが優れていたため、他藩から「移入制限」「移入禁止」政策が取られてもほぼ反古になり、紺屋から支持され阿波藍を移入することになりました。卓越した品質は藍玉製造者(玉師)の努力と工夫の積み重ねから得られたわけですが、毎年大坂、徳島で開催した「藍市」が玉師の技術向上に大きく寄与しました。いわゆる品評会であり、藍玉の等級を決めるため大坂•京都•江戸の問屋仲間など関係者が、手板法により鑑定し投票が行われました。「天上」「随一」に選ばれた生産者(藍商)には、その年の最高品質の名誉が与えられ藍玉相場の基準となり、御祝儀相場と宣伝と競売会も兼ねていました。

 

藍分などを科学的に測定する技術はまだありませんので、品質の優劣を判別するのに阿波では「手板法」といって長年の経験と勘を頼りに肉眼で鑑定する検査法を用いていました。

まず少量の藍を左の掌上に乗せ水を加え「竹べら」でよく練り合わせ、親指で力をこめて練ります。餅のような練藍になるように繰返し練り、固い餅状となる間の掌上の感触や勘の働きで、藍玉の染力を推測し醗酵のし易さを感知します。練る過程で出る灰汁の多寡で、粘着性や弾力性を判断して大体の「値頃」を踏むのです。

それから練藍を球状に揉み、掌中に水を加え練藍を研くと濃厚な藍液ができます。この液の状態と球状の練藍を紙面に押捺し日光に透かして、藍の色相・濃度などを判断します。この時使用の紙は年数の経った、薄様紙の加賀半紙が手板用紙として決められていました。 

 

 

青味のものは色は綺麗ですが質が劣るといわれ、赤味のものは色は汚いけれども、醗酵が早く、藍建てがし易いので「赤口」とも呼ばれ良質だと紺屋側では喜ばれたといいます。手板法で品質を判断できるようになることは大変重要なことで、一人前になるのに5年はかかると書かれています。この時代の藍取引では手板は製藍(玉師)・取扱(藍商)・消費(紺屋)のいづれもが、必ず身につけていなければならない鑑定法だと伝えられていました。明治になり徳島県庁で手板法と、農商務省の化学定量分析法とを競合させたところ、双方全く一致したことを官報で報じていたそうです。

 


水師学校 犬伏久助

の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。

 

初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年•1758–1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した‥‥と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。

江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培•蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。

 

『阿波藍譜』「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転しその名を不動のものとしました。


藍でつくられた色ー⑪ 藍色ⅱ

色とは緑味の青色で、藍と黄檗•刈安などで染めたものです。『延喜式縫殿寮』には濃度によって深•中•浅•白の4段階の染め方と用度が記載されています。得たい色は材質が綾•帛•糸の違いによって染料の量が異なりますので、記されている内容で全てを比べることはできません。しかし藍色の色相を考えるにはこの資料が重要だと思いますので、一部で比べてみたいと思います。比べる色は糸1絇(すが)の色名と材料です。1圍は両手を伸ばして抱えるぐらいの量で、1両は41~2gです。深藍色 藍一圍小半黄檗十四両」「深縹 藍四圍」「深緑 藍三圍苅安草大九両」これから推測すると深藍色でも、現在用いられている藍色よりも薄く黄味が強いようです。

 

次は「浅藍色 藍小半圍黄檗八両」「黄浅緑 青浅緑 藍小半圍黄檗八両」浅藍色と黄浅緑の材料が同じなことから大体想像できます。黄浅緑は鮮やかな黄緑色で「きのあさみどり」と読み、黄味が強い黄緑だといわれています。青浅緑が並列して記されていて、同じ色とする説もありますが、同じ染材を用いても染める順番や他の要素で色合いは変わります。藍で先に染めた場合と黄檗を先に染めた場合とでは、色相はずいぶん違います。どちらの色にしても相当黄味が強い青色なのではないかと考えますが、藍色を多くの書籍や色名帳では青味の強い色に想定しています。藍色は藍草が成長する過程の葉の色相を、真似たような色ではないでしょうか。

 

 

初め黄味のある色として用いられていた藍色が「純粋な深い青色を藍色と呼ぶようになったのは、江戸時代以降になってからです。」と多くの方や書物で云われていますが、用例が見つかりません。能因本『枕草子』(10世紀後)「あゐときはだと」や、連歌論書『筑波問答』(14世紀後)「あゐより出てあゐよりあをく、水より出て水より寒し」など藍草の「あゐ」を記したものは見つかりますが、「藍色」が衣装などに使われている書物を殆ど見ることがありません。浮世草子『好色万金丹』(1694)の中に「かかる家の女郎は、白縮緬に縫紋の小袖を浅葱に染め直し、其次を空色、其跡をあゐみるちゃに焼き返す事お定まり也」使用しながら藍で染め重ね、布帛が大切に扱われている様子がわかります。江戸時代の藍はあくまでも染料で、濃淡を表す色名は浅葱•千草•はなだ色•御納戸色•瑠璃色•瑠璃紺などが登場しますが、所説の藍色が使われていた例言を知りたいです。


住吉大社と海上運送

島市勢見の金比羅神社は九メートル余りの石灯籠で日本一といわれるくらい立派なものですが、同じく藍玉大阪積株仲間が大阪住吉大社に寄進した石灯籠も見事な一対です。天保2年(1831)に献灯され「永代常夜燈」頼山陽:筆と書かれた石標もそえられ、北参道一の鳥居の右奥にあります。海上守護の祈願をこめるとともに、広告塔としての意味合いもあったといわれる名筆石灯籠です。住吉大社は全国約2300社の住吉神社の総本山で、藍商人や海上運送の関係者の崇敬を集めていました。石灯籠も藍商以外で撫養(鳴門)、那賀郡などの廻船業のものが見られ、当時の海運関係の繁栄が想像できます。境内には様々な地域から寄進された石灯籠の数が大小あわせて約620基以上も残されていて、元禄年間(1688–1703)以降に奉納されたのものが圧倒的に多く、各業界の石灯籠からも大坂を中心に商品が活発に流通していたことや、貨幣経済や町人階級の経済発展の様子がわかります。

 

藍商人たちは全国の売場へ海上運送で藍玉を搬入し、問屋経由で仲買が紺屋へ売りさばくのですが、売場先では相互協調のため仲買は京都在に得意先を持つ者同士が祇園講、大和売が春日講というように仲間を結成していました。そして祇園講は八坂神社、春日講は奈良春日明神へ常夜灯を寄進しています。同業組合のような株仲間が信仰を軸に展開しているようにも窺えます。

大坂販売機構は古来からの由緒•実績•慣例があり大変複雑で、幕府の保護もあることから藍商人とは紛争が尽きませんでした。大阪四天王寺勝鬘院多宝塔に安置している愛染明王の信仰を軸に、大坂問屋と徳島問屋と仲買の利害関係の協調機関に愛染講があり、阿波藍師と大坂仲買•愛染講との相互援助機関ともみれる記録も残されています。天保14年の天保改革によって株仲間解放なども経て、明治10年頃まで存続していたようです。

 

 

伊勢神宮参拝の「伊勢講」住吉大社内市戎の「信心講」讃岐金刀比羅宮の「金平講」などは、商売繁盛の祈願と同業懇親とを目的にした利害関係のないものもあったようです。