眉山麓から藍のはなし

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阿波藍の技術移転ー筑後国

後平野を蛇行して流れる筑後川の流域は、古くから文化が発達し3世紀頃には大集落があったといわれています。久留米は筑後川の中流域に位置し、元和6年(1620)に有馬豊氏が丹波福知山より入国し有馬藩の城下町になります。ここにも「藩主が播磨姫路より藍の種をとりよせて藍栽培を始める」という阿波藩と同じような説話が残り、その後の栽培は「領内多く産出し四方に送る」と『筑後志』(1777)に書かれています。『久留米絣』(1969刊行)の中に「はじめは椿葉(丸葉)或いは藍を栽培していましたが、阿波から上香(上粉)の種を取寄せ、次いで少上香(小上粉)を取寄せ栽培地域を拡大した」との記載があります。

 

史料によれば享和3年(1803)に御井郡北野大庄屋•上瀧茂吉が玉藍を製造したといわれ、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、浮羽、竹野、八女、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。久留米絣は久留米近郊で寛政11年(1799)に始まり、絣の生産が増えるとともに藍栽培も盛んになります。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになります。

 

正保2年(1645)に筑後川の川港の瀬ノ下に久留米藩によって御米蔵が設けられ物資の集散地となり、廻船問屋•松屋は大坂をはじめ西日本各地と密接に結びつき、物産を他国に移出していました。松屋の初代三枝善次郎は甲州出身で、有馬豊氏に随従した武士であったそうです。安永2年–嘉永7年(1773–1854)から六代松屋の家業は発展し、文化8年-明治2年(1812–1869)には国産玉藍御用掛に任命され御用商人として活躍します。20ケ所(領内22ケ所)の藍手配所を支配し、文政10年(1827)には長州藩へ筑後藍を統括して移出していました。文化年間中(1804–18)には筑後藍は他国や大坂、江戸へと移出をはじめ、天保10年(1839)には2683俵(1俵50斤)が移出されています。筑後藍を国外に移出するほど藍栽培が盛んに行われてるこの地域に、文久元年(1861)に阿波藍を1795俵移入していることが記録に残っていて、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされていたと考えられています。

 

 

明治になると久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。着実に生産が増大するなか、輸入染料による粗製乱造で信用を失った久留米絣は、組合によって天然藍の保護と堅牢度を守り、品質と信用を取戻します。久留米絣の染色には地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため、徳島県に伝習生を派遣して藍製法を学びます。久留米絣の生産は明治19年46万反、明治28年85万反、大正期になると100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。明治中期以降はインド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透します。福岡県の藍の栽培面積は明治30年2,062町歩(ha)、40年352町歩、大正2年88町歩となります。厳格に管理していた久留米絣も、明治40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入され藍栽培は衰退しました。


阿波藍の技術移転ー山城国

武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野•愛宕郡にまたがる地に都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津•大井津を整備して、全国の荘園や国衙•郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸•近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

 

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物•絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立•正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

 

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

 

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010•審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖•津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したといわれ、その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

 

 

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主•有馬豊氏の所領でした。


阿波藍の技術移転ー安芸国•吉備国

芸•備後•備中•備前は瀬戸内海に面し海運の利便性と、温暖な気候と陽光に恵まれ、早くから棉花の栽培と木綿織りが行われました。戦国時代が終わった藩主たちによって海岸部や河口流域では、大規模な新田開発が江戸時代を通して明治になっても進められます。新開地は風土•経済•社会状況に適した商品作物の栽培がそれぞれの地域で行われました。特色ある農業技術と広島鍬•備中鍬など道具の進歩、近畿の先進農業地域で始まった魚肥の使用などで、棉•藺草•菜種•藍などの栽培が盛んになります。鉄製農具の改良の背景は、この地域が古くから良質の砂鉄を産出し、山間部でのたたら製鉄•鉄生産の進展が鍬鋤などの農具類の生産を拡大しました。新しい技術の伝達の早さは、児島をはじめ瀬戸内海の東西交通の要衝として牛窓•倉敷•玉島•下津井•福山•鞆•尾道•竹原•御手洗•鹿老渡•広島などよい湊に恵まれ、海運による商業の在り方と深く関係しています。

 

『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍の品種名として「高麗藍・京蓼・広島藍」と記されていることからも、安芸では早い時期から藍の栽培が行われていたと考えられます。享和2年(1802)になって阿波藍商人が関東、各地で仲間組合を結成したころ、安芸•美濃•尾張などの他国藍が市場に出回るようになっていました。備後水野藩は元和5年(1620)に入部すると藺草•塩•棉•藍など商品作物を奨励します。安芸国•備後国では17世紀前半に沿岸部•河口域で藍や棉の栽培が始まり、備後•神辺では神辺縞や福山縞が織られ、芦田では文久元年(1861)に輸入紡績糸での文久絣の生産を始め、明治になって備後絣と名付けられ広く流通します。

 

備中国•備前国でも棉作は17世紀前半に始まり、文化–安政(1804–1860)にかけてが最盛期になります。繰綿問屋は各地から繰綿を集荷し、干鰯などを仕入れて棉作地に販売しました。備中•井原では天和年間(1681)に藍が栽培されると浅黄木綿•紺木綿が織られ、天保年間(1830–44)には藍栽培の発展に伴い藍染織物や備中小倉織が織られるようになります。備前•児島でも寛政年間(1789–1801)ごろ備前小倉織•真田織•雲斎織•袴地が織られるようになり、文政–天保(1818–1843)に急速に発展します。上質であった備中繰綿は早くから藍商人によって、阿波藍と一緒に下り荷として各地の売場、初期の木綿織物産地へ移出されています。藍商人鈴屋の出店も備中玉島と安芸尾道にあり、備中繰綿を薩摩や日向、肥後へ移出していました。

 

明治6年(1873)に備後福山の藤井行磨『あゐ作手引艸』によって、阿波の藍作と藍製造の行程が詳しく紹介されます。藩制時代の阿波の栽培製法は他領•他国への漏洩対策は厳重でしたが、明治維新で全て解放されました。大量の輸入紡績綿を染める需要増進の時期と、棉栽培から藍栽培への転換期に長年蓄積された手法が各地に移植されました。

 

明治30年の広島の藍栽培面積は1,947町歩(ha)岡山は2,893町歩で有数の産地になりますが、40年には広島664町歩、岡山915町歩と衰退に向かいます。

 


阿波藍の技術移転ー尾張国

保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城•尾張•美濃が記されていることから、尾張•美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡•丹羽郡•海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

 

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村•津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡•海東郡•海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村•愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

 

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

 

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡•海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培•製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡•渥美郡•八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

 

 

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年に351町歩と激減したのは愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人•地主•機屋•染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

 


阿波藍の技術移転ー武蔵国

喜式(927完成)によれば武蔵国や関東の国々でも調として藍•藍布が納められていますので、この頃には荘園•標野などで藍の栽培が行われていたと考えられます。染織技術の高い地域は古代より開けた土地が多く、自然環境に恵まれ古くから豪族や渡来人が住んでいたことが古墳や出土遺品などで窺い知れます。

 

徳川幕府は江戸に開かれましたが当時から畿内が先進地であり、生産拠点も流通も江戸時代後半になるまで近畿地方が主流であり続けました。関東の木綿生産は18世紀後半から19世紀以降の高機の導入により、限られた地域の農閑余業として展開していた綿業が、新たな綿織物の産地として足利•佐野•蕨•川越•所沢などで興こります。こうした綿業の発展にともない、関東でも地藍生産が成長します。藍作地帯は肥沃で物流に優れた荒川流域の川島•吉見•川越•所沢や、利根川流域の本庄•深谷•妻沼にかけて集まっています。利根川中流域の藍商人、葛飾郡西大輪村(埼玉県久喜市)白石家、樺沢郡下手計村(埼玉県深谷市)粟田家の史料により文化期(1804~)以降、天保期から嘉永期にかけて約3倍増となる急成長も確認できます。『江戸時代人づくり風土記•埼玉』(1995発刊)のなかで、樺沢郡中瀬村(深谷市)河田家の史料に栗原村(久喜市)の紺屋•藤右衛門のところに、病気により逗留した阿波の人から藍の葉の「寝かせ方」を習い、その技術を「下り寝せ」と呼んでこの地方で流行したと書かれています。葉藍の寝かせ方というのは、蒅の製造技術のことで時期はおよそ天明•寛政(1781–1801)ごろだと考えられています。

 

安政元年(1854)阿波藍の他国への総移出量は236,000俵で、幕末の阿波藍の江戸への移出の内訳は48,930俵、関東地藍(武蔵•上野•下野•上総•下総•常陸)は10,000俵となっています。明治初年の藍の生産統計では、阿波についで武蔵が有数の産地とされていて、興隆させようと県の農業指導員の指導のもと、明治23年には阿波藍を試植させ適地の研究もしています。葉藍作付面積は明治16年1,078町歩(ha)、20年代になると2,000町歩に、31年には3,120町歩の最高作付面積を記録しますが、40年には410町歩と衰退していきます。明治40年代に編纂された『織物資料』に記された武州織物の染色方法の変遷をみると、当初は天然染料による染色を基調としていましたが、20年前後になると外国染料(化学染料•インド藍)の導入へと変化していきます。

 

 

明治の社会•経済を牽引した渋沢栄一は樺沢郡血洗村(深谷市)の生まれで、家は藍の栽培と農家から藍葉の買付け、藍玉を製造し紺屋に販売をしていました。藍玉は高価ではありましたが、紺屋からの代金回収には長い時間を要し、原料の藍の仕入れには大量の資金が必要でした。良い藍を育てるには肥料として干鰯•〆粕の購入も必要です。質屋•金貸•養蚕•藍商人として品質管理と才覚を学び、渋沢栄一は商業的農業経営者としての合理的精神を家業から受継ぎました。