眉山麓から藍のはなし

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      阿波藍商  

 

藍染のこと

藍でつくられた色

藍−公的機関での状況 

藍と阿波


藍でつくられた色ー⑨ 縹 -花田

は「はなだ」と読み、持統天皇4年(690)に初めて色名が確認できます。最初の服色制度として冠位十二階が施行され、これまで使われていた位色の「青の大小」から「深縹•浅縹」に表記が変わります。この時代の青の色名と色の解釈はまだ推定のままですが、後の延喜式縫殿寮には縹が深•中•次•浅の4段階に分けられ、色を得る為の材料用度からも「縹」は藍で染めた純粋な青色です。

 

今では余り馴染みのない漢字「縹」は中国の後漢時代に文字の意味を説いた『釈名』に「縹ハ漂ノ猶シ。縹ハ浅青色也」と『説文解字』にも「帛の青白色なるものなり」と書かれているように淡い青色でした。奈良時代は秦漢の影響を大いに受入れていますので、日本で「はなだ」と呼ばれていた色が、中国では「縹」と呼ばれている色名•色相と染法だった為、文字だけ用いられたと考察されています。そして日本固有の「はなだ」と呼ばれていた浅青色の染料は「鴨頭草」だと考察されています。公文書の中には「縹」の字はその後も散見しますが、平仮名が現れてからは源氏物語•蜻蛉日記の中に「あさ花だ」と書かれているように「はなだ•花だ」と同じ表音で表記されることが多くなります。室町時代になると古今連談集などには「はなだ」も見られますが、「花だ色」「花色」という表記も見られるようになります。

 

江戸時代になって藍の生産が増え、木綿の着物が市井の中に広まるとともに「花色木綿」「花色小袖」「花色羽織」「花色小紋」「花色繻子」と盛んに用いられ『好色一代男』『新色五巻書』『洒落本•辰巳之園』など多くの書物に藍で染めた色が「花色」の表記で書かれています。『書言字考節用集』六巻では「縹色ハナダイロ 花田色ハナダイロ」と同色を意味するように書かれています。江戸時代の人口80%程を占める農民の衣類には、木綿•麻藍染無地•縞、衿•袖口は花色•浅黄•萌黄の木綿無地というように厳しい制約がありました。庄屋には紬や絹を認める事もありましたが、色はほとんど似たようなもので茶の堅魚縞が認められていました。多くの人たちが着用している藍染の布帛類の色は、藍色とは呼ばれていませんでした。

 

江戸時代までは花田色や浅葱色が藍の染料だけで染めた色だと考えていたようです。現代では藍で染めた色といえば藍色を示し、書籍やメディアや人々の間で広く使われています。

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 

 


縹藍紺 JAPAN BLUE 展覧会のお知らせ

105()−1020() 3年ぶりに展覧会を開催します。

 

縹藍紺JAPAN BLUE 2018

第9回森くみ子展ー深遠なる蒼い時間ー  

11:00-19:00 (土曜・10/8祝は18:00) 日曜休廊

 

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ギャラリー新居東京 

104-0061 東京都中央区銀座1-13-4銀座片桐ビルⅢ5F

Tel: 03-6228-7872 Fax: 03-6228-7873

    URL:http://www.gallery-nii.com

 

阿波藍を調べはじめて40年。ようやく1冊の本が出来ました。

これまで阿波藍のことを長く調べてきましたが、それは日本の藍の歴史でもあります。日本列島に存続し続けた藍の物語を掘り起し、残すべき情報を考察する作業でした。私が集めてきた資料の纏め集ですので厳密性に不安はありますが、興味を持って読んでくださった方に十分な検証をしていただきたいと希っています。多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと思います。今回の展覧会は、この『阿波藍のはなし』の発表も兼ねております。

是非ご高覧ください。皆様のご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。

 

 


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韓藍

葉集では「韓藍」は「辛藍」「鶏冠草」などとも書かれていて4首詠われています。「古くは色を染める材料、即ち染料はすべて「あゐ」であり、「韓あゐ」「山あゐ」「呉あゐ」或いは「紅草」ができるから「阿為山」と名付けたという古い記録(筆者補足:播磨国風土記)などすべてこれを物語っている」と上村六郎氏は書いていますが、藍のことになると解釈が少し強引な印象があります。茜の染料の説明は理学博士として、成分の分析もして西洋茜と日本茜の染色方法の違いを説明しているのに、藍/あゐに関しての解釈は安易な結論に終止していて、その後50年以上のあいだ異義もなく、多くの人がこの解釈を踏襲しています。

 

吾屋戸尓 韓藍<種>生之雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念(巻3-384)山部赤人

秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟(巻7-1362)

戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来(巻10-2278)

隠庭 戀而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八方(巻11-2784)

 

韓藍はケイトウ(鶏頭)であるといわれ、原産地のインドから中国、朝鮮半島を経由して天平時代に伝わったといわれています。平安時代に書かれた『本草和名』鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあい)とされていることからです。歌の内容から見て韓藍の花は、秋に咲く染まりやすい植物だと考えられます。

 

平安時代の和歌には「韓藍」の名は見えなくなり、再び中世になって取り上げられるようになります。奇妙なことに韓藍の色を青色としている歌も見えるようになります。

わが恋はやまとにはあらぬ韓藍のやしほの衣ふかくそめてき(続古今集 九条良経)

竜田川やまとにはあれど韓藍の色そめわたる春の青柳(壬二集 藤原家隆)

 

 

現在見られるケイトウは、江戸時代になってからの花弁を鑑賞する園芸植物です。花軸が鶏の鶏冠状になっているから、鶏冠草と呼ばれていたことが文字からも確認できます。韓藍という名前は摺染めに用いられたことに由来するともいい、赤い花を絞って染料にしたと思われますが、赤い色水はつくれますが染まることはありません。一晩で色は無くなり、茶色い染みが残るだけです。原種が現在のケイトウと違うとしても、薬用の記載はその後もありますが、平安時代には染料としての実用は廃れています。中世以降は紅色、青色を染める花として詠まれていますが、万葉集で詠まれた韓藍はやはりケイトウだったのでしょうか。

 


呉藍 紅花藍

藍は和名を「久礼乃阿為」くれのあい、やがて漢名の紅藍・紅花を用いるようになります。飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て渡来したといわれています。呉国(中国)から伝えられた藍(当時は染料の総称)という意味で、「くれのあい」が「くれあい」と約されやがて「紅」の字を当てるようになったといわれています。万葉集では29首が詠まれていますが「くれのあい」から「くれない」に変わっていて、末摘花を併用しているものも1首あります。赤の色素を持つ植物は少なく、古代染色の中でも紫とともに貴重な染料で、茜に比べて鮮やかな色は貴族の憧れの色でした。

 

藍のことを調べていて「呉藍」の文字を初めて見たのは『和漢三才図絵』に掲載されている藍・藍澱・青黛の説明文のなかです。正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)で、中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて解説をしています。藍の項目に藍の種類として「蓼藍」「菘藍」「馬藍」「呉藍」「木藍」が記載されています。蓼藍の和名が付け加えられただけで、説明文は本草綱目の引用と国内での藍の説明があります。1596年の薬物書『本草綱目』李時珍には「藍凡五種‥‥」からはじまり蓼藍、菘藍、馬藍、呉藍、木藍の五種類の藍草の葉の形や花の色などの説明がされています。私が確認できた『本草綱目訳説』小野蘭山(1729–1810)は書写年が不明ですが、日本には最初の出版の数年後には輸入され、その後中国で版を重ねることに和版を出版して、和刻本は3系統14種類に及ぶそうです。

 

中国においては、古くから数多くの本草書が編纂されており、梁の陶弘景により480年頃改訂復原した『神農本草経』別録に初めて「大青」の名が挙がっています。その後の本草書、医薬の書物などにも藍は掲載され、時代が経つと馬藍、木藍などの科の違う品種の藍草の分類や、その薬効についても追加されるようになります。

 

万葉集の原文に1首だけ呉藍の表記がありますが、他との意味の差異はありません。

 

呉藍之 八塩乃衣 朝旦 穢者雖為 益希将見裳

くれなゐのやしほの衣朝な朝ななるとはすれどいやめづらしも(巻11–2623)

 

 

如何なる草を想像して詠まれたのでしょうか。

 


紅花 紅藍花

物書『本草綱目』(1596)李時珍に「べにばな」はどう説明されているのでしょうか。漢名は「紅藍花」『釈名』では「紅花」「黄藍」その花は紅色、葉は藍に似ているので名に藍がある。と書かれています。薬物書『経史証類備急本草』(1061年)唐慎微では「紅藍花」産業技術書『天工開物』(1637年)宋應星には「紅花」紅花餅の造方法も記されています。

 

日本での呉藍→クレノアイ→紅藍→紅花と名称の移変りを説明する文献は『本草和名』『和名類聚抄』『和漢三才図絵』を引用して論ずる場合が多く見られます

『本草和名』は醍醐天皇に仕えた侍医•深根輔仁が延喜年間(901–923)に編纂した薬物辞典です。長く不明になっていた上下2巻全18編の写本が発見され、寛政3年(1796)に校訂を行って刊行されました。下巻の第20巻有名無用193種に「紅藍花」久礼乃阿為と記されています。上巻の第6巻-第11巻草上中下の中に藍実•茜根•紫草の記載があり、第19、20巻は後年の付け加えかも知れません。

『和名類聚抄』は平安時代の承平年間(931–938)に源順が編纂した辞書です。私が確認できたものは那波道円校注の元和3年(1617)刊の元和古活字本です。第184染色具の中に「紅藍」はあり『辨色立成』では久礼乃阿井「呉藍」と同じ。と記され「紅花」俗用之。とも記されています。辨色立成は現在存在していなくて、和名類聚抄の中にしか書物の名は見つけられないようです。中国の書といわれていたこともあったようですが、中国でも文献は見つかっていません。

『和漢三才図絵』は正徳2年(1712)に寺島良安によって編纂された類書(百科事典)です。「紅花」紅藍花 黄藍 俗云 久礼奈伊 呉藍クレノアイ、「藍」の解説と同じく中国の『本草綱目』を参考に挿絵を入れて説明をしていますが、ここでは『釈名』の説明は記されていません。文政7年(1824)の秋田屋発刊で確認していますが薬効としての説明より、国内での栽培産地や染色の仕方などの記載がされ、口紅のことも記されています。

 

本草綱目』釈名で記されていた葉が藍に似ているというのを推測できる文献は、『経史証類備急本草』で「呉藍」と「紅藍花」の図がそれぞれ確認できます。簡素な図なのではっきりと断言できませんが、呉藍の葉は茎が長く蒿(よもぎ)に似ていると書かれているので正確な記述のように思えます。

 

 

「従来わが邦で用いられている漢名には、その適用を誤っているものがすこぶる多い」植物分類学者•牧野富太郎が随筆の中で語られているのを考慮しながら、遠い昔の標野を思うのです。

 


藍でつくられた色ー⑧ 褐色

色は「かちいろ•かちんいろ」と呼ばれ、紺よりさらに濃く黒く見えるほど暗い藍染の色です。平安時代から褐色の名称は見られ、『宇津保物語』『梁塵秘抄』の中に「かちの衣着たる」「飾磨にそむるかちの衣着む」と書かれています。古くは中将•少将も着用しましたが、野外に行幸するときに随従した者が着た衣服で、後には高官などを警護する武官や兵士が着るようになります。「青褐」の色名は正倉院文書の中にもみられ、延喜式•弾正台の中にも随従者の服の色として記されています。「褐返し」という別の色で染めた上に藍で染めた色を表す表記も平安時代の書物にあります。

 

「褐色」の色相は多くの解釈があって未だにはっきりした説にはなっていません。藍を濃く染めるために、生地を「搗(か)つ」=搗(つ)くことで染法から名付けたともいわれています。現代では褐色「かっしょく」と音読みして色相は茶色や焦茶色をさしますが、中国から伝来した初めは現代と同じく茶色を意味していたものと思われます。鎌倉時代の武士に広く用いられるようになると、褐=勝に結び付けられて藍で染めた濃い紺色が直垂や鎧•縅などに使われ、褐色•勝色と表記され資料が多く残ります。

 

江戸時代になると「かちん色」「かちん染」と呼ばれ、『貞丈雑記』(~1784執筆1843刊行)伊勢貞丈には「かちん色と云は黒き色を云。古異国より褐布と云物渡しけり。其色黒き色なりし故黒色をかち色ともかつ色とも云。……褐布は今の羅紗の類にて毛織也。……俗にかちん色と云。」『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)には「西土の書にはいずれにしても黒色を兼ねたる色を何褐色と云ふ。たとへば、トビ色を素褐色、アヰミル茶を青褐色、キカラ茶を貴褐色といふ。皆黒色を兼ねたる色なり…」随筆『神代余波』(1847)斎藤彦麿の中では「かち色といふも、極上紺の濃く黒くなりたる色也。さるは近年は空色と浅黄との間にて匂ひやかならぬをいへり。さる物にあらず。紺に染て臼にてつき又そめて、𣇃(つ)きいくたびもいくたびもしかれば黒くなりて赤き光り出る物なり」と記されています。

 

明治になり軍服の用度の中に「褐布」が見られます。茶褐布はカーキ色、紺褐布は濃紺色とし、羅紗であったので次第に茶褐絨•濃紺絨の表記が多くなりました。日露戦争時には再び「勝色」「軍勝(ぐんかつ)色」などとしての呼名が流行したそうです。

 

文化12年(1815)刊行の藩撰の地誌『阿波志』は各町村の役人に命じて、郡ごとの沿革や耕地•租税•寺社•古跡•産物を編纂している史料で、その中に板野郡撫養(鳴門市)の産物として「褐布撫養出」「韈(たび)亦撫養出以褐及草綿布製之」と書かれていますが、この鳴門産•褐布はどのようなものだったのでしょうか。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

 


藍商人-❽ 鹿島屋甚右衛門

伊国熊野(和歌山県)あるいは播磨国高砂(兵庫県)の出身といわれる寺沢家は、蜂須賀入国以前から小松島で流通を支配する藩政初期からの豪商でした。勝浦川•那賀川下流の番所を任され、魚屋とともに阿波藩札を任されるなど重要な御用達商人でもありました。寺沢六右衛門と井上助左衛門は縁戚となり、井上家は寺沢家の分家になります。鹿島屋初代井上甚右衛門は、寛永年間(1624–44)から自ら船に乗り廻船業を営み、4、5艘の大船を持つ成功を治めたといわれます。寛文年間(1661–73)には駿河国沼津に支店を置き染店を開き、沼津を拠点に駿河•伊豆•相模•甲斐•信濃に商圏を広げ、その後も中国•九州への販路拡大をはかります。

 

鹿島屋の商業関係の資料の多くは安政の地震にともなう火事により殆どが失われ、後の伝聞的な記録によるといわれています。家法には先祖より商業の中心は阿波ではなく沼津(静岡県)など国外で商売をすること、資金は本家に集め親類を含めた合議制で家を運営すること、質素倹約を守り先祖崇拝など細かな決め事が中心で封建的な内容でした。戦前の財閥の先駆的な形といわれるように、分家別家の資金までも勘定に細かく計算され、商業者の理念を独自につくり出すことで合理的な家内の制度や組織をつくりました。鹿島屋の勘定は、本支店間の貸借りにも利息がつくなど徹底していて、為替のやりとりも頻繁におこなわれ現在の商社のような商業組織でありました。

 

阿波で商売をしない鹿島屋は沼津本店を中心に、早い時期から藍玉•塩•米穀などを扱い、味噌•油•染店•質物•貸金などと広範囲の商業活動をしていました。他にも三島店では飛脚問屋を営んでいて、陸上流通にも関わっていたようです。地域の染店経営者に対して株を発行し、藍瓶などの道具類を貸して商売を営ませて原材料である「藍玉」を販売するという、現在のチェーン店方式のような強固な商圏を作り上げていました。鹿島屋は藩による売場株が設定された後も振り売りの自由な販売を行っていましたが、幕末には藩の体制に組み込まれることになります。

 

天保11年頃に五代甚右衛門のとき那賀川河口の三角州である辰巳新田の開発をはじめますが、苦難苦闘の開拓事業でした。すでに駿河や伊豆の出店周辺では質地地主となっていましたが、徳島藩領内でも巨大な金額を投じて123ha余りの新田地主となります。

 

幕末の激動の中で藩に忠誠を尽くした九代甚右衛門は、戦費調達の中心人物として兵糧米を上納し、輸送などにも活躍します。この功績から藩所有「戊辰丸」の徳島–東京間の運航を命じられ、藩内外の諸物産の交易事業を行います。阿波藍商人による「大規模流通組織確立」を独自で構想しましたが、明治新政府による三井組を中心とした東京通商会社によって、全国的な商品流通が組織され明治4年の廃藩置県によって実現されず海運事業は消滅しました。明治5年に蜂須賀家から戊辰丸を3万両で購入し「鵬翔丸」と改名し阿波藍•静岡茶•鯡粕の輸送をはじめますが、明治14年陸奥国三戸で激浪により沈没しました。幕末の全国版•長者番付の前頭にも名を載せた、藍商•鹿島屋甚右衛門はこれが引き金となり没落します。


山藍 韓藍 呉藍

 のことを調べ出した切っ掛けのひとつは、万葉集に詠まれている藍の表記からでした。古代日本の記録は和語にあてた漢字で表記されているため、理解が進まないものが多くあります。山藍、韓藍、呉藍の解釈に何故かしっくりこないまま、40年もの月日が過ぎてしまいました。青色を染める藍草は万葉集では詠まれていないことにも、なにも説明ができずに資料ばかりが増えてしまいました。興味のある方、詳細な方は一緒に考えてみませんか。

 

山藍(やまあい)の表記が見られるのは、呉藍(くれない)も一緒に詠まれている一首です。(巻9-1742)高橋虫麻呂 「‥山藍もち 摺れる衣着て‥‥」というように山藍が使われるときには、「染め」という表記ではなく青摺りとも記されたりするように「摺り染める」と使われています。古事記や平安時代の法律である令義解延喜式のなかに見られる神事祭司の記述の中、紀貫之の詩歌にも記されています。この山藍は「トウダイグサ科の多年草。暖地に自生し高さ40cmほどに成長する。藍色を含んだ野性の藍草。この葉の液汁を用いて青摺衣をそめた。」(染色辞典 中江克己編 1981)とあるように、山藍はタデ科の藍草とは違う植物だと推定されています。

 

「大和民族が発見したのは山藍で、藍の含有量が少なく、従って大陸から蓼藍が伝えられると、まず出雲族あたりからこれが用いられはじめ、やがて全く山藍が実用されなくなったものと考えられる。御即位式の際の小忌衣のように、特別の儀式にのみ、古来から今日に到るまで、この山藍摺の衣服を用いるのは、恐らくはこうした事情のためだろう。」(生活と染色 上村六郎 1970)京都帝国大学で繊維•染色を学び、理学博士である上村六郎氏の他の書籍でもこの理論は説かれ「山藍は天皇部族の発見した独自性の藍である。と(自分は)結論をだしている訳である」とまで云っているのです。

 

従来から山藍にも藍の含有があると記されていることに、疑義をもった後藤捷一氏が化学分析をしてみた結果、藍(インジゴ)は含有していないことが確認されました。これにより万葉時代以前から使用されていた山藍は、生葉を搗いて出る汁から青磁色の染め、もしくは葉緑素染の緑色だとの考えが有力になってきました。葉緑素染ですと一晩での変色は免れませんし、水洗いには到底耐えられないと考えますが、現在も京都石清水八幡宮で採れる山藍を用いて、京都の葵祭、奈良の春日大社の衣装に使われているようです。

 

 

そうすると紀貫之が数首読んでいる、山藍を含む和歌の意味が解らなくなります。神事の長さを詠うことで、その神に守られている天皇を賀茂祭で慶祝する意味を籠めた「ゆうだすき ちとせをかけて あしびきの 山藍の色は かはらざりけり」(新古今和歌集 賀歌 712番) 山藍の色はどう説明したらよいのでしょうか。

 


重要無形文化財と藍 Ⅳ

和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、30年(1955)に正藍染が指定されてから「正藍染」の表記が藍染製品に多く使われるようになります。重要無形文化財千葉あやのによる藍染の技術を指した言葉でもあるのですが、他の藍染にも自ら「正藍染」を使い合成藍を使った藍染との区別をしたことからです。「正藍染」「本藍染」と偽装表記してもなにも罰則はないことから、明らかに天然藍で染めていないものにも使用がはじまり、本来の意味を保証できるものではなくなりました。

 

今度は阿波藍の存続を願う人たちによって、「天然藍灰汁醗酵建」「灰汁醗酵建正藍染」「阿波藍灰汁醗酵建」などとより具体的に「正藍染」「本藍染」との区別がはじまりました。根本的に天然染料と合成染料を区別して表記する規制は存在しません。狭い範囲で自分たちが本来の藍染をしている製品名だと訴えても、消費者には何も伝わらないし却って無関心になってしまいます。なぜ関係者が藍製造の生産を存続・支援するため、消費者に応援していただけるように適正な品質表示が進まなかったのでしょうか。

 

農作物では畳表が「農林物質の規格および品質表示の適正化に関する法律」で日本農林規格(JAS)によって規格されています。繊維、染料の規格は日本工業規格(JIS)により繊維の種類とか染料の堅牢度は表示されていますが、近代の技術に対しての対処です。最近ではオーガニックコットンがJASにより繊維は対象外とされたことより、特定非営利活動法人 日本オーガニックコットン協会(JOCA)、日本オーガニック流通機構(NOC)で独自に認証制度を設け定義をして消費者に伝えています。

 

 

オーガニックコットンのように世界各地から輸入される製品でも、大変困難な適正表示をしようと試みられています。国内生産の藍が定義をしないまま情報が一人歩きしないように、長い歴史をもつ徳島県の関係者には大きな視点をもつ必要があると思います。栽培面積が平成26年14.8haにまで減少しています。19年全国藍栽培面積は徳島が17.9ha、北海道5.0ha、兵庫1.1ha、青森0.7ha、宮崎0.1ha、沖縄5.9haですが、最近いろいろな地域で藍栽培をはじめ蒅をつくるところが増えています。これからの藍染の定義を深めるためにも、藍のネットワークができることを望みます。

 


伝統的工芸品産業と藍 Ⅱ

統的工芸品産業の振興に関する法律により通商産業(現:経済産業)省によって認定された主な織物は結城紬、伊勢崎絣、桐生織、黄八丈、塩沢紬、小千谷縮、加賀友禅、信州紬、有松・鳴海絞り、近江上布、西陣織、京鹿の子絞、弓浜絣、博多織、久留米絣、本場大島紬、久米島紬、宮古上布、読谷山花織、与那国織などで、昭和53年(1978)阿波正藍しじら織も認定されました。平成27年(2015)には経済産業大臣により選定された伝統的工芸品の染織関係は47点まで増えています。

 

選定された織物は、催事の企画、雑誌の特集にも「日本の伝統織物」として多くの人の知識に、江戸時代から続く特別な織物として記憶されることになります。選定された阿波しじら織は昭和12年に一度生産が中止になり、戦後復活していました。「阿波正藍しじら織」の指定基準は1:先染めした綿糸を用いること。2:染色は蒅/すくもをブドウ糖、ふすま、苛性ソーダで還元可溶化した藍染であること。3:しじら織であること。このしじら織とは藩政時代に「たたえ織」といわれていた原組織の平織と、経糸3本(たたえ糸)を引き揃えた緯畝織とからなる混合組織です。しかし実際は「先染めを蒅/すくものみによって行うことは産業としては成り立たない、蒅は高価で経済的に折り合わない」と選定の伝統的工芸品を生産している事業所はなく、展示用に保存しているだけです。市場にでているのは「徳島県伝統的特産品」のしじら織です。こちらの染めは一般に高温型反応染料を用い、紺色のみ反応染料で染め上げた後、蒅/すくもをハイドロサルファイトと苛性ソーダを用いて還元した染液に1回のみ染め「阿波しじら織」と称して市場にでるわけです。よく調べれば偽装ではないのですが、情報発信された映像、パンフレットをみると多くの人は「阿波正藍しじら織」と思ってしまいます。

 

 

阿波藍に関して云えば昭和53年の時点で40年の4haよりは増えて15haまでにはなりましたが、とても日本の伝統織物の藍染に使用される生産にはなっていません。

 


重要無形文化財と藍 Ⅲ

化財保護法において、歴史上または芸術上価値の高い染織技術を「重要無形文化財」「無形文化財」として、その関連する材料や道具をつくる技術を「選定保存技術」染織技術に関わる道具やその資料を「有形民俗文化財」染織技術に関わる習俗が「無形民俗文化財」で保護されています。

 

昭和30年(1955)には阿波藍栽培加工用具が「重要有形民俗文化財」として、53年(1978)に阿波藍製造が「選定保存技術」に選定されました。重要無形文化財を支える技術としての仕組みなのですが、同じ「もの」を作るための「技術」が文化財とそれ以外の関連技術に選別するのでは、染織品を作り出す技術や意図を一体に考えることができないと思います。文化庁は無形文化財と選定保存技術に線引きされた異なる枠組みでの保護体制をとっているため、技術とその技術の発達してきた必然的な関係は生まれ難く、いま生きている技術は過去のものになり、一面だけ保護された染織品になってしまいます。技術を総合的に保護する重要性を考え、現在の枠組みを超えた無形文化遺産として想像した保護になることを望みます。

 

藍・染料関係では昭和54年本藍染・森卯一、植物染料(紅・紫根)生産・製造が財団法人日本民族工芸技術保存会、平成14年琉球藍製造が選定保存技術に指定されています。

 

 

平成15年(2003)に締結された世界無形遺産条約では「無形文化財」と「無形民俗文化財」の区別は設けられていません。保護するための学術的、技術的および芸術的な研究と調査の方法を促進し、権限のある機関を指定、設置することで役割を決め計画を建てることで保護から発展、振興のための政策に努めています。そして機関の設立のための立法上、技術上、行政上、財政上の措置を考え無形文化遺産の伝承を進めています。

 


伝統的工芸品産業と藍 Ⅰ 

和49年(1974)に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。伝統的に使用されてきた原材料を用い、伝統的な技術、技法によって製造することが挙げられていますが、目的は地場産品を生産し流通させ、産地が存続することにあるように思います。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする。」と重要無形文化財に比べると材料に対しても技術に対しても継続性を踏まえて、時代に即した変化が認められている基準になっていました。

 

昭和51年(1976)文化財保護法の改定によって、重要無形文化財の指定を受けている久留米絣の技術保存者会が発足します。同年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により久留米絣が伝統的工芸品の指定を受けます。この時点で小千谷縮や宮古上布、久米島紬を含む染織関係は23点が指定されていますが、その後結城紬と芭蕉布も指定され、越後上布のみ重要無形文化財だけの指定となります。重要無形文化財で指定された久留米絣と「伝統証紙」の付いた久留米絣にどのような違いがあるのか、多くの消費者にとって重要無形文化財との区別に混乱を与えたことと思います。

 

精巧な紛いもの、類似品からの識別のめやすを提供することが重要だと「伝統証紙」などを貼付したことは、消費者にとっては伝統的工芸品の内容を理解しないまま「伝統証紙」の付いた伝統的工芸品を国のお墨付きとなった「工芸品」だと思ったかも知れません。いずれにせよ、昭和50年代これらの織物が天然藍による染めが規定されていないことを伝えると一様に疑問を持たれました。

 

「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」によって伝統的(100年以上の歴史を有し、現在も継続している)工芸品づくりを伝承することは困難で、それは産地の技術・技法の保護より地場産業産地の経済的な発展を振興しているからです。そして伝統的工芸品の生産額は昭和49年以降、経済成長のなか年々増加を続け59年(1984)には生産額が最高となりました。

 

 


重要無形文化財と藍 Ⅱ

高 度経済成長で余裕もでてきた昭和40年代は、社会的背景の急速な変化が生まれました。日本万国博覧会終了後の旅客確保の対策として、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」などで日本各地に残る古い町並みや伝統工芸が見直されるようになります。重要無形文化財に指定された人間国宝の紹介シリーズ、伝統工芸の展覧会も多く企画され、ドキュメント、書籍、雑誌などでもたくさん紹介されていました。

 

首都圏に住んでいたわたしもこれらの情報を食い入るように読んで見て、いつか丹波や郡上、沖縄へ行ってみたく思っていました。急に父母の故郷徳島へ訪れる機会ができ、余暇に藍の工場を訪れたことから、好んで読んでいた染織の記事にどこか違和感を感じるようになったのです。専門家の机上での知識の及ばない現実のこと、おそらく知識の少ない愛好家や編集者の方の現地取材は、作っている人が一方的に話される内容を、感動だけで検証もなく書いてしまう情報に不安を覚えました。

 

文化財保護法の制定後から世間では、本来の藍染の名称を「正藍染」1:合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。2:奈良時代から始まるとされる藍の自然染法。千葉あやの氏が、この方法を継承し重要無形文化財に指定された。「本藍染」合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。と何と無く位置づけていました。情報の中には「正藍染」「本藍染」の記事も多くあり、藍瓶の管理の大変さを一様に語っています。ただし現実は藍の原料の生産者や栽培地域が日本でも無くなりそうになっていて、にわかに厚遇されるようになった藍染とは無関係のようでした。

 

そして法律で保護されていたにもかかわらず、難しいとされていた染料の使用方法の種類の定義もなく、専門に解説できる機関もはっきりしないまま、藍染の何が正しく本物なのか「正藍染」「本藍染」の違いも定義されず商業主義の「憧れの商品」になってしまいました。

 

 

参考:染色辞典 中江克己編 泰流社 1981年

 


重要無形文化財と藍 Ⅰ

和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として保護されることになりました。天然藍と関係のありそうなものを紹介すると、30年(1955)長板中形・松原定吉、清水幸太郎、正藍染・千葉あやの、小千谷縮・越後上布、結城紬の認定に続き、32年(1957)久留米絣の技術が重要無形文化財に指定されます。後に昭和47年(1972)芭蕉布、51年(1976)宮古上布、平成18年(2006)久米島紬が指定されます。

 

無形文化財の指定対象は技術を保有する〈個人〉または〈団体〉です。そして特に重要性が高いと判断したものを重要無形文化財と指定されます。個人の場合は保持者(通称:人間国宝)が指定された工芸技術を高度に体得し精通していること、団体の場合は複数の人々によって伝承された技術が、指定された際の用件を満たした保存団体に認定されます。

 

指定条件は工芸技術の機械化がなされる以前の作業や、衰退化する産業の技術保護と継承をはかるためのものが多く見られます。この法律が制定されたとき日本の社会は大きく発展し、手仕事が当り前だった時代のこれらの技術は、採算が合わなくなり後継者も育たなくなっていました。藍製造の現場もこのことに直面していましたが、30年には阿波藍栽培加工用具が重要有形民俗文化財として指定されただけでした。

 

 

結城紬や小千谷縮・越後上布の指定、選択された条件の「行程」に藍は指定されず、久留米絣の行程のみ「純正天然藍で染めること」と用件が指定されました。その後の芭蕉布や宮古上布、久米島紬は天然染料が指定になっていますから、結城紬や小千谷縮・越後上布の認定された技術から藍の性質が誤解を生じることもありました。藍の栽培面積も30年の37haから36年20ha、40年には4haとなることからも天然藍のことが染色技術のなかで、多くの関係者から理解されていない結果の現れだと思います。


藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


藍でつくられた色ー⑦ 浅葱

「浅葱色」は薄い青味がちな青緑色のことをいいますが、わかい葱の葉に因んだ色名で平安時代の文学作品『源氏物語』『枕草子』『宇津保物語』などに見られるほど古くから使われています。縹色•千草色よりは薄い色ですが、藍で染めた色名であったのかは千草色と同様にわかりません。平安中期に浅葱色の表記に浅黄の字を使ったことから、青と黄の色相が混同され「あさき黄いろなるをもって浅黄と唱ふるよし」と『延喜式』で書かれているように本来は刈安を使って染める黄色と浅葱色が間違えられることになります。すでに平安後期(1169頃)『今鏡』に「青き色か黄なるかなどおぼつかなくて」と書かれているように、この頃多く使用される「あさき色」に混乱が見られます。 嘉禎年間(1235–1238)『錺抄』土御門通方での記載でも確認できるように、黄袍であるべき無品の親王の袍に浅葱色(青)を着用することもあったようです。

 

この「浅葱」「浅黄」の誤用は後の世まで続き、多くの識者が書物で問い糺しています。『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)では「アサギと云ひて浅黄を用ふるは誤りなり、浅葱の字を用ふべし」と記し、『玉勝間』(1795–1812) 本居宣長では「古き物に浅黄とあるは、黄色の浅きをいへる也。然るを後に、浅葱色とまがひて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に浅黄とあるをも、誤りて浅葱色と心得られたる也」と書かれています。『守貞漫稿』(1837–53) 喜多川守貞編の風俗事典でも「今俗に浅黄の字を用ふれども仮字のみ、黄色に非ず」といつまでも誤用して使われている現状に数百年もの間、色名•色相の解釈を糺そうとしている様子が伝わります。

 

浅葱色が庶民に広まったのは江戸時代で、千草色より頻度も多く書物に書かれるようになります。江戸中期以降には浅葱色が流行して、滑稽本の『古朽木』の中でも「尤も当時何もかも浅黄が流行(はや)りますゆゑ『世の中は浅黄博多に浅黄紐、あさぎの櫛に浅黄縮緬』とも詠みて、近年の利物(ききもの)なれども」と書かれています。下級武士の羽織裏に「浅葱木綿」が使われたり、新撰組の段だら模様の「羽織」歌舞伎の「浅黄幕」など伊達を好む遊人にも、無粋な武士にも、そして農民や庶民に多く用いられた色でした。

 

 

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院