伝統的工芸品産業と藍 Ⅱ

統的工芸品産業の振興に関する法律により通商産業(現:経済産業)省によって認定された主な織物は結城紬、伊勢崎絣、桐生織、黄八丈、塩沢紬、小千谷縮、加賀友禅、信州紬、有松・鳴海絞り、近江上布、西陣織、京鹿の子絞、弓浜絣、博多織、久留米絣、本場大島紬、久米島紬、宮古上布、読谷山花織、与那国織などで、昭和53年(1978)阿波正藍しじら織も認定されました。平成27年(2015)には経済産業大臣により選定された伝統的工芸品の染織関係は47点まで増えています。

 

選定された織物は、催事の企画、雑誌の特集にも「日本の伝統織物」として多くの人の知識に、江戸時代から続く特別な織物として記憶されることになります。選定された阿波しじら織は昭和12年に一度生産が中止になり、戦後復活していました。「阿波正藍しじら織」の指定基準は1:先染めした綿糸を用いること。2:染色は蒅/すくもをブドウ糖、ふすま、苛性ソーダで還元可溶化した藍染であること。3:しじら織であること。このしじら織とは藩政時代に「たたえ織」といわれていた原組織の平織と、経糸3本(たたえ糸)を引き揃えた緯畝織とからなる混合組織です。しかし実際は「先染めを蒅/すくものみによって行うことは産業としては成り立たない、蒅は高価で経済的に折り合わない」と選定の伝統的工芸品を生産している事業所はなく、展示用に保存しているだけです。市場にでているのは「徳島県伝統的特産品」のしじら織です。こちらの染めは一般に高温型反応染料を用い、紺色のみ反応染料で染め上げた後、蒅/すくもをハイドロサルファイトと苛性ソーダを用いて還元した染液に1回のみ染め「阿波しじら織」と称して市場にでるわけです。よく調べれば偽装ではないのですが、情報発信された映像、パンフレットをみると多くの人は「阿波正藍しじら織」と思ってしまいます。

 

 

阿波藍に関して云えば昭和53年の時点で40年の4haよりは増えて15haまでにはなりましたが、とても日本の伝統織物の藍染に使用される生産にはなっていません。

 


重要無形文化財と藍 Ⅲ

化財保護法において、歴史上または芸術上価値の高い染織技術を「重要無形文化財」「無形文化財」として、その関連する材料や道具をつくる技術を「選定保存技術」染織技術に関わる道具やその資料を「有形民俗文化財」染織技術に関わる習俗が「無形民俗文化財」で保護されています。

 

昭和30年(1955)には阿波藍栽培加工用具が「重要有形民俗文化財」として、53年(1978)に阿波藍製造が「選定保存技術」に選定されました。重要無形文化財を支える技術としての仕組みなのですが、同じ「もの」を作るための「技術」が文化財とそれ以外の関連技術に選別するのでは、染織品を作り出す技術や意図を一体に考えることができないと思います。文化庁は無形文化財と選定保存技術に線引きされた異なる枠組みでの保護体制をとっているため、技術とその技術の発達してきた必然的な関係は生まれ難く、いま生きている技術は過去のものになり、一面だけ保護された染織品になってしまいます。技術を総合的に保護する重要性を考え、現在の枠組みを超えた無形文化遺産として想像した保護になることを望みます。

 

藍・染料関係では昭和54年本藍染・森卯一、植物染料(紅・紫根)生産・製造が財団法人日本民族工芸技術保存会、平成14年琉球藍製造が選定保存技術に指定されています。

 

 

平成15年(2003)に締結された世界無形遺産条約では「無形文化財」と「無形民俗文化財」の区別は設けられていません。保護するための学術的、技術的および芸術的な研究と調査の方法を促進し、権限のある機関を指定、設置することで役割を決め計画を建てることで保護から発展、振興のための政策に努めています。そして機関の設立のための立法上、技術上、行政上、財政上の措置を考え無形文化遺産の伝承を進めています。

 


伝統的工芸品産業と藍 Ⅰ 

和49年(1974)に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。伝統的に使用されてきた原材料を用い、伝統的な技術、技法によって製造することが挙げられていますが、目的は地場産品を生産し流通させ、産地が存続することにあるように思います。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする。」と重要無形文化財に比べると材料に対しても技術に対しても継続性を踏まえて、時代に即した変化が認められている基準になっていました。

 

昭和51年(1976)文化財保護法の改定によって、重要無形文化財の指定を受けている久留米絣の技術保存者会が発足します。同年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により久留米絣が伝統的工芸品の指定を受けます。この時点で小千谷縮や宮古上布、久米島紬を含む染織関係は23点が指定されていますが、その後結城紬と芭蕉布も指定され、越後上布のみ重要無形文化財だけの指定となります。重要無形文化財で指定された久留米絣と「伝統証紙」の付いた久留米絣にどのような違いがあるのか、多くの消費者にとって重要無形文化財との区別に混乱を与えたことと思います。

 

精巧な紛いもの、類似品からの識別のめやすを提供することが重要だと「伝統証紙」などを貼付したことは、消費者にとっては伝統的工芸品の内容を理解しないまま「伝統証紙」の付いた伝統的工芸品を国のお墨付きとなった「工芸品」だと思ったかも知れません。いずれにせよ、昭和50年代これらの織物が天然藍による染めが規定されていないことを伝えると一様に疑問を持たれました。

 

「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」によって伝統的(100年以上の歴史を有し、現在も継続している)工芸品づくりを伝承することは困難で、それは産地の技術・技法の保護より地場産業産地の経済的な発展を振興しているからです。そして伝統的工芸品の生産額は昭和49年以降、経済成長のなか年々増加を続け59年(1984)には生産額が最高となりました。

 

 


重要無形文化財と藍 Ⅱ

高 度経済成長で余裕もでてきた昭和40年代は、社会的背景の急速な変化が生まれました。日本万国博覧会終了後の旅客確保の対策として、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」などで日本各地に残る古い町並みや伝統工芸が見直されるようになります。重要無形文化財に指定された人間国宝の紹介シリーズ、伝統工芸の展覧会も多く企画され、ドキュメント、書籍、雑誌などでもたくさん紹介されていました。

 

首都圏に住んでいたわたしもこれらの情報を食い入るように読んで見て、いつか丹波や郡上、沖縄へ行ってみたく思っていました。急に父母の故郷徳島へ訪れる機会ができ、余暇に藍の工場を訪れたことから、好んで読んでいた染織の記事にどこか違和感を感じるようになったのです。専門家の机上での知識の及ばない現実のこと、おそらく知識の少ない愛好家や編集者の方の現地取材は、作っている人が一方的に話される内容を、感動だけで検証もなく書いてしまう情報に不安を覚えました。

 

文化財保護法の制定後から世間では、本来の藍染の名称を「正藍染」1:合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。2:奈良時代から始まるとされる藍の自然染法。千葉あやの氏が、この方法を継承し重要無形文化財に指定された。「本藍染」合成染料の化学藍で染めたものと区別するため、植物藍で染めること、または染めたものをいう。と何と無く位置づけていました。情報の中には「正藍染」「本藍染」の記事も多くあり、藍瓶の管理の大変さを一様に語っています。ただし現実は藍の原料の生産者や栽培地域が日本でも無くなりそうになっていて、にわかに厚遇されるようになった藍染とは無関係のようでした。

 

そして法律で保護されていたにもかかわらず、難しいとされていた染料の使用方法の種類の定義もなく、専門に解説できる機関もはっきりしないまま、藍染の何が正しく本物なのか「正藍染」「本藍染」の違いも定義されず商業主義の「憧れの商品」になってしまいました。

 

 

参考:染色辞典 中江克己編 泰流社 1981年

 


重要無形文化財と藍 Ⅰ

和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として保護されることになりました。天然藍と関係のありそうなものを紹介すると、30年(1955)長板中形・松原定吉、清水幸太郎、正藍染・千葉あやの、小千谷縮・越後上布、結城紬の認定に続き、32年(1957)久留米絣の技術が重要無形文化財に指定されます。後に昭和47年(1972)芭蕉布、51年(1976)宮古上布、平成18年(2006)久米島紬が指定されます。

 

無形文化財の指定対象は技術を保有する〈個人〉または〈団体〉です。そして特に重要性が高いと判断したものを重要無形文化財と指定されます。個人の場合は保持者(通称:人間国宝)が指定された工芸技術を高度に体得し精通していること、団体の場合は複数の人々によって伝承された技術が、指定された際の用件を満たした保存団体に認定されます。

 

指定条件は工芸技術の機械化がなされる以前の作業や、衰退化する産業の技術保護と継承をはかるためのものが多く見られます。この法律が制定されたとき日本の社会は大きく発展し、手仕事が当り前だった時代のこれらの技術は、採算が合わなくなり後継者も育たなくなっていました。藍製造の現場もこのことに直面していましたが、30年には阿波藍栽培加工用具が重要有形民俗文化財として指定されただけでした。

 

 

結城紬や小千谷縮・越後上布の指定、選択された条件の「行程」に藍は指定されず、久留米絣の行程のみ「純正天然藍で染めること」と用件が指定されました。その後の芭蕉布や宮古上布、久米島紬は天然染料が指定になっていますから、結城紬や小千谷縮・越後上布の認定された技術から藍の性質が誤解を生じることもありました。藍の栽培面積も30年の37haから36年20ha、40年には4haとなることからも天然藍のことが染色技術のなかで、多くの関係者から理解されていない結果の現れだと思います。


藍商人-❻ 野上屋嘉右衛門 

西 野家の初代は藩政初期に関東から移住してきて小松島浦で農業をしていたといわれ、藍商人「野上屋」として活動を始めたのは三代目の時代です。紀州熊野(和歌山県)の有田太郎左衛門の子を婿に迎え四代目となり、この頃から本格的な藍商としての基盤ができたといいます。享保4年(1719)には下総千葉郡寒川村に出店を持ち、自前の廻船によって阿波藍を直接移出し帰り荷として干鰯を移入することで事業を発展させます。下総国は近隣に結城紬など早くから機業地が集中していて、近海は干鰯の大供給地でした。

 

七代嘉右衛門は明和期(1764–1771)には出店を寒川村から江戸小網町に移転し、南新堀2丁目に土蔵•新宅を建て支店を構えます。安永2年(1773)藍方御用利となり、加子人(水夫•船員)から名字帯刀を許される大藍商となりました。寛政12年(1800)には八代目は讃岐琴平(香川県)に酒店と金物店を開業します。江戸支店を南新堀から霊岸島町に移しますが火災により日本橋本船町に移転して、十二代目が京橋本八丁堀に移る頃には藩の御用商人も務め経済力を強めました。明治維新の激動の中も徳島藩の会計御用掛•為替方頭取•商法為替掛頭取を命じられ、特権商人として活躍します。西南戦争、松方デフレ財政による不況を乗り切り、明治24年の久次米銀行の破産に際しても徳島経済の損害を最小限にくい止めました。

 

関東売制定以来の盟約を守って、阿波藍以外は取扱わなかった野上屋でしたが、大正6年十五代のとき同業他社に20年近く遅れて化学染料の販売を始めました。後発の遅れを克服しようと合成染料の製造を試みますが失敗し、ドイツのバイエル社の特約店となって関東や東海地方に合成藍の市場を開発しました。

 

 

野上屋の創業は万治元年(1658)で阿波藍商から化学事業へ進出し、酒類部創業は寛政元年(1789)で酒造りと酒類•食品類販売へと歴史を重ね、現在は西野金陵株式会社と改名して異業種をうまく組み合わせながら幅広い分野での経営をしています。長い歴史の中で藍大尽として語り伝えられている八代嘉右衛門は、江戸吉原を三日三晩も買い切り顧客接待に散財したといわれています。経営の危機を招いた反面、野上屋の顧客は増え続けたそうです。そして酒造業を起こした広角的な商才など、フロンティア精神の旺盛な豪毅な人だったようです。文化事業として昭和15年に刊行された『阿波藍沿革史』も阿波藍について研究する基本文献となっています。


藍商人-❹ 三木与吉郎 

木家の祖は播州三木城の別所長治の叔父の子別所規治で、秀吉軍によって三木城が落城した後、中喜来浦(徳島市松茂町)で帰農し三木与吉郎となったといわれます。蜂須賀家政の阿波入国後、大坂冬の陣に蜂須賀至鎮が出陣した時の阿波水軍として規治らも従軍し、その時の功績で中喜来浦は三木規治一族によって開拓がなされたとの史料が残ります。

 

二代与吉郎が阿波藍の取扱いを始めますが、漁具•米穀などの一部としての販売で、藍専業となるのは七代目になってからです。藍屋与吉郎と名乗り寛政9年(1789)江戸本材木町に支店を置き、次いで淡路洲本•播磨姫路•龍野に支店を開き、享和2年(1802)に関東売場株が設定されたときには株仲間となります。阿波藍商としての基盤ができ、八代目は売場先を武蔵•相模•下総•常陸•下野に拡大し関東売に集中します。嘉永5年(1852)三木家が江戸へ移入した藍玉は5,080俵で江戸積仲間で一番多く、多角的な経営と廻船を保有する大藍商になりました。

 

三木家は維新期になると飛躍的に活躍します。明治3年(1870)に開拓使より北海道産物会所御用達、徳島藩の商法方御用掛•為替方御用掛頭取を命じられ、8年には精藍社を組織し、9年には関東売場出店28店で栄藍社を発足します。十一代与吉郎は明治23年(1890)第一回帝国議会貴族院議員に選出され、久次米銀行が休業した際の整理を西野嘉右衛門と共に行い、関西部を継承して阿波銀行が設立されると頭取に就任します。

 

インド藍が開国後横浜港に輸入され始め、明治27年(1894)ごろから急増します。第一次産業革命の進行による機械染色に対応する条件はインド藍が優れ、関東売藍商の危機意識は高くなります。阿波藍純血主義との対立のなか、時代の流れに即しインド藍の取扱いをはじめ、次第に化学染料=合成藍の輸入販売も開始します。明治43年にはドイツのカレー染料会社の硫化染料の独占販売権も獲得し、新しい技術によって生産される輸入染料の営業活動に進出します。阿波藍の販売から始まり化学染料と工業薬品へ、現在は三木産業株式会社と改名し染料•色化部門•化成品部門•合成樹脂部門•国際事業部門と技術部門を置き、常に時代の流れに対応し変革しています。延宝2年(1674)創業以来「染料」とともに、300年以上に渡っての歴史を築きました。

 

 

十三代与吉郎と後藤捷一両氏の編集により『阿波藍譜•栽培製造篇』『阿波藍譜•精藍事業篇』『阿波藍譜•史話図説篇』『阿波藍譜•史料篇(上中下)』を刊行し、阿波藍に関する諸統計や三木文庫所蔵の史料目録の刊行など、藍の研究に欠かすことができない貴重な史料を残しました。三木家の文化事業は、近代化学技術史を考察するための資料として大きな貢献をしています。

 


藍商人-❷ 島屋六兵衛

屋六兵衛の祖は慶長年間(1596–1614)に土佐から小松島に移住した森庄左衛門で、その後阿波藩札の座元人で豪商寺沢六右衛門と縁戚となり、藍商の手塚分右衛門とも縁戚をつくり寛文年間(1661–1672)に初代島屋六兵衛となります。

 

元禄期(1688–1704)には城下にも進出して支店を置き、自前の廻船を使い「直売」「振売」商法によって阿波藍と肥料を取扱い活躍します。享保16年(1731)には播磨売場にも藍を移出販売し、寛政11年(1799)には徳島藩より干鰯平問屋に指定されました。

天保2年(1831)には板野郡で藍の製造部門も開設します。そして東播磨•丹波•丹後にも売場を拡張し、嘉永6年(1853)には江戸に出店を持ち関東売場株を6千両で譲り受け江戸•武蔵•上総•相模も売場とします。幕末•維新期の関東売藍商では「野上屋」西野嘉右衛門に次ぐ阿波藍取扱い量となりますが、開国後はインド藍の取扱いもはじめます。阿波では依然「他国藍」「外藍」は取扱わない状態でしたので激しい対立を招くことになります。

 

明治3年(1870)には大量の藍玉を出荷するため、1000石積みの船4艘を買入れ撫養(鳴門)を母港として瀬戸内から下関を経由する北前航路によって、各地との交易を拡大し北海道から鯡粕を大量に輸送することになります。明治20年には肥料売買業を開始し、満州大豆粕•チリ硝石•インド骨粉などを直輸入し、その後は化学肥料の生産も行うなど肥料の変化に積極的に対応します。藍作農民のことを十分知抜いた「島屋=森六」の商法は幾多の困難も乗り切り、明治–大正–昭和と肥料商としても経営を拡大しました。

 

 

森六の事業は藍だけに留まらず、時運と共に多彩で転換も早く、絶えず時代を先取りする精神を持ち発展させてきました。肥料•醤油醸造業•豆粕製造業•木材、日露戦争後には朝鮮農場の経営と朝鮮•満州•天津の事業にまで及びました。昭和20年(1945)の敗戦後、それまでの経営体系は全て崩壊しましたが、22年に徳島機械製作所、23年に森六食品工業株式会社、三井化学工業と塩化ビニール、ポリエチレン•ハイゼックスを製造し本田技研工業へ納入します。61年にはホンダとアメリカ進出も同行し、化学部門•精密化学部門•合成樹脂部門•生産部門と研究開発部門をもつ複合企業となりました。現在は森六株式会社と改名し、寛文3年創業の阿波藍(天然染料)から合成染料へ、石炭化学•石油化学へと日本の化学工業近代史そのものの長い歴史を貫き通しています。


木綿織物産地と藍 –久留米絣

留米絣は寛政11年(1799)当時産業の少なかった久留米近郊に始まり、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、竹野、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。筑後藍は文化年間中に他国や大坂、江戸へと移出しています。

資料に残る阿波藍の九州への移出は、享保11年(1726)薩摩、14年筑前、肥前の各地に販売を始めています。藩内の筑後藍を移出できるほど栽培していても、阿波藍を文久元年(1861)に1795俵移入していることから、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされたと思われます。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになり、藍栽培もますます盛んになります。

 

明治時代は久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。明治10年着実に生産が増大するなか、新しい染料による粗製乱造で信用を失ったことから、販売業者によって販売と染色の責任を明確にするための組織がつくられます。久留米絣の染色に地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため徳島県に伝習生を派遣して、久留米絣の理念を守ります。

 

明治13年に小柄の絣緯糸が織貫の方法で容易に生産され、37年には絣糸製造機が発明され経糸も容易に作れるようになりました。さらに42年には中柄・小中柄の糸も機械括りができて量産が容易になりました。明治19年46万反、28年85万反、40年113万反、大正期100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。

 

明治中期以降インド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透しますが、久留米絣は組合によって厳重に天然藍の保護と染色の美しさ、堅牢度を守り、品質と信用を維持したのです。それでも40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入されます。染め回数の半減と着色力もよいことから、労力でも材料費でも生産効率がよい混合建(割建)が昭和40年頃まで用いられることになります。そして昭和37年頃よりナフトール染料へと転換します。

 

 


木綿織物産地と藍 –備後絣

留米絣、伊予絣に続き生まれた備後絣は富田久三郎が文久元年(1861)独自に考案した文久絣が基になったといわれます。『ヒストリー 日本のジーンズ』日本繊維新聞社発行(2006年)の記事「備中・備後紀行」のなかで逸話として、久三郎の不在時に来訪した阿波の某氏が絹織の「浮織」の技法を記した書を残し、久三郎はそれを研究して綿織物に応用し原糸を糸で括ることで、井桁文様を作りだすことに成功したと書かれていました。大変興味深い内容でいろいろ想像してしまいました。阿波の某氏とは藍商人のことだと思いますし、文久絣は始めから輸入紡績糸を使用して絣の生産を始めましたので、藍玉をたくさん売るため商品開発の助言をしたのではないかと思いました。文久絣の誕生は他の説が一般的なので信憑性はわかりませんが、阿波の藍商人の商売方法の一端を見るようでした。売場株を持っている藍商人の特長は持船で「のこぎり商法」といわれる行き帰りの商売をしていました。葉藍作りから蒅・藍玉製造まで一貫して行い、藍玉を自ら全国各地の売場に販売し、さらに売場先の国産品を買い入れて京都、大坂、藩内へと交易までも生業とする総合商社のような活動をしています。

 

明治になって備後絣と名付け大阪市場伊藤忠商店に200反を販売し、明治13年には年産11.5万反、44年33万反、昭和元年82万反と生産を増やし、その後は手織機から足踏機、8年には力織機の導入で10年には130万反まで生産しますが、戦争をはさみ衣料品統制規則が廃止されるまで停止します。27年には年産170万反、30年220万反、35年には330万反の最盛期を迎え全国生産高の7割を占めるまでに成長しました。

 

 

昭和30年三井化学工業株式会社と「三井インヂコ」の一括購入契約を結び、翌年には絣木綿織物「備後絣」の文字の商標登録が完了しました。昭和34年(1959)井伏鱒二『木靴の山』のなかで乙女の着る備後絣もほとんどが合成藍で染めた紺絣です。


木綿織物産地と藍 –伊予絣

 治32年(1899)に伊予織物の生産高は70万反余りで全国2位となります。享和年間(1801–1803)に京都西陣の花機を綿高機に改良して、縞木綿の生産を増やし松山縞・道後縞として他地域へ移出するようになりました。伊予絣は藩政時代には今出鹿摺と呼ばれ一部の地域でのみ織られていましたが、明治になると縞木綿より絣木綿の需要が増えます。伊予絣の生産全盛期は明治末から大正年間(1912–1926)で、全国の絣織物の半分を占める盛況ぶりだったと伝えられます。

 

今出絣株式会社村上霽月の親族である村上孝次郎が、明治32年3月に村上洋藍店を開業します。ドイツから合成藍の製造元、馬獅子アニリン・ソーダ化学工業会社(BASF)の特約店として販売を始めました。今出絣の会社沿革に記載された内容は、私が調べていた合成藍の輸入開始年度より一年早く、しかも伊予絣の生産高はその後数年で倍増するのです。続けて調べますと『藍に関する講話』明治36年4月発行の中でも32年に輸入が始まったと書かれていました。

 

1880年に藍の主成分であるインディゴの化学合成にバイヤーが成功し、BASFとヘキストが特許権を取得したときから合成藍の工業化は予想できたことです。1897年BASFによって工業化され量産が開始されました。しかし依然徳島の藍商人たちの意見は分かれ、大方は阿波藍を保守することを選び外国藍を扱うことを牽制しました。新興人造染料取扱い業者が先行する中、量産に出遅れたヘキストより価格で有利な合成藍が開発され、激烈な両社の販売競争となりました。乱売に疲れた徳島では、明治42年日本市場に対する独占販売機関大同藍株式会社を創設し、その後は新たに開発される有機化学染料の商社へと移行していきます。

 

この時の混乱は多くの資料を見ていて分るように、正確な輸入時期の特定ができていません。東京銀座の天狗煙草岩谷松平が初めて輸入したとも云われていましたが、BASFジャパンの沿革年表を見ると「1898年山田商店および柴田商店によって輸入開始」と書かれています。


日本の藍と明治 - 混合建(割建)という技術

政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基づき、翌年には先行して横浜港が開港、生糸貿易の中心となります。欧米の新しい技術、製品とともに輸入されたインド藍など染料関係は関東から浸透します。そして幕末の混乱から10年経った明治2年(1869)に漸く開港した神戸港に、インド藍や化学染料が輸入されるようになると、西日本の織物産地にも大きな変化が見られるようになりました。それでも京都など一部の需要者によって久留米絣や小倉織、柳井縞など阿波藍を使った木綿織の産地は支持され、阿波藍の需要は西日本の産地にシフトしていきました。しかしその後の合成藍の出現と新しい染料を使う技術の上達で、紺屋にも大きな変革の時期がきました。欧米では急速に天然染料から化学染料に変わりましたが、紺色に思い入れがあったのでしょうか、従来の青の希求から量産にも耐えられる天然藍に合成藍を混合して染める、混合建(割建)という技術を発明してしまいました。

 

明治40年頃から全国の紺木綿織産地の天然藍使用が急激に減少します。紺屋の規模により完全に化学染料になり機械化が進んでいく工場、混合建(割建)を選ぶ工場など変革を迫られ、大方は化学染料と合成藍を受入れる事を選びます。そして新しい青色の新橋色、金春色など純度の高い色が、ハイカラな雰囲気で欧風の感覚だと花柳界から流行色も生まれました。商品の競争にも明暗が生じます。この頃から「藍色」の色名が多く見られるようになり、「はなだ・縹」「花色」「千草」「浅葱」の色名は少なくなります。天然藍だけを選んだ織産地は昭和になるころには衰退します。天然染料だけだった江戸時代には「藍色」の使用は少ないことから、この時期から使われだした「藍色」を当時の人たちは合成藍だと意識して使用し始めたように思われます。

 

 

藍の生産は明治36年の15099haを最高に、明治40年7542ha、大正元年2888ha、昭和元年には502haになりました。日本でも合成藍の製造が行われるようになり、昭和16年40ha、昭和40年には4haまで減ることになります。

 


高原義昌•田辺脩『細菌による藍の工業的還元に関する研究』

治31年に合成藍の輸入が始まり、大正時代になると天然藍は衰退します。消滅しようとしている技術の解明や染色方法の説明も衰えていくのはわかりますが、化学染料の普及が終わると昔の染料への懐古が生まれ、僅かですが日本では天然藍が使われ続けました。転換期にインド藍(藍靛)や合成藍との折合いから、世界でも珍しい割建てという曖昧な技術を生み出し、現場は様々な情報があふれていました。同じように見える藍瓶でも、経営者の仕事の選択によって使われる染料、添加する材料が著しく異なった状態で「藍染」として存在していました。戦後「本物」と称して藍染が注目されたときから、伝えるべき情報が現実から乖離した言葉だけの内容になって、益々混乱したように思います。

 

『細菌による藍の工業的還元に関する研究』高原義昌•田辺脩(1960年工業技術院発酵研究所)による論文があります。藍還元菌の生理形態の究明と醗酵建の菌学的研究です。公的機関での研究は初めてだったかもしれません。「細菌(バクテリア)による天然藍の還元、いわゆる醗酵建は有史以前から行われているにもかかわらず、その実態は全く不明で各地の染色場においては古来からの言い伝えや長い間の経験と‥‥」藍染を行っている現場の管理技術や醗酵時間の短縮など、合理化と染色生産費の低下も見据えての研究だったと思います。研究結果は有意義なこともあったかとも思いますが、残念な結果も報告されています。

 

 

「醗酵過程において細菌や酵母の関与で炭酸ガスと水素が生産されるといわれてきたが、乳酸、ピルピン酸、蟻酸、酢酸の検出による炭酸ガスの発生のみで、酪酸は検出されず水素の発生は認められなかった」と報告されました。このことで酪酸醗酵、乳酸醗酵による水素によって還元するという従来の説を否定しました。藍の含有糖分や麸などの澱粉の糖化作用も否定されています。現在ではどちらの説明が有力なのかははっきりしてきましたが、この時点で後藤捷一氏など従来の原理は支持を得られないことになったように思います。大掛かりな機材を使って、却って醗酵のシステムを考えるうえで混乱が生じました。明治の研究者中村喜一郎は「藍玉濁建」「藍玉澄建」は灰汁を使って説明しています。そして「苛性曹達建」「灰汁建」との区別もしていますが、発酵研究所の試験の藍染は苛性ソーダで行っています。30年藍染をしているだけの微弱な経験からですが、この違いは大変大きいことだと考えます。


変わった新しい藍色の区別

治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。

 

絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。

 

昭和3年工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)

この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。

 

 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家

 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者

 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者

 「本染」    上村六郎 上代染織史学者

 「古代植物染」 後藤博山 染織家

 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者

 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

 

 

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。

 


後藤捷一 三木文庫設立に尽力

格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも必ず読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。私ごときが紹介するのはおこがましいのですが、語らせてください。

 

明治25年(1892)徳島市国府町の藩政時代から続く藍師の家で生まれました。後藤家は組頭庄屋を勤めた旧家で、後藤家文書は組頭庄屋関係史料を中心に経営史•農政史•藩制史•商業史•文化史と多様な内容で村落史研究に活用されています。戸谷敏之『近世農業経営史論』(日本評論社 1949)の中で阿波と摂津の農業が特殊な経営であると、後藤家文書の経営史料を使い論証しています。

 

徳島工業学校染織科卒業後、大阪で社団法人染料協会書記長を勤め内外染料の研究や『染織』の編集、近畿民俗学会にも参加し、藍の民俗的研究も始めていました。戦争によって染料会館が爆撃され、昭和19年染料会社・三木産業に勤務、退職後は民俗学研究家の渋沢敬三のすすめで徳島の三木家の古文書、藍関係資料の整理を行い三木文庫設立に尽力しました。

 

三木文庫は全部が祖先以来歴代の事業からの史料なので、門外不出として公開されていなかった史料でした。昭和29年(1954)当主の決断で創業280年記念事業として開館しました。阿波藍関係文書2,000点、藍関係緒用具類150点、藍染布類200点、天然色素とその標本の染布類300点、一般庶民資料12,000点が展示されています。他にも阿波の桍布(あらたえ•太布)、和三盆糖、人形芝居の関係資料、その内容は木綿普及以前の織布や機具類、和三盆糖製造用具類一切を収め、県、国の重要民俗資料に指定されています。

 

後藤捷一氏の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻書、染織見本帳、錦絵など671点からなる目録と解題『日本染織文献総覧』をまとめました。『阿波藍譜』全6冊 三木文庫『染料植物譜』(1937)はくおう社『絵具染料商工史』(1938)『江戸時代染織技術に関する文献解題』日本植物染研究所1940.1『日本染織譜』(1964)東峰出版『古書に見る近世日本の染織』(1963)大阪史談会『日本染織文献総覧』染織と生活者(1980)などの著作は約100点に及びます。

 

なによりも尊敬することは、博識と多方面にわたる教養を併せ持った後藤捷一氏が『あるくみるきく』近畿日本ツーリスト 1976.11の特集の中で、藍染に関わる誰よりも正確に藍の醗酵建を記され、青の生まれるメカニズム―醗酵によって生じる化学変化の様子を独自の説明で教えてくれたことです。


青色色素を藍菌が還元するメカニズム

めて徳島で藍染の話しを聴いたとき、染液の表面が紫紺色なのは藍の色素が酸化しているからで、液の中は青味は無く少し赤味の海松茶色なのが不思議でした。今では藍の色素が水に溶けないことも、還元と酸化の化学変化で色を失って水溶性の染液をつくることも、布や糸が浸透しただけでは青く染まらないこと、染液から空気のある世界にふれた途端に酸化して、また元の青い色素に戻ってくること、が当り前のことに思える日々を過ごしています。

有機物を含む蒅(すくも)のなかには多くの細菌(バクテリア)が生息していて、その数は数えきれないようです。というより、調べたことはないのでは…と思ったりします。藍の還元にとって有用な細菌は嫌気性の性質をもっているから、できるだけ染液に空気を入れないように、静かに作業をすることが求められています。一方染めの仕事が終わった後は必ず、下に沈んでいる蒅が浮上するくらい強く撹拌をします。当然、染液のなかに空気が混ざり液が酸化されます。強アルカリ性を好む細菌の活動によって、細菌がつくりだす酸によって染液の下層のアルカリが低くなっていきますので、均一にするということは想像できますが、あまり撹拌し過ぎるのはどうなのかなと、矛盾する行為なので長く疑問に思っていました。

 

以前から藍の還元に有用な細菌は5~6種類であるといわれていましたが、どんな働きをしているのか少しずつ解ってきました。最近になってそれぞれの細菌の研究が進み、好アルカリ性乳酸菌であるAlkalibacterium 属の細菌は嫌気性微生物であり、藍染液の中層から下層の嫌気条件下で糖から乳酸を生産することで藍を還元します。一方Halomonas 属の好気性・好アルカリ性乳酸資化菌も存在していて、蓄積された乳酸を栄養源として利用しつつ、酪酸を蓄積して微生物共生系を安定に維持することで、役立っていると考えられているようです。藍の還元に有用な好アルカリ性乳酸菌は他にも何種類も分離されていて、もっと詳しいことがいずれ解る日がくると思います。

 

 

日々観察することで藍細菌の管理を、的確に行なってきた先人たちの素晴らしさを誇りに思います。


藍の青色色素を醗酵によって水溶性にする!?

の染色は他の植物による染めと比べると大きく違うことがあります。藍の葉に含まれる青色素が水に溶けないため、容易に染色することができません。正確に伝えますと、しばらくの間は水に溶けるのですが、すぐ水の中で溶けない物質に変わるのです。色素が水に溶けるということは、染める対象の繊維に浸透することで色素が固着し、より強固に固着するため媒染剤という両者を取持つ物質の力も有効に利用できます。

 

そこで藍の色素を水に溶かし、布や糸に浸透できる状態にする技術が考えだされました。建染染料である藍は、還元と酸化という化学反応によって物質を変化することで、一時的に化学構造を変えアルカリ水溶液に溶かし染め、空気で酸化させ固着します。酸化還元反応は18世紀には明らかにされて、生活の中で一番身近な化学反応なので化学薬品の豊富な現代においては容易に行うことができます。人類はこの還元を化学薬品のない古代から、醗酵という技術で活用してきました。葉藍から〈すくも・蒅〉に加工する間に藍菌と呼ばれるアルカリ性で活動する細菌が植付けられ、染液にする過程で大量の有機物と木灰汁の中で増殖し、醗酵という作用で青色素(インジゴ)を還元します。葉藍や蒅を化学的に還元剤を使って還元する作用とは明らかに違うメカニズムが生じていることと思います。このことが曖昧なまま解釈が先行した結果、多くの誤解を生むことになりました。

 

本来藍の葉に含まれる青色素は容易に染色できないのです。醗酵によってやっと水溶液に溶け、繊維に浸透し空気によって酸化した青色素は、また溶けない物質に変わっているはずです。建染染料は顔料のように付着染料ともいわれるように、摩擦により他の繊維に付く性格もあります。しかし青色素に染まる力がないのであれば他のモノに染め付くことはないと思います。

 

 

近代の藍染製品の特長として、一緒に身に着けている白、薄い色のものを藍で染めてしまい、着用する際は気をつけることが通常となっています。一体どのような藍なのでしょうか。


HANADA倶楽部ー徳島市眉山の麓にある藍染工房です

藍 と人との関わりが始った古い時代から現在までの情報を整理、発信します。

HANADA倶楽部は徳島市内の東西に細長く山裾を広げた「眉山」の麓にあります。

 

吉野川の河口に位置するこの辺りは古代では海の中です。

小島であった「眉山」は聖なる山とされ、一切の民を住まわすことが禁じられていました。

標高290mの山頂に続く登り口には必ず神社寺院があり、その境内から登るように登山道がつくられていました。

名前の由来は、天平6年(734)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕したときの歌として、「眉(まゆ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも」船王:ふねのおおきみ 万葉集に詠まれています。

何時のころから「眉山」と呼ばれるようになったのか分りませんが、古くは風光明媚な吉野川の三角洲が、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭津、渭山(いのやま)と呼ばれていました。室町時代に室町幕府の管領、細川頼之が渭津城(徳島城)を築きました。

 

 

眉山山頂からは徳島平野を一望でき、天気のよい日には淡路島や対岸の紀伊半島まで見ることができます。

 

1992年に設立しましたが、展覧会中心の活動でした。これからは藍講座を開催したり、オープンアトリエを設けるなどの活動も考えています。アトリエでの藍の仕事にほとんどの時間をとられていますが、ご要望などありましたら連絡下さい。

 


0 コメント

          カテゴリ

      藍のはなし(古代~中世) 

      藍のはなし(近世)

      藍のはなし(近代)

      藍のはなし(現代) 

      阿波藍商  

 

藍染のこと

藍でつくられた色

藍−公的機関での状況 

藍と阿波